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超常捜査官:岐庚 〜アサルト・オン・ヤオヨロズ外典〜  作者: 執筆・八雲 辰毘古/監修・金精亭交吉
File3:信じるものは掬われる
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57.血反吐にまみれたきれいごと

「なんで……大国さん?」


 夢でも見ているかと思った。庚にとって、大国忍はあの夜に自分の失敗によって死んだ人間だったはずなのだ。それが、いま、こうして庚の前に立っている。


「まあ、いろいろあるわけだが、ひとまず一瞬だけ生き返ったということにしてくれや」

「はあ」


 よくわからないが、これは現実なのだ。

 火遁槍を構えた大国忍。宗谷紫織の姿を見て、眉をしかめた。


「そうか……そうなのか」

「知り合いですか」

「そうだな。このところ長い付き合いだった」


 大国忍は思い返す。怪獣災害の被災者であり、〝新しい日常〟に馴染めずにドロップアウトした少女。

 この世界の窮屈さに出口を見つけられず、ついには開けてはならない扉を開いてしまった少女──


 在らざるカミを信仰する集団にその身をあえて置き、巫女を含めたあらゆる人間を欺いて道化芝居に乗り続けた。

 その全てを見透かし、見遥かし、それでもなお世界が滅びる方向におのれを委ねた。ただひとりの少女が、そこにいる。


「…………」


 最初、大国忍も、潜入捜査の延長で出くわした、ただの少女のように感じていた。

 つまるところ、宗教法人あたらくしあの被害者であり、なんらかの形で入会して逃れられなくなった女の子でしかないと、どこかでたかを括っていた節もある。


 ところが、『リマインズ・アイ』の適性から妖力の感知と判断が早かった彼女の手際は、あたかも世界そのものの最適解を見出す超知能のようなものを感じた。頭が良く、自分でものを考え、熟慮の末の判断がそこかしこで的確に働いた。

 それだけの人間がこのようなことに自ら志願するなんて、どうかしているように思えた。少なくとも大国忍にとっては、宗谷紫織の人生の選択肢はもっと多く豊かであるべきだと、そんなことすら思ったのだ。


 しかし、彼女は大国忍と雑談する時、ふとこぼしたことがある。


「もう、飽きたんです。そういうきれいごとは」


 たしか、大国忍が気さくに「きみならもっと他の道もあった」と伝えた時のことだ。

 過去をあまり語りたがらない少女だった。しかし怪獣災害で怪我をした父親を介護しながら、妖怪ハンターと協業することで生計を立てていたという。それが宗教法人あたらくしあの後援を得て、組織に加入して、より一層ゲームに没頭するように、宗谷紫織はひとつのことに徹底した成果を出した。


 あまりにも凄まじい成果を前に、望月サヤカは当人を評価し、やがて〝雑面法師〟として積陰月霊大王の降誕の儀で最も重要な役割を果たすことになった。

 それも、自主的な志願なのだから驚きだった。


「なぜキミが犠牲になる必要がある?」

「わたしひとりの犠牲で済むなら、なんだって安いよ」

「…………」

「わたしは、この世界では要らない人間なのかもしれない」

「そんなことはない」

「そうだよ。結局、役に立つか、使い物になるかしないと他人は誰も認めてくれない。だから頑張ってきた。それも、もう疲れてきちゃった」

「…………」

「カウンセリングをね、」

「……?」

「むかしカウンセリングを受けたの。望月さんの案内で、東京駅近くの心理カウンセラーのところに言って、いろいろ話を聞いてもらったんだ」


 大国忍の無言に乗じて、宗谷紫織はやたら饒舌に話した。

 仕事柄関係性があったからかもしれない。人間性にも多少信頼があったかもわからない。しかし彼女の口ぶりは、しょせんは大国忍が自分にとって〝他人〟だからこそ自由に本音を語っても後腐れがないと確信している人間だけが持つ響きがあった。


「カウンセリングは宗教とかと全然関係がなかった。でも、〝自分に素直になりましょうね〟とか、〝もっと好きなことを見つけて楽しみましょう〟とか、結論がその程度のことだったんだ。わたしにはそのどっちもなかった。本音を聞いても、ただ世間が鬱陶しいだけだったし、好きでやってるように見えることも、現実逃避がしたかっただけ。苦しくなければなんでも良かった。そんな人間に、いまさら自分の意味とか価値とか、問われたってわからないよ。わかりたくもない」


