4 一族の秘密
それからというものの、エルゼは今までの怠惰っぷりが嘘のように勉強に励んだ。
「姫様、この中でベルガーデン産の紅茶はどれでしょうか」
「えっと……一番右かしら」
「残念! 中央のティーカップです」
「はい、そこでお辞儀を……こら! スピードが速すぎるわ! 今のあなたは野山を駆けるウサギじゃなくて大国の皇子の花嫁候補なのよ!? もっと優雅に! ゆっくりと!」
「うぅ、お母様厳しい……」
「このくらいは当然よ!」
「エルゼ、エルンスタールのディートマー大王がヴェルダムに凱旋したのは何年の出来事かわかる?」
「う、それは……お姉様! ヒントをちょうだい!」
「ふふ、だぁめ。お母様に甘やかしちゃダメって言われているの」
礼儀作法、知識、教養……マグリエルの王女としてどこに出しても恥ずかしくないように、ありとあらゆるレッスンに明け暮れた。
くじけそうになることもあったが、あの夢の光景を思い出せばこのくらいなんてことはないと乗り越えることができた。
次第に、「すぐに諦めるだろう」と高をくくっていた周囲の態度も変わり始める。
真剣に、エルゼを「花嫁候補」として育て上げようとしてくれているのだ。
そして、もう一つ。
マグリエル王国の王女として、エルゼには忘れてはならないことがあった。
「まだ先だけど、エルゼが出発する日の天気を詠んでみたんだ。まるで天が祝福してくれているような快晴だったよ」
「ありがとう、お兄様。嬉しいわ」
兄のオルトヴィーンと共に城のバルコニーへ繰り出し、エルゼは眼下に広がる光景を眺める。
城から伸びる道を下っていくと、城下町の大通りへと繋がっていく。
通りでは人や馬車が行き交い、煙突から煙が立ち上る建物の姿も目にすることができる。
人々の営みを感じさせるこの光景は、いつもエルゼの胸を温かくしてくれる。
城下町の周囲には雄大な山々が広がっており、まさに宝石のようだった。
(この光景を守るためにも、頑張らなきゃ)
そう決意を固めるエルゼの横で、オルトヴィーンはゆっくりと口を開いた。
「さて、エルゼ。僕からは……『先詠み』の一族として必要なことを伝授するよ」
重々しく頷いたエルゼに、オルトヴィーンは続ける。
「まず、一番大事なのは……絶対に、僕たちが『先詠み』だと知られてはいけないことだ」
兄の言葉を、エルゼはじっくりと噛みしめた。
マグリエルの王族は、代々「先詠み」と呼ばれる不思議な力を受け継いで生まれる。
男子なら好天や豊作などの吉兆を、女子なら嵐や干ばつと言った凶兆を詠むことができるのだ。
だが、その事実を知るのは王族に連なる者とごく少数の側近や司祭など、わずかな者のみ。
この国で暮らす民の多くは、自国が「先詠み」の力によって守られていることも知らないのだ。
「僕たちのこの力は人々を守るためにある。決して人を陥れたり、自らの欲望を満たすために使ってはならない」
「……えぇ、わかっているわ」
あの悪夢を除いて今まで一度も「先詠み」の力を発揮できたことのないエルゼだが、その鉄則については幼いころから何度も何度も教えられてきた。
それほどまでに、「先詠み」だと知られることは危険なのだ。
「かつて『先詠み』の一族は偉大な王に仕えていた。だが一族の中によからぬことを企む者が現れ、私利私欲のために先詠みの力を使った結果、大きな争いを引き起こしてしまった。『先詠み』は迫害され、散り散りになって逃げだし、僕たちの祖先はここにたどり着いた」
――マグリエル王国の本当の建国史。
初めてその秘密を教えてもらった時は、エルゼもわくわくしながら身を乗り出して聞いたものだ。
「たどり着いたのがここでよかったわ。今までずっと平和に過ごしてこられたんだもの」
「あぁ、僕も心からそう思うよ」
この小さな王国は建国以来大きな争いに巻き込まれることなく、今日まで平和に続いている。
この穏やかな日々を守ることこそが、王族に生まれたエルゼの責務だ。
(今はまだ、リヒャルトも私たちが「先詠み」だってことは知らないはず……)
おそらく未来では、なんらかの事情でマグリエルの王族が先詠みの一族だということを知り、滅ぼしに来るのだろう。
(その前に彼の妃になることができれば、彼はここに手出しはできない……!)
あらためて決意し、エルゼは胸を張ってみせた。
「大丈夫よ、お兄様。私、なんとしてでもリヒャルト皇子の妃になってみせるわ」
だがエルゼの宣言を聞いたオルトヴィーンは、困ったように笑うのだった。
「……エルゼ、頑張るのはいいけどあまりエルンスタールの方々を困らせないようにするんだよ。僕の胸は空いているから、泣きたくなったらいつでも帰っておいで。たとえリヒャルト皇子に振られたとしても、お前は僕たちの大切な家族で、皆に愛される王女なのだから」
(お兄様……やっぱり振られる前提なのね!)
兄の優しい言葉に胸がいっぱいになりかけたが、結局は彼もエルゼがリヒャルトの妃に選ばれるとは思っていないことに気づいたエルゼは思わず脱力した。
(まぁ、それはそうか……)
エルンスタールはマグリエルなどとは比べるべくもない大国だ。
こんな小国にまで花嫁候補を募っていることを考えると、それはもう各国から選りすぐりの優秀な女性を集めていることだろう。
普通に考えれば、エルゼが選ばれる可能性は万に一つはない。
だが――。
(私には、なんとしてでも彼の妃にならなければいけない理由があるのよ)
いずれこの国に訪れるであろう最悪の未来を回避するため。
どんな手を使ってでも、リヒャルトの妃にならなくては。
「もぉ、お兄様ったら! リヒャルト皇子の妃になったら盛大な結婚式を開くから待っててね!」
明るくそう言うと、オルトヴィーンは一瞬驚いたような顔をしたのち……嬉しそうに笑った。
「ふふ、それでこそ僕たちのエルゼだ。思うがままに頑張っておいで」
優しく頭を撫でられ、涙が出そうになる。
……このぬくもりを、失いたくない。
(私の大切な人たちを、絶対に守ってみせる)
そのためなら、なんだってする覚悟はできている。