京香編 7-2
「まさか、また羽喜多のやつが京香を狙うなんて」仁刃は眉間にしわを寄せ、髭をしごきながら言う。「まあ仮出所中に殺人未遂、傷害だから、しばらく刑務所の中だろう」
「それよりもあなた、朗報ですよ。京香から、涼君と付き合うことになった、とメールが届きました」沙弥子はスマホを胸元で抱き、喜びを隠せないでいた。
それを見た仁刃にも、笑顔が戻る。「涼君には感謝しても、しきれないな。このまま結婚してくれれば、京香の笑顔も自然に戻ってくるだろう。私たちも何とか尽力して、京香が幸せになってくれればいいが」常に厳格な彼の顔が綻び、目尻にうっすらと涙が浮かんだ。
京香のいない鎬家は久しぶりの明るい話題で、家の照明がさらに明るくなった感じがした。
京香と付き合い始めて、生活は普段通りに戻った。彼女は再び御重を持ってくるようになり、少しぬるめの『男の黒~微糖~』を買ってきてくれた。あのように公然の場で告白したのだ。栞と香澄はもう近づくことはないだろう。
夏期講習の帰りだった。
煩い蝉の鳴き声が響く帰路で、隣を歩く京香が、「三年生になったら、Aクラスに入りたいので、勉強を教えて下さい」と言ってきた。
「もちろんいいよ」と俺は特に何も考えずに返した。その日はお互いどの家で勉強しようかという話で家路についた。図書館と言う案も出て来たが結局、京香の提案で彼女の部屋で勉強することに落ち着いた。
目を開けてられない程、輝度を増した灼熱の太陽が、徐々に中天へと向かっている夏休み半ば、俺は朝のルーティンを済ませ、京香が苦手としている三科目の教科書とノート、それと学校から出された夏休みのレポート、京香の両親への手土産を鞄に入れ、彼女の家に行く。昨日の夜の時点で、俺はすでにレポートの三分の二程終わらせている。
鎬家は俺の家から歩いて、十分弱の駅の近くにあった。今まで京香に対し無関心を貫こうと決めていたので、彼女の家に行くのは初めてだった。立地の良さと、五階建ての住居兼剣道場を見上げて呟く。
「俺んちって本当に貧乏だよな……」
言っても意味がない事なので、切り替えて住居のインターフォンを押そうとした。すると京香が待っていたかのようにエレベーターで降りてきて、笑顔で手を振ってきた。それはまるで帰宅する主人を待つ、室内犬のように見えた。俺も軽く手を振って返す。
京香は両開きの門扉を開け、「涼様、お待ちしておりました」と薄水色のワンピースで出て来た。彼女が近づくと、ほんのり柑橘系の香水が香る。
「おはよう。それよりも様付けはもういいって」
「あっ、そうでしたね。涼様」
「とりあえず暑い、中に入らせて」
「どうぞどうぞ、暑い中わざわざ来てくださって、ありがとうございます。涼様」
様付けは、まだまだ治りそうにない。丸一年、様付けだったから、仕方ないか。
京香とエレベーターに乗り込み、彼女は鍵穴に鍵を差し込んで、三階のボタンを押す。エレベーターの中は既にエアコンが効いていた。汗が気化熱となって体を冷やしてくれる。思わず蕩けるような溜息が出た。
「京香、今日は親御さんもいるんだよな。手土産を持ってきたよ、大黒堂の最中だから休憩中にでも食べよう」
「はい!」
何だか、京香のテンションがおかしい。
エレベーターが三階に着き靴を脱いで、彼女に連れられて長い廊下を進むと、リビングへのドアが開かれていた。そこにはソファーに座る沙弥子さんがいた。
目が合うと、俺は即座に「おはようございます。これ私の好みで買ってきたのです。口に合うといいのですが」と鞄の中から大黒堂の最中を取り出しながらお辞儀した。
「まあ涼君いらっしゃい。暑い中、わざわざありがとうね。最近、京がそわそわしていたのは、こういう事だったのね」と、沙弥子さんも立ち上がって深くお辞儀した。その所作は京香にも受け継がれていた。
「もう、お母様ってば! いつもはこのドア閉めているのに!」
どうやら京香は両親に俺が来ることは教えていなかったようだ。
「涼様、こちらです!」耳まで真っ赤にしながら、京香は俺の手を引っ張って、奥へと向かった。