 それで帰りの電車で散々悩んだ末に、出た結論は──


「来るぞ」


 大国忍が火遁槍を構えた。

 積陰月霊大王が杖を向けた。怪光線が分岐して飛び散る。庚と大国は二手に分かれて、互いに宗谷紫織と目を合わせないように俯きがちに得物をたぐった。


 赤黒い月が生み出す影のただなか、積陰月霊大王の王冠にはまった黄金の石の輝きだけがその攻撃の予兆だった。


「あの石だ」


 大国忍は、長年のカンから、積陰月霊大王のその弱点を理解した。


「でも、まず接近できないんですよ!」

「結界術の類いならおれにもいくつか破り方の心得がある。岐、せっかくすげえ技を持ってるのに、肝心の結界破りは体得してなかったのか?」

「……はい」

「じゃあ、まだ伸び代があるってことだ」


 こいつはやり甲斐がある仕事だ、と大国忍は開き直った。自分が単に生命を放り出せばいいなんて、そんな自己犠牲の精神とはとうにおさらばしている。

 思えば、生きるとか死ぬとか、すごく大きなことをいかにも自分ごとであるように語り直すのは間違いだったのだ。もちろん生命あるものとしてその延命は、絶命をいかに回避するのかは本能に刻み込まれた命題なのかもわからない。しかしそれもまた、ひとつのお定まりのパターンでしかなく、生死の際に立てばヒトが()()になるなんてことも決してあり得ないのだ。


 もし、あの時ひとりで勝手に死んだままで人生の幕が切れたとして、大国自身の内面に何か変化はあっただろうか。あるだろう。現にいま考え方が変わった。しかし、おそらく世の中が変わったとは思えない。

 あそこで死んでも、いまここで死んでも、死は死でしかない。それは、決して意味や価値を求める人間には苦い事実かもわからないが、ある意味で一種の安心でもある。


 死後の名声なんて、気にするだけばかのやることだ。


 火遁槍が猛威を振るう。空を切り裂き、唸りを上げる。この武具は決して擬神器ではなく、あくまで五行の火を強くするだけのものしかない。しかし大国忍の気はこの武具を通じて増幅し、空間を断つ。


