おかのうえのばか
「弁慶と小町は何がバカなの?」
「ん……何それ、またお婆ちゃんに聞いたの?」
「うん。僕には分かんないかもしれないけど、って言ってた」
「ふーん。弁慶と小町でしょ?弁慶ってあの弁慶かなぁ……?お母さんも分かんないから、帰ったらお父さんに聞いてみようね」
「はーい。スマホ貸してー」
「はい。お母さん夕ご飯作るからお利口にしててね」
「うん」
家は住宅街の外れにある一本の大きな木に寄り添うように建っている。木を挟んで左側に古風な家が建っていて、そこでは子供の祖父と祖母が暮らしている。子供は日中は向こうの家にいることが多い。お爺さんは静かで優しい人なのでいいのだが、お婆さんは気分屋でたまに子供に変なことを教えるので困っているのだ。
玄関のドアが開き、お父さんが帰ってきた。
「ただいま」
「おかえりー。お風呂わいてるよ」
「うん。ありがとう」
「お父さん」
「ん、どうした健太?」
「弁慶と小町はバカなの?」
「んー?お義母さんに聞いたのか。それは落語の話だからなぁ。落語が好きな人じゃないと分からないんだ」
「ふーん。そっかぁ」
父親は風呂に入り、母親は夕食を仕上げる。お風呂からあがったら、食卓を三人で囲み、食事をするのだ。子供はまだ幼いので、ご飯を食べたら眠たくなってしまう。母親が子供を寝かせると、いつもは食事が終わったらソファに座ってテレビを見る父親が、真剣な顔でテーブルについたままだった。
「……どうしたの?」
「話があるんだ」
「………?」
「離婚したい」
「……え?」
「……好きな人がいて、付き合ってくれって言われたんだ。僕は彼女の思いに応えたい。でも、浮気とか、誰かに嘘をつき続けるのは嫌なんだ。子供は、お前が育てるべきだと思う。俺は今、彼女の方が大切だと思ってしまっている。俺にあいつを育てる資格はないだろう。お義父さんには明日僕の方から」
「ふざけないでッ!!!」
彼女の人生で一番大きな声が出た。
「今すぐ出て行って!!二度と帰ってくるな!バカ!!」
今回のこととはあまり関係ないかもしれないが、彼女は昔からヒステリックなところがあった。それは彼女自身の性質として熱しやすいということだ。混乱するより先に心が沸騰する。そういう時、旦那はどうするのが一番良いか経験から知っていた。逃げるのだ。彼女の怒りが冷めるのを待って接触を図ると、彼女の方も少しぐらいは後悔していて、それでなんとか丸く収まるのだ。最初に喧嘩をした日に花瓶を床に叩きつけた彼女を見て、危機感から男はそうするようになった。男は今回もそうした。そしてその瞬間に二人は夫婦ではなくなった。
「……お母さん?」
「……健太……」
母親は寝室から出てきた子供を抱きしめた。子供はよくわからず、眠気も同化してぽかーんとする。
「……お父さんは?」
リビングから玄関への扉は開いていて、玄関のドアがバタンと閉まる音も聞こえた。その音で子供は起きたのだ。
「……健太…………」
「……?」
母親はしばらくしてそのままリビングで寝てしまった。子供はポカーンとしたままそれに気づき、両親の寝室から枕と布団を引っ張ってきて、母親にかけた。
翌朝、家のチャイムがなり隣に住む彼女の父親、子供から見たおじいちゃんが家に入ってきた。リビングで横たわり寝ている母親を見つけて、驚く。
「美香……どうしたんだ?」
「……お父さん……悠斗さんが……別れたいって」
「ははは、そんなこと婆さんにしょっちゅう言われてるよ。気にすることはないよ。きっと一瞬の気の迷いだ。しばらくしたらきっと帰ってくる……ところで婆さんが家にいないみたいなんだが、何か聞いてないか?」
「……え?何も……」
少しの時間が流れ、携帯にメールが届く。
「ちゃんと話できなかったのが残念です。電話で話しても同じだろうからメールで。僕が好きになってしまったのは、お義母さんの良江さんです。今一緒にいます。話せなかったけど、実は宝くじが当たったんです。丘の上に家を買って静かに暮らすのが良江さんの夢だそうで、しばらくそんな生活を過ごそうと思います。急な別れになったけど、今までありがとう。良江さんはお義父さんと話したくもないそうでこのままお別れしたいみたいです。お義父さんに伝えておいてください。よろしくお願いします」
携帯を折った。スマートフォンなのに。
「お父さん、お母さんだけど……」
「ん、何か分かったか?」
