京香編 7-7
二十三歳になった俺は、研究室でパソコンのキーボードを叩いていた。一時間半も論文を書き続けていたので、一旦画面から目を離し、眉間をしばらく摘まんだあとコーヒーを啜った。そして最近の京香の様子が、おかしい事に気をやった。食事の時も何だか様子が変なのだ。いくら女心に鈍いとはいえ、京香に関しては敏感になっている。
「たぶん結婚か……」そう言って、もう一度コーヒーを啜る。京香の事だから、俺に気を使って結婚の話はしてこないだろう。
俺はまだ学生の身で収入もないが、就職先はもう内定している。
その日は早めに上がり、銀座へ指輪を見に行った。浪費家ではないので、ある程度の貯金はある。それに京香がずっと貯めていたR貯金も俺は自由に使える。
今までR貯金には手を出さなかったが、やはりある程度の物は贈りたい。
ただかなりの額が溜まっているR貯金の額を見ると、高校生の頃、栞から殴られながら言われた言葉を思い出した。
「ははっ、本当にヒモみたいだな」と自虐的な言葉がついて出た。
京香を連れてくれば、とも思ったけど、やっぱりサプライズで贈りたい。自身、ファッションのセンスは無いことは分かっていたので、デザインは店員さんの勧める流行のものを買った。
店を出て、京香にメッセージを送る。
『お仕事お疲れさま。今晩は外食にしない?』送ると、すぐさま返事が来た。
『はい、大丈夫です!』
『店は俺が探しておくよ』
『楽しみにしています』
『じゃあ、場所と時間が決まったら、また連絡する』
京香は『やったー』と書かれたウサギか猫か分からないスタンプを返してきた。
最近の京香のお気に入りはタイ料理だったので、二人で住んでいる場所から少し離れた、スカイツリーが見えるタイ料理屋で待ち合わせすることにした。
ちょっと時間に余裕を持たせてタイ料理店に足を運ぶと、スパイス香る店内にすでに彼女は座っていて、相変わらず凛とした姿勢で待っていた。京香はもう剣道を止めているが、幼いころから躾けられた賜物だろう。
「思っていたより早かったね。何時からいたの?」
「いえ、私もついさっき着いたばかりです」京香に出されたコップはまだ結露してなかった。
「何にしようか。コースにする?」
「いいですね。アラカルトも少し頼みましょう!」
明日は二人共休みだ。少しアルコールも頼んだ。
店を出た後は、だいたい決まって京香の質問攻めだ。
「涼様、何が一番美味しかったですか?」様付けは、まだ治ってなかった。
「やっぱりガパオライスかなー。あとパパイヤのサラダも意外と美味しかった。でもパパイヤのサラダってタイ料理だったっけ?」
「では今度、作ってみます」そう言いながら、スマホでパパイヤのサラダを検索しているようだ。
「まだ時間もあるし、スカイツリーに行ってみようか」
「そうですね、私たちって東京に来たのに、スカイツリーは行ってなかったですものね」
俺たちはスカイツリーまでの道中、昔話に花を咲かせた。付き合ってから八年弱、よく京香は俺に付いてきてくれたものだ。仁刃さんも最初は俺を跡継ぎに、と考えていたらしいが、俺は結局竹刀を握る事はなかった。ただ学費の援助を買って出てくれて、本当に感謝の念しかない。その恩にも報いるためには、京香と結婚して幸せにすることぐらいしか、今の俺には出来ない。
エレベーターはぐんぐんと高度を増していく。最上階にはまだかなりの人がいた。西の地平線にうっすらと暮色が見えるが、その反対側の夜景は素晴らしく、京香も我を忘れたように見入っていた。俺はその様子を見て、行動に移す。
「京香」
「はい……、涼様」
俺は衆人環視が外を向いている隙に、オーソドックスに膝まづいてポケットから指輪のケースを取り出した。そしてケースを開き、その指輪を京香に見せて言う。
「京香、今までありがとう。俺と結婚して下さい。友に歩いて欲しい、死がふたりを分かつまで」
京香の瞳から大粒の涙が、彼女の頬を伝い一粒床に落ちた。
俺は立ち上がり、指輪を取り出して、彼女の左手薬指にそれを嵌めた。サイズはピッタリだった。そして左手に嵌まった指輪を愛おしく撫でながら俺の目を見た。
「こちらこそよろしくお願いします、涼様。ううん……、あなた」
ようやく様付けの呪縛から離された京香は、衆人が外に夜景に釘付けになっているなか滔々と涙を流しながらキスをしてきた。