「喰らえ、結界破りの術!」


 それを聞いた庚が、ださいと思ったのはここだけの内緒である。


 すとん、と綺麗な縦一直線の太刀筋が、積陰月霊大王の常時展開している結界を綺麗に断ち切った。たじろぐ蛙の王、しかしその結界は三秒と経たないうちに閉じた。


「どうだ」


 大国忍が岐庚を振り返る。

 少年の日の輝きすら伴って──


「いや、すごいけど、ださいっす」

「えっ!」

「ださいっす。ネーミングセンス」

「……そうか」


 がっかりする。しかし火遁槍は容赦なく積陰月霊大王に立ち向かっていく。


「ぐぬぬ、きさま、我が力で蘇っておきながら!」


 手をかざす。その仕草によって大国忍の身体が硬直した。

 すかさず宗谷紫織の魔眼が大国忍を捉えた。目を合わせないように顔を背けた大国忍だったが、それが、それこそが魔眼の威力を増幅させた。


 そら見ろ。しょせんお前たちも、わたしひとり人間のことも直視できないではないか。そう、非難するように。


 ぎゅっ。腕が捩じ切れる。火遁槍を持った腕が弾けて飛んだ。


「大国さん!」


 悲鳴にも似た声が、岐庚から漏れ出る。しかしその弾け飛んだ腕が、落ちるより前に手にした人間がいた。


 冬堂井氷鹿である。


 彼は腕を片手に、妖力の反発で後退した大国忍の着地を和らげた。肩を庇う男の左腕に、火遁槍を握り直させた。


「痛ッ! 冷たッ!」

「申し訳ないですが、もうひと踏ん張りしてもらいますよ」

「ああ」


 庚が振り向いた。


「井氷鹿」

「擬神器、あと何発だ」

「最後。もうデカいの潰すので使いまくった」

「わかった。やるぞ」


 井氷鹿は腹に力を込めながら、例の詩句を口ずさんだ──


「先輩の匣中こうちゅうなる三尺の水

 曾て呉潭に入りて竜子を斬る

 隙月 斜めに明るく 露をけずりて寒く

 練帯れんたい 平らにかれ 吹き起こらず

 鮫胎こうたい 皮は老いて疾藜しつりとげ

 劈鵜へきてい 花を冷やして白關はくかんの尾

 これ 荊軻けいか 一片の心

 春坊の字を照見せしむなか

 妥糸だし団金 懸かって轆矚ろくそく

 神光はらんと欲す 藍田らんでんぎょく

 提出すれば西方 白帝は驚き

 嗷嗷ごうごうとして鬼母は秋郊にこくさん──」


 大気の凍てつきが、利剣となる。


「もう余裕がない。大国さん、さっきの技、できますか?」

「できるが無駄遣いしてしまった。二発目いけるかわかんないぞ」

「いや、いいです。あとはわたしが引き継ぎますから」


 何か秘策があるのか、井氷鹿は珍しくにやりと笑った。


 三者三様に展開する。積陰月霊大王は先ほどの二の舞を決して踏むまいと大国忍の挙動を中心にマークする。虫ケラ程度と侮ったのが誤りだった。月兎を出払わせたのは間違いだったが、いまさら呼んでも交戦中か戻って来ない。

 ぎゅっ。何かが、締め付けられるように悲鳴をあげる。宗谷紫織の肢体が息苦しくなって息が荒くなる。


 ぎゅっ。目が、心拍数が、生を、死を、探し求める──


 井氷鹿がまず飛び出した。氷の利剣が空を絶ち、積陰月霊大王の結界に軽くヒビを入れた。しかし井氷鹿の結界破りは積陰月霊大王と相性が悪く、うまく断絶できない。

 大王の杖から怪光線が飛んだ。井氷鹿がちょうど振り下ろした姿勢にそれは直撃し、彼は仰向けに吹っ飛んだ。庚が叫ぶ間も無く、大国忍がふんと火遁槍を、炎の軌跡を描いて振り抜いた。


 ところがそれこそ積陰月霊大王の思う壺、杖を一振りしたとたん、あと一歩と思われたその一撃が、まるで操り人形さながらに反転して岐庚を襲った。


「あッ」

「くそっ」


 とっさに避けた庚──もう「天孫演舞」のモードも終わりに近い。


 大国忍は思う通りにならない身体を、それでも抗うように両足で踏ん張った。

 それは自我の反抗であった。

 しかし思う通りにならない自我など、積陰月霊大王の前では無意味で無価値である。


「従わざるもの生きる術なし」


 ぎゅっ。


 ひねり潰すようなしぐさとともに、大国忍の上半身が捩じれる。圧倒的な妖力が黒い靄となって、男の周囲に絡まり、糸の束を回転するようにらせんを描いて引っ張る。

 歯を食いしばる大国──左腕で火遁槍を奮ってその一部を振り払う。だが抵抗虚しくもうひと捻りでその身体が弾け飛ぶかと、


 そう思われた。


「いまだッ! やれッ!」


 飛び出す井氷鹿、氷の利剣が飛び出してつかの間、大国忍を縛った妖力の縛鎖を断ち切ったかと思うと、男はふたたび結界破りの術を行使した。


「ばかめ」


 宗谷紫織の口を借りて出た言葉──まるでそれが合図だったように、大国忍は中空で静止した。振り上げた槍の穂先が、結界破りの妖力をまとったまま、振り下ろせない。


「同じ手は食わない」


 そう言ったその時──


「やれッ!」


 言ったのは井氷鹿、言われたのは庚だ。


 その意味を悟った時、庚は本当に一瞬、一瞬だけ戸惑いとためらいが生まれた。だが振り向くいとまもない。これ以上の最善の方法もない。

 目まぐるしいほどの走馬灯が、岐庚の脳裏をよぎった。


 決して良い先輩ではなかった。

 そんなに会って会話をした訳でもない。


 けれどもこの期間何度も肩を並べて戦い、仕事ぶりを知り、人となりを知った。格好良くないくせにカッコつけ、好き勝手やっては自分の価値観を押し付けた。それでも自分がここぞという時、素直に体を張って戦う稀有な人間であった。