メールは既に見れないので、とぎれとぎれの日本語で断片的にメールの内容を思い出しながら伝えた。いつもは混乱するより先に怒りが頂点に達する彼女だったが、今度ばかりはそうはならなかった。この現状、涙しか出ない。悲しみと怒りとバカバカしいという呆れの気持ち、様々なストレスに犯された彼女の頭はもはや正常ではなかった。視界に写る全ての物を投げつけた。目標もなく、涙を拭くこともせず、何かを叫んだ。おじいさんは既に家を出てフラフラとしながら隣の家に帰っていった。
子供は寝室で目を覚まし、リビングの方からドタバタと激しい物音と聞いたことのない母親の声がしたので、怖くて泣き出してしまう。母親はしばらくして、寝室から聞こえる鳴き声に気づいた。母親は寝室の扉を開けて、すがるように息子を抱きしめた。息子はまた訳が分からなかったが、母親が泣いているので、ティッシュ箱を差し出すと母親は優しいねと褒めてくれた。
翌日、おじいさんのお葬式があった。原因は教えてくれなかったが、病気による急死だそうだ。おじいさんはとある丘の上の霊園に埋葬されることになった。遺言だったらしい。以前から用意していたのだろうか。
今になって考えてみても、あの辺りの出来事がよくわからない。通夜にもおばあさんとお父さんは来なかったし、その後一度も会っていない。こうして大きくなってお嫁さんが家に来て幸福な毎日を送っている。お母さんは年を取るにつれて笑顔が増えていき、我が母ながらも、こんなおばあさんが近くに住んでいたらきっといい子に育ってくれるだろうな。と、まだ見ぬ子供に思いを馳せたりしている。
仕事柄、朝早く起きる僕はコーヒーを煎れた。豆は本格派、お湯は二人分。彼女は猫舌なので、マグカップにトマトの柄の蓋をして置いておくと温度がちょうどいいらしい。
仕事のために家を出ると、見知らぬおじいさんが道路から我が家の方を見ているのに気づいた。僕が近づこうとして道路の方へ歩いて行ってもぼーっとしていて、こちらに気づいた様子もない。
「……あの、何してるんです?」
「………」
返事はなく、目線も動かない。しわだらけの顔は妙に貫禄があるが、目はどこか焦点が定まってない感じ、何かを見ているというより、この場所に思いを馳せているようなそんな感じ。
「うちに何かようですか?」
「……」
耳がピクッと動いた。やはりこの家に何かあるらしい。
「妻が怖がるんで、用がないなら帰ってください」
「………」
おじいさんはノソノソと歩きどこかに行ってしまった。僕は仕事に出る。携帯を見ると昨日の野球のニュースが目に入った。
ピッチャーが第一球をデッドボールにした。球団の捜査によると、打者と投手の間で以前から金銭トラブルがあったらしい。投手は、偶然だ。狙ってない。と言っているが、ピッチャーの投球の直前の口の動きを捉えた映像が解析され、良くない言葉を口走っているという噂が立ち、今シーズンの出場停止を命じられたというニュース。
バカだなぁと思う。バカを見るとバカは安心する。そういうものだと思う。バカを見て危機感を覚えるのはもしかしたらバカではないのかも。何を考えているんだ僕は。仕事に行く。彼女はそろそろコーヒーを飲んでいるだろうか。
時々思う。意外とみんな丘の上にいるのだ。心の中では。
仕事が終わり、家に帰る。カレーの香りがしたのでワクワクした。好きなのだ。単純に。
「ただいまー」
「お!!おかえりー!」
「な、なんか元気だね」
「聞いて!私がやってるゲームあるでしょ」
「ん、なんか、戦うやつ?」
「そうそう!それでね、昨日の大会で私たち優勝したの!」
「え?!ほんと、すごいね!」
「それで、少しだけ優勝賞金と商品が出て、それはまぁいいんだけど、私たちのチームのエースがプロチームに引き抜かれて、チームに契約金が入ったの!そのエースの意向で契約金はチームのオーナーさんと出場したメンバーで割ることになったの!で、金額がね!」
「え?!う、うん」
「一千万!!」
「……は?お前の分が?」
「んでね。赤ちゃんできた!」
「……んー?!」
「本当だよ!」
「え!……えーっと……なんか、夢みたいだな」
「んでさ、そのお金でハワイ行こうよ!子供ができると色々大変になっちゃうから、二人きりで最後の旅行しよ!」
「えっと、本当なら全然いいけど、本当なの?どっちも?」
