32 第一皇子
一方エルゼと別れたアーベルは、一人宮殿の回廊を歩いていた。
すれ違う者たちは、誰もアーベルに気を留めはしない。
影のように歩むアーベルは、さりげなく銅像の陰の隠し通路へと身を滑り込ませる。
そのまま暗い通路を通り、扉を抜けると……目の前に広がるのは煌びやかな内装の区画だ。
そのまま自室へ帰り着き、大きな鏡の前でアーベルは顔を覆うような分厚い眼鏡を外す。
そして、頭部に手をやり被っていた鬘も外した。
解放感に大きく息を吐き鏡に目をやると、そこには「田舎の青年アーベル」とは似ても似つかない人物が映っていた。
艶やかな金茶の髪に、憂いを秘めた輝きを宿したエメラルドの瞳。
物憂げなその顔を見つめていると、背後から足音が聞こえてくる。
「おかえりなさいませ、アルブレヒト皇太子殿下」
その声に振り返ると、そこには美しい女性が微笑んでいた。
――エルンスタール皇国皇太子妃ヨゼフィーネ。
アーベル……いや、皇太子アルブレヒトの妻だ。
ヨゼフィーネはアルブレヒトの行動に驚くことなく、近くの椅子に腰を下ろし問いかけた。
「今回の選考はいかがでしたか?」
「試験官制度が導入されたことにより、表立っての妨害工作は阻止できたように思う。リグナー公爵令嬢は優秀な評価を得ていたが、それは彼女の実力だろう」
「ふふ、それで……あなたがついているマグリエルの王女様はどうでしたの?」
アルブレヒトはヨゼフィーネの方を振り返った。
こちらに視線を向ける彼女は、純粋にこの状況を楽しんでいるようだ。
「彼女もリグナー公爵令嬢と同等の評価を得ていたよ」
「それはようございましたわ」
アルブレヒトは先ほど別れたばかりのエルゼのことを思い出した。
辺境の小国出身の、一風変わった王女。
もしかして彼女ならリヒャルトを変えられるのではないかと、アルブレヒトは一抹の希望を抱いていた。
リヒャルトはアルブレヒトの異母弟に当たる。
誰にも心を開かず、冷たい目をした弟。
……そんなリヒャルトを、アルブレヒトは救いたいと思っている。
だがアルブレヒト自身では無理なのだ。
リヒャルトの凍り付いた心を溶かすには、もっと別の相手でなければだめだろう。
そんな中で出会ったのがエルゼだった。
最初は、ただ単に今回の花嫁選考会の進行に疑義を抱いただけだった。
リヒャルトが無関心なのをいいことに、特定の花嫁候補に有利に進むように不正が行われているとの情報を手に入れた。
妻であるヨゼフィーネに相談したところ、「でしたらあなた自ら花嫁選考会に潜入し、是正を図ってはいかがでしょうか」と、とんでもない提案をされてしまった。
リヒャルトの行く末を案じるアルブレヒトは、結局はヨゼフィーネの提案通りに「文官アーベル」という架空の人物に扮し、試験官として花嫁選考会に関わることにしたのである。
……マグリエルの王女、エルゼの担当となったのは偶然だった。
ただの数合わせとしか思われていなかった辺境の小国の王女は、どういうわけか有力候補であるリグナー公爵令嬢と同等の高評価を得ている。
そのせいで、リグナー公爵の息のかかった者たちには蛇蝎のごとく嫌われ、妨害工作を受けているようだった。
最初は、彼女に対する裏工作を阻止し、花嫁選考を公平に進行させられればそれでいいとおもっていた。
だが、エルゼに会ってアルブレヒトの考えは変わった。
――「よろしくね、アーベル! エルンスタールに来たばかりでわからないことも多いから、いろいろ教えてくださると嬉しいわ」
初めて会った時、彼女はそう言って満面の笑みを浮かべたのだ。
その姿にアルブレヒトは衝撃を受けた。
ヨゼフィーネを含めアルブレヒトの知る王侯貴族の女性は、エルゼのようにわかりやすく感情をあらわにすることは少ない。
だが彼女は初めて会ったその時から、あまりにも喜怒哀楽がわかりやすかった。
それを「はしたない」と眉をひそめる者もいるだろう。
だがアーベルにとっては、その無防備ともいえる感情の発露が、どこかあどけなさを残した満面の笑顔が、好ましいものに映ったのだ。
選考の評価だけではなく、彼女は他の花嫁候補にはないものを持っている。
それがリヒャルトを救うカギになるのではないかと、アルブレヒトは願わずにはいられなかったのだ。
エルゼのことを考えていると、いつの間にか口元に笑みが浮かんでいたようだ。
それに気づいたヨゼフィーネが、いたずらっぽく声をかけてくる。
「ふふ、随分とエルゼ王女のことがお気に召したようですわね。わたくしもお会いしてみたいものですわ。ねぇ、お茶に誘ってみてもいいかしら」
「今の状況で彼女に特別な目をかけると、逆に妨害を誘発しかねない。もっと選考が進み花嫁候補が絞られてきた段階になったら、エルゼ王女を含めそれぞれの候補と面接を入れてもいいかもしれないね」
「それまでにエルゼ王女が潰されないように、きちんと守って差し上げてくださいな」
ヨゼフィーネはそう言って、愉快そうに目を細めた。
彼女はアルブレヒトの妃であり、彼女自身も数年前の花嫁選考を勝ち抜いてきている。
互いに愛し合って結婚したわけではないが、アルブレヒトはヨゼフィーネに絶大な信頼を寄せている。
そのヨゼフィーネがエルゼを気にかけているのだ。
自分の直感は間違っていなかったのだと、アルブレヒトはほっとした。
「あぁ、そのつもりだよ」
リグナー公爵、そして娘のグロリアはなんとしてもリヒャルトの妃になろうとするだろう。
彼女たちは想定していなかった今の状況に焦っているはずだ。
今後、どんな過激な手に出るかわからない。
……しっかりとエルゼを守らなくては。
そう自分に言い聞かせ、アルブレヒトは大きく息を吸った。