 かつて、彼は庚の失態によってその生命を落とした。

 いま、その男は成長した部下によって、またしても死へと送り出される。


「さよなら」


 庚がぽつりと、そう言った。


 金剛鉄拳〈八十(ヤソ)(タケル)崩槌(カムナヅチ)〉──擬神器の最後の一撃が、火遁槍の背後から後押しするように強く、強く撃ち抜かれた。

 爆風、烈風、突風。大国忍の身体をズタズタに引き裂いて、それは積陰月霊大王の、結界を粉微塵に吹き飛ばす。


 擬神器──それはカミを(もど)く器なのだ。


「ぐ、おおおおおおおォォォオオオ!!」


 もはや依代を守るので精いっぱいとなった積陰月霊大王は、必死に防御の姿勢を取るばかりである。

 やがて──


 風が止まり、積陰月霊大王が力無く中空に浮かび上がる。ふと我に返り、いましがた自分を襲った悍ましき一撃の主を抹殺せんと探し求める。しかしその瞬間、あまりにも接近した冬堂井氷鹿に、出くわす。


「望月サヤカからのお返しだ」


 〈反転真言曼荼羅〉──その呪印が、積陰月霊大王の本体に深く貫かれた。

 怯んだ大王。

 すかさず井氷鹿の絶対零度が、積陰月霊大王の霊体を現実に固着させた。


 そして、その時、結界の天頂部から光が降り注いだのだった。



    ※


 封印と銘打った、神々を人界から退かせる術式を完成させたのは、ちょうど庚が三発目の擬神器を撃ち抜いて、一区切りついた頃だった。


「やった!」

「近いぞ!」


 少年少女が叫ぶなか、吉田恂はまだ外の状況をうかがっている。


 月兎はいまなお容赦なく戦いを繰り広げていた。猫依沙月の瞬発力と、山崎ひかりの機転がなければいかに優れた術者といえども無事では済まないはずだ。

 それが封印術式の達成を前に、突然映りの悪いテレビのように月兎の立ち姿が揺らぐ。


《あれ?》

《あれれ?》


 立ち止まる山崎ひかりと猫依沙月。


《もうオわっちゃったの?》

《アルジさまいなくなっちゃったの?》


 ブン、ブーン──


 揺らぎは次第に強くなる。それが決定的なものになる前にと、月兎はニヤと蝦蟇口を開けて、またしても瞬間移動した。


 がぱっ


 その口は猫依沙月の顔半分を、山崎ひかりの左手を、同時に食いついていた。


「あっ」

「しまった!」


 しかしそれは達成し得なかった。


 月兎が、消えた。どこともなく。

 ついに積陰月霊大王が霊界に押し戻されたのだ。


 それでようやく、吉田恂は気絶するように倒れたのだった。



    ※



 三発目を使い切ったはずだった。庚は意識も朦朧としていたが、それでもなお、その先を見届けなければならないと踏ん張った。

 封印術式が起動し、光の柱が垂直に黒天を貫くなか、闇に包まれていた空は次第に青空に明るみを取り戻しつつある。


「井氷鹿」

「なんだ」

「おわったね」

「ああ」


 ふらふらする体を、無理して起こす。少しめまいがするが、ギリギリ身体は動いた。


「……あの子は?」

「誰だ?」

「あの、宗谷紫織って子は」


 井氷鹿は指差した。光の柱の中だった。

 庚は激怒に顔を暗くした。


「なんで」

「生きていればまた結社に利用される。本人も生きる意志がなさそうだった。ならばこの場で死ぬのが救いというものだろう」

「なんで……ッ!」


 庚の顔は、信じていたものに心底裏切られたものが持つ憤怒の面持ちである。

 井氷鹿はさもあらんと言いたげに、淡々と述べた。


「自殺は個人に残された最後の自由だ。お前はそれすらも奪うのか」

「ふざけるな!」


 庚は井氷鹿の襟首をつかんだ。


「そんな自由があってたまるか!」

「だが、力があってそれの使い途のない人間にとって、この世は地獄だぞ。ルールを守らされ、他人と同じ振る舞いを期待され、人並み以上にできたことは足を引っ張られる。だから道を踏み外すんだ。そしてなにより、この国は一度外れてしまった人間を暖かく迎える人情に恵まれていない」


