55.閉ざされた月世界と、その敵
〈首のない巨人〉を頂点にして、またしても半球状の結界がカーテンを下ろすように展開する。包み込む。それと同時に空気か波立ち、積陰月霊大王が行使していた妖力の波動も打ち消されてしまう。
「ちい」
まるでコバエでもはたき落とすように、積陰月霊大王は神虫をまた撃ち落とした。
片手に抱いた杖が光、怪光線を放つ。それは黒い稲妻となって迸り、空を裂いた。
体長十五メートルもあるはずの、一匹一匹の神虫が、この一撃で翅を焼かれて炎に包まれる。まるで避雷針の周囲に飛んでいた虫が落雷の巻き添えを食らって灰となるような惨めな光景が、そこでは繰り広げられていた。
「よもや、かようなくだらん細工をするとはな……」
積陰月霊大王は、妖力を張り巡らせて生み出した波動で、月兎にのみ伝わるメッセージを送る。その声は、結界の主を殺せと伝達していた。
と、そのとき──
〈首のない巨人〉の腰のあたりから、尋常ではない力が一撃し、その姿勢を崩した。
なにごとかと思うよりも前に、巨神はその身体を折り曲げて膝をつく。
積陰月霊大王とその依代となった少女の足場が激しく揺れ動いた。
かろうじて首から上の姿勢は安定させたものの、すでに高さは半分に低められていた。
「いったい──」
言う暇もない。
たたたたた──
何かが駆け上がる。迫り上がる。土砂瓦礫を物ともしない急上昇が、残像すら視界に留まらないほど勢いよく、迫ってくる。
岐庚である。「天孫演舞」のモードをいまだ解かない彼女の全力は、国を生み弄んだ天つ神々の膂力にも匹敵しうる。
そこに、嵌められた擬神器──金剛鉄拳〈八十剛崩槌〉の相乗効果が重なって、さりとて積陰月霊大王とて無視できない威力にたどり着いていた。
「