本当だった。奇跡ってのは重なるもんだ。いや、どちらも努力の結果なんだけれど。それは置いておいて、重なるものだ。良いことは。
あ、カレーは美味かった。本当に。
それからの僕らはせわしなく、旅行会社に行き、パスポートを確認し、行きたい場所を決め、食べたいものを選び、ハワイがロケ地の映画を見て、入金を確認して天井に頭がつきそうなほど飛び上がり、知人に話を聞いて、カメラを買い、服を買い、ホテルをとり、母親に説明をして、飛行機に乗った。
ワクワクが止まらねぇ。誰に聞いても何を見ても最高の評価がされているハワイという場所。一体どんなに楽しいのだろう。
ハワイがこれを越えられるのかと思うほど、飛行機のビジネスクラスは快適で食事も美味しい。海外旅行の高揚感がそうさせているのかもしれない。いや、単に質がいいのかもしれない。それなりに高いし当然と言えば当然なのだが、今後の人生で二度と訪れない(帰りの飛行機を除いて)であろう体験がもう既に始まっているのだと思うと、とても眠ることなんて出来なかった。
飛行機が着くと、僕らは感動の冷めぬうちにレンタカーを借りて移動をした。彼女の一番の目標であり長年の夢を、初日の昼下がり、まだ日が高いうちに叶えてしまおうという計画だった。ハワイの日差しは鋭く、カラッとした暑さが心地いい。空港からの道筋はフィルムの中のようで、豊かな自然と水平線が心地いい。ビーチの脇や空軍基地の横、ビルが立ち並ぶ大通りや自然あふれる大きな公園、住宅街を抜け山道を通り、突然にハワイらしくない森の中の景色に不安を覚えつつも、一時間弱の道のりを越えてたどり着いた。日本語対応のカーナビ付きの車を選んで良かった。車を降りて彼女が歩く方についていくと、綺麗な丘が見えた。ハワイの空は青く、綺麗な街並みと山の自然と広い海、そのすべてが一目で堪能できる最高の場所だった。
「ここだぁ……昔、高校の英語の先生がここが良かったって授業で言っててね。写真も見せてもらったんだけど、うん。ここだよ。全く同じ場所……すごいなぁ……」
風景は人の記憶に刻まれる。時に世代を越えて継がれていく。素晴らしい景色は守られる。継がれていった者たちによって。
「ここでさ、キスしてる写真撮りたいの!」
「うーん。恥ずかしいなぁ……」
「お願い!一回だけチャンス頂戴!なんでも言うこと聞くから!夢なの!夢なの……」
「わ、分かった分かった。やるよ……それってカメラを見ちゃいけないだろ?誰かに頼むの?」
周りを見渡すと、何人かの人がいた。同じように観光目的で来ているようなグループがいくつかと、現地の人がハイキングや散歩がてら来ているような人。
「うん。あそこのおじいさんに頼んでくるね。あの人も日本人旅行客っぽいし、行ってくる」
「あ……かえって現地の人の方がいいけどな……慣れてそうだし」
彼女が爺さんを連れて来る。その途中、ふと景色を見て、こちらに手招きする。あそこの方が景色が良かったんだろう。僕は招かれるままに近づく。すると日本人っぽい爺さんの顔が少しずつはっきり見えてくる。
その人物は、あの日の朝に道路から家を眺めていた爺さんに瓜二つだった。あの時と同じ、目はどこか焦点が定まってない感じで、何かを見ているというより場所に思いを馳せているような目、顔のしわまでそっくりだった。僕は背筋が凍った。何故。同一人物だろうか?偶然か。こんな偶然があるか。先回りされた?何故。知り合いか?こんな知り合いはいない。だとしたら家で会った時に会話をしないのは不自然だ。奇妙に良いことが重なった。何か不吉なことが起こる予感はしていた。これがそれか?僕はある種の覚悟と緊張をしながら二人に近づいた。
「早く!この方にも悪いでしょ」
「あ、ああ。行くよ」
その男から目が離せない。小太りを装った腹に何かを隠しているのではないか。ズボンのポケットに突っ込んだ手から拳銃かナイフを出すのではないかと疑ってしまう。
「何してんの、ほら。お願いします」
「え、あ、うん」
彼女は、緊張した僕に半ば強引にキスをした。爺さんは彼女のカメラのシャッターを押した。
「撮れましたー?」
彼女は爺さんに駆け寄る。爺さんは何もしていないが、危ないと思ってしまう。思わず、彼女をかばうように彼女の前に出て携帯を受け取った。
「ありがとうございました」
僕は彼に冷たく言って、携帯を受け取った。
「あ、ありがとうございましたー!」
爺さんは背中を向けて歩き出した……何事も、無い?
「わ、すごーい!写真、完璧だよ!プロみたい!」
「え?……本当だ。すごい。上手いな」
ハワイの絶景を背景に、写真はとても綺麗に撮れていた。景色からハワイに居るということがよくわかる、いい写真だった。思わず、爺さんにお礼を言おうとしたが、既にどこかに行こうとしていたので、呼びかけることはしなかった。見えてないかもしれないが、ペコリと頭を下げる。
「ちょっと顔がこわばってるけど、これはこれでいいかもね」
「え、あー……ごめん」
「んーん……私もちょっとだけ緊張しちゃった。やっぱり日本人だね。私たち」
「……ん?ここで写真撮ってた英語の先生ってもしかして外国の人?」
「そうよ」
「へー」
緊張の糸が緩まり、そんな会話をしていると現地の人らしい金髪のお兄さんが駆け寄って英語で話しかけてきた。妻は趣味のゲームを深く楽しむために英語を学んでいたので、僕は二人の会話をぼーっと眺めていた。
「何を話したの?」
「なんか、あのおじいさん、この辺に住んでる変わり者の爺さんで、変なこと言われなかったか心配で話しかけてきてくれたんだって」
「え、旅行客じゃなかったのか」
「うん。あの人この辺じゃ有名で、奥さんが無くなってからまるで変わっちゃって、迷惑爺さんなんだって。日本人っぽかったし日本語も通じてたし、日本のお金持ちの人かなぁ。すごいねぇ」
……気のせいか。いくらなんでも、彼と日本の彼は別人だろう。他人の空似、良いことばかり続いているから、何かを恐れる僕の心が生み出した、ただの勘違いか。
彼のことで楽しそうな妻を無駄に不安にさせたくなかったので、その後もそのことは言わなかった。
「そうか。結構すごい人に頼んじゃったのかもな。写真のセンスもあるし、大物はやっぱり違うね」
「違うねぇ。それで、お兄さんはたった一人の人間の言葉でせっかくの旅行が楽しめなかったら悲しいから、代わりに謝りに来たんだって」
「ふーん。お兄さんも中々にハワイバカだね。それくらいこの場所が好きになっちゃう気持ちは分かるけどさ」
旅は最高の達成感で始まり、最高の景色と空気を楽しみ、最高のご飯を食べ、乗馬で自然を楽しんで、映画のロケ地を回ったり、ビーチでくつろいだりして最高なまま幕を降ろした。贅沢しすぎの感はあったが、彼女はこの旅行で一千万円を使い切るつもりだったのでそれを止めるのに精一杯だったくらいだ。子供も生まれるし、いつ仕事が出来なくなるか分からないから貯金は残しておくべきだと説得した。しかし、僕がその後の人生で働けなくなることはなかったし、僕らが死んだあとは子供たちにもっと大きな財産を残せた。今思えば、この時の旅行で一生分の贅沢をしておくべきだったのかもしれない。人間、いつ死ぬかわからないのだから。
日本に帰ると家に残したお母さんの機嫌を持ち直すために隠しておいた、妊娠報告をした。ほんの少しだけ拗ねていた母さんは飛び上がって喜び、奥さんをやたらと丁重に扱うようになった。
弁慶と小町うんぬんの意味は、今もよくわからない。それで良いと思う。
読んでいただきありがとうございます。
既に投稿しているいくつかの作品と同じで、昔に書いたものです。
この話は、なんでしょうか。まずジャンルで悩みました。次にあらすじで悩みました。余力のある時にあらすじは編集すると思います。こうしている今もハワイに行きたいです。