22 これは世を忍ぶ仮の姿!
「でね、その時のリヒャルト皇子がものすごく怖かったんだから! もうちょっとで腰を抜かすところだったわよ」
翌日、エルゼはいい子でお留守番をしていたシフォンにガーデンパーティ―の出来事を聞かせていた。
くんくんと鼻を鳴らしたシフォンはめざとくエルゼが持ち帰って来たお菓子を見つけ、今は嬉しそうにぱくついている。
「ふふ、そんなに急いで食べなくてもお菓子は逃げないわよ」
『んみゅ』
食べかすを口の周りにぼろぼろとつけたシフォンに、エルゼはくすりと笑う。
口の周りを綺麗にしてやると、シフォンはじっとエルゼを見つめた。
『そのリヒャルトって、悪い人なの?』
「うーん……」
シフォンの問いに、エルゼは即答できなかった。
彼は将来エルゼの祖国であるマグリエルを滅ぼすことになる。
そう考えれば、とんでもない大悪党だと言いたいところなのだが……。
「正直……わからないのよね」
ここへ来てリヒャルトに対峙したとき、エルゼは彼の瞳の中に深い悲しみを見た。
そのせいだろうか。
彼のことを「血も涙もない冷酷無慈悲な悪人」だとは断言できないのだ。
(私は彼のことを何も知らない。どうしてマグリエルを滅ぼすのか、「先詠み」を嫌っているのか。……それに、彼の抱える深い悲しみの理由も)
エルゼは何も知らない。だったら――。
「知っていけばいいのよ!」
『わっ!?』
急に立ち上がったエルゼに、シフォンは驚いたようにぴくりと耳を震わせた。
「行くわよ、シフォン!」
『リヒャルトを探しに行くの?』
「もちろん!」
知らないのなら知っていけばいい。
ここでうじうじ考えていてもリヒャルトのことはわからない。
だったら行動あるのみだ。
こっそりと拝借したお仕着せに着換え、窓からロープを降ろしするすると降下する。
既に何度も部屋から抜け出しているエルゼにとっては、もはや簡単な作業だった。
「リヒャルトはどこかしら……」
きょろきょろと周囲を見回すエルゼに、腕の中のシフォンが声をかけてくる。
『前に会ったあそこにいるんじゃない?』
「あの廃墟みたいなところ? そうね……」
どうせ、他に当てもない。
ダメもとであそこにいってみよう。
そう決めてエルゼは駆け出した。
湖から風が吹きつける、島の端。
例の廃墟はこの前と同じく、物寂しい佇まいをしていた。
果たしてそこに……リヒャルトはいた。
(ほ、本当にいた……!)
彼は前回と同じように、一人でじっと廃墟を見つめていた。
もしかしたら……とは思っていたが、実際に彼の姿を目にすると緊張してしまう。
足を止めたエルゼに、シフォンはきょとん、と瞳を瞬かせた。
『どうしたの、エルゼ?』
「いえ……ちょっと緊張しちゃって」
だがいつまでもここでじっとしているわけにはいかない。
せっかくのチャンス、存分に生かさなければ。
エルゼは大きく深呼吸をすると、意を決して足を踏み出す。
「ね、約束通りまた会えるって言ったでしょう?」
足音に気づきこちらを振り返るリヒャルトに微笑みかけると、彼は不快そうに眉根を寄せた。
「お前は……」
彼が記憶を反芻しているのだと気づき、エルゼはにっこりと笑う。
「先のガーデンパーティー以来ですね、リヒャルト殿下」
その言葉で、リヒャルトは王女として出会ったエルゼの存在を……さらにはその前にここで会った使用人のことを思い出し、その二人が同一人物だと気づいたのだろう。
いつも表情が動かない彼にしては珍しく、驚いたように目を丸くしていた。
「……その格好はなんだ」
無視されるかとも思ったが、彼にも好奇心というものはあったらしい。
まじまじとエルゼの頭のてっぺんからつま先までを眺め、リヒャルトは不可解そうにそう問いかけてくる。
彼がそう思うのも無理はないだろう。
普通、花嫁候補として集められた他国の王女が、使用人の格好をしてそのあたりをうろうろしているとは思わない。
「これは世を忍ぶ仮の姿! 王女が使用人の振りをしているってシチュエーション、心が燃えません?」
エルゼがポーズを決めながらそう言うと、リヒャルトは呆れたような顔になる。
若干引かれているのがわかったが、それよりも彼の表情が動いたことがエルゼは嬉しかった。
「リヒャルト殿下はお忘れかもしれないからあらためて自己紹介しますね。マグリエル王国第二王女、エルゼと申します!」
リヒャルトは何も言わない。
だがここで退いてはダメだと、エルゼはテンション高く続けた。
「マグリエル王国ってご存じですか? ここからずっと東にある小国で、辺境のド田舎なんて言われることもありますけど……その自然美は他国の追随を許しません! 殿下も都会での生活に疲れた時は是非リラックスに訪れてくださいね!」
リヒャルトからの応答はない。
だが、エルゼとて負けるつもりはなかった。
「草原に寝そべって星空を眺めたことはありますか? 私はあります。それも何度も! 世界と対話をしているって感覚がたまらないんですよね~。それと――」
「おい」
初めて、リヒャルトの方から声をかけてきた。
驚きに目を丸くするエルゼに、彼は詰問するような口調で問いかける。
「なぜあの茶に薬が仕込まれているとわかった」
彼が口にしているのは、昨日のガーデンパーティーでの一件だ。
最初にカリーナ王女の手にしていたお茶に疑義を抱いたのはエルゼだ。
中身は毒物なのではなく、おまじない程度の媚薬だったが……エルンスタールの茶器でも検出できない成分をどうしてエルゼが見破れたのか気になったのだろう。
たとえどんな内容でも、彼が興味を持ってくれたことがエルゼは嬉しかった。
「ふふ、それはずばり……匂いです!」
エルゼが得意げにそう告げると、リヒャルトはあからさまに顔をしかめた。
「匂い、だと……?」
「えぇ、そうです! カリーナ王女があのお茶を淹れ始めた時に、ちょっと変だなって思ったんですよね。なんていうか、危険な匂いがしたっていうか。カリーナ王女に悪意はなかったんでしょうけど、リヒャルト殿下だってどんな効果のあるお茶なのか知ってから飲んだ方がいいと思ったんです」
エルンスタールの法律でどんな扱いをされるのかは知らないが、影響が軽微だからといって知らないうちに変な効果のあるお茶を飲まされるのは誰だって嫌だろう。
エルゼだって、大事な場で笑いが止まらなくなるお茶などを飲まされたら困る。切実に困る。
だから、何か変わった成分が入っているのならきちんと申告するべきだと思ったのだ。
……思った以上に大事になってしまったが。