 井氷鹿の口調は、自分にも似たような経験があったような言いぶりだった。


「死にたければ、死なせてやればいい。そういう優しさもある」

「そんなもの! わたしは認めない!」


 庚は井氷鹿を突き飛ばし、光の柱の中へと走っていった。


 近づけば近づくほど、それは大きくて暑苦しいものに感じた。なにぶん熱量を帯びた力そのものだったのだ。しかし庚は内なる衝動のままに、走り出す。

 光のなかへ、右腕を突っ込む。


 右腕が焼け爛れるを通り越して溶けるような熱が、肩から心臓を止めるばかりの勢いで駆け巡った。叫びたくても叫べない。苦痛で自失しかける。それでも歯を食いしばって、猿神の残された力をフルに活用して、そこにいるべき少女の手を探した。


 ぎゅっ。ぎゅっ。ぎゅっ。息苦しいまでの心臓の鼓動が、光の熱の合間から腕に伝わってくる。それは少女の孤独の叫びだった。せっかくこの世界に生まれてきたのに。せっかく人並み外れた力を持って生まれたのに。何もできず、何も成し遂げられず、何者にもなれないまま死んでいく。何者かであることを求められる──そんな、そんな世界に生かされているのはもう懲り懲りだった。

 けれども、自分で自分を殺すことすらままならない。どこかで生きたいと願う自分がいる。それすらも許せなかった。早く死なせて。考えるのをやめさせて。もう二度とつらくて苦しくて面倒くさい現実世界に戻してくれないで──!


 宗谷紫織の心の叫びは、庚の全身に轟くようにこだました。庚はそれでもダメだ、生きろと腕を突き出す。


 どうして? 宗谷紫織は意志を返す。生きてればほんとに良いことあるの? 人生に意味なんてあるの?


 あたらくしあの信徒を見よ。彼らは結局そういう、意味とか価値とか、救いとか、自分ででっち上げた言葉に溺れて、自分自身が何者であるかを忘れたかっただけではないか。それはカミに跪いた人間に限った話ではない。日々の生活、余裕のなさ、家族恋人夢希望──結局そういう言い訳だけが、各々の人生の大部分ではないのか。

 そんなこと、少し頭の良い人間ならみんな気づいている。それを、みんなどうにかこうにか忘れて、感覚を麻痺させて、寝ぼけたように過ごすのが〝新しい日常〟の真実ではないのか。だとしたら、みんなが寝ぼけて傷つけ合うような世界で、なぜわたしだけが目覚めて生きていなければならないんだ。


 庚は、それでもダメなのだ、と応えた。そこには理由も、意味も、ましてや根拠なんて微塵のかけらもなかった。


 この世界に意味なんてない。


 不条理も格差も。

 才能も理不尽も。

 すべてありのままにある。


 そこに意味なんてない。

 求めてはいけないのだ。


 そんなことはわかってる。

 誰だって知ってる。

 わかりきっているほどに、わかっている。


 それでも。意味が欲しいと思うから、ヒトは苦しいと感じるのではないのか。

 それでも。生きる意味や理由が、自分にはあると信じたくて、何かと理屈づけたくなるのがヒトの性というものではなかったのか。


 だとしたら、われわれがひとりの大人──社会の中の独立した機能として、れっきとした先人の役割としてするべきことは、「それでも」の先を伝えること。そのはずなのだ。

 これはもしかすると、後世に禍根を残す呪いかもしれない。

 安易な祝福は、むしろ盲目を招いてしまうかもわからない。


 しかし。

 それでも。


 社会の一部である庚は、やはり命令形で宗谷紫織に呼びかける。生きろ、と。

 生きているその先に、意味を見つけるために。価値を獲得するために。


 腕を差し伸ばした。そして──


 ぎゅっ。


 灼熱に包まれた手は、それでも宗谷紫織を手放すことはなかった。

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