30 今は、それだけじゃない
「でね、その試験官って言うのがすごく真面目そうな人で――」
『エルゼとは正反対だね』
「こら~」
『ひゃ~』
生意気なことを言うシフォンのお腹をこちょこちょとくすぐると、シフォンはひっくり返ってきゃっきゃと笑った。
そんな中、コンコンと扉をノックする音が聞こえ、エルゼは思わず飛び上がってしまった。
「はっ、はい!」
慌てて応対すると、そこに立っていたのは今話していたばかりのアーベルだった。
「ど、どうかしましたか?」
驚きながらそう問いかけると、アーベルは平然と答えてくれる。
「次の選考に関してのご連絡です。明日の正午よりアメトリン宮の『天空の間』にて、音楽の素養を問う選考が催されます。つきましては私がお迎えに参りますので、エルゼ王女には次のような準備を――」
事務的な対応を続けていたアーベルの視線が、不意にエルゼの足元へと移る。
いったいどうしたのかと視線をやり、エルゼは仰天した。
「ぎゃー! シフォン!?」
なんと、エルゼの足元までやって来たシフォンが興味深そうにアーベルを見上げているではないか。
くりんとしたつぶらな瞳は大変愛らしいのだが、エルゼはそれどころではなかった。
(ど、どうしよう……無許可でウサギを持ち込んだって怒られる? それよりもシフォンが精霊だってバレたら大変なことにならない?)
おろおろとするエルゼに、アーベルは至極真面目に問いかけた。
「そのウサギはエルゼ王女のペットでしょうか」
「えっと……そのようなものです」
ごにょごにょと濁しつつ応えると、アーベルの視線がこちらを向く。
「……無許可でウサギを持ち込んだのは申し訳ございませんでした。ですがこの子は吠えたりもうるさく鳴いたりもいたしません。ちゃんと洗っているから匂いだって臭くないし、餌は私の食事を分け与えています。これからも絶対に迷惑はかけませんから、どうかシフォンを取り上げないでください……!」
この小さな友人は、見知らぬ土地で孤軍奮闘するエルゼにいつも勇気を与えてくれるのだ。
ここで離ればなれになってしまったら……と思うと、まるで心が引き裂かれるかのようだった。
アーベルは必死に頭を下げるエルゼを見つめ、口を開く。
「別に構いませんよ」
「え……えっ!?」
「今回の花嫁選考に関する規定についてはすべて暗記していますが、『ウサギを持ち込んではいけない』という条項はありません。とはいっても、他の者に見つかってしまっては難癖をつけられる恐れもあります。できる限り、見つからないように隠しておくのがよいでしょう」
「は、はい……」
「それでは、また明日にお迎えに上がります」
それだけ言うと、アーベルは深々と頭を下げ帰っていった。
残されたエルゼは、ぽかんとしながらその背が遠ざかっていくのを見送る。
『なんか変な人だったね』
自分が危機的状況だったことも知らないシフォンは、のん気にそんなことを言っている。
そんなシフォンを抱き上げながら、エルゼは安堵の息を吐いた。
「さっきは真面目そうな人だっていったけど訂正するわ。思ったよりも融通が効く人ね」
『エルゼ、嬉しそう』
「そりゃあそうよ! 担当の試験官っていうからには最後までお世話になるだろうし、仲良くやりたいじゃない?」
アーベルが思ったよりもとっつきやすい人物でよかった。
(まずは明日の選考ね。アーベルをがっかりさせないためにも頑張らないと!)
シフォンを抱き上げたまま上機嫌にステップを踏み、エルゼはそう気合を入れるのだった。
◇◇◇
「で、私たち一人一人に試験官がつくことになったんです! 私についてくださった方は一見気難しいタイプに見えるんですけど、実は話が通じる方で――」
「…………」
今日も今日とて廃教会を訪れたエルゼは、偶然リヒャルトに遭遇した。
さっそくアーベルのことを話すとリヒャルトはうんざりしたような顔をしたが、何故だかエルゼを追い払おうとはしなかった。
「明日は音楽に関する選考があるそうです! リヒャルト殿下もいらっしゃいますか?」
「……そんなものに興味はない」
「なぁんだ。せっかく殿下に私の美声をお披露目する機会だと思ったのに。あっ、なんなら今聞いていかれます?」
「やめろ」
どうみてもリヒャルトは塩対応だが、エルゼはそれでも嬉しかった。
今こうして同じ空間にいても、リヒャルトはエルゼを殺そうとはしない。追い払おうともしない。
単に今日は(顔に出ないだけで比較的)機嫌がいいだけなのかもしれないが、これまでのことを思えば大きな進歩だと思える。
「さすがに選考が進めばガーデンパーティーの時みたいにリヒャルト殿下もいらっしゃいますよね? その時までにエルゼの名前をとどろかせておきますから、覚悟しておいてくださいね!」
そう宣言すると、リヒャルトは不意にこちらを向く。
「お前は……」
「はい?」
「何故そんなにエルンスタールの皇妃になりたがるんだ」
まるで内面を見透かすかのようなリヒャルトの視線に、エルゼは思わずどきりとしてしまう。
(私がエルンスタールの皇妃になりたい理由は……)
まず頭に思い浮かぶのが、「先詠み」の力で視た故郷が滅ぶ悲惨な光景だ。
あの未来を回避するために、エルゼはここへやって来た。
だが――。
(今は、それだけじゃない)
顔を上げ、エルゼはリヒャルトを見つめ返す。
最初は恐ろしいだけだった。
だが彼の奥底に潜む深い悲しみを見つけてしまってから、どうにもそれだけではなくなってしまったのだ。
(私は……もっとあなたのことを知りたい)
故郷を救うためだけではなく、今は心からそう思っている。
「……私がなりたいのは『エルンスタールの皇妃』ではなく、あなたの花嫁です」
思わずそう言ってしまってから、エルゼははっとした。
(わっ、私ったらなんて恥ずかしいことを……!)
幼いころから恋愛物語を読んで姉ときゃあきゃあ騒いだことはあれども、エルゼは一度も恋愛経験がなかった。
リヒャルトのことだって、今までは「彼の妃になれなければ未来はない」と必死だった。
だから……「結婚相手」としてリヒャルトを意識したのは、もしかしたらこれが初めてだったのかもしれない。
「えっと、今のは、その……」
「…………ふん」
まごまごと弁解するエルゼに背を向け、リヒャルトは速足で去っていく。
(図々しいし、考えが浅いって呆れられちゃったかしら……)
しゅんとするエルゼは気づかなかった。
こちらに背を向けるリヒャルトが、その実かなり複雑な表情をしていたことに。
彼が立ち去ったのはエルゼに呆れたからではない。
ただ単に、どうしていいのかわからなかっただけなのだと、エルゼは知る由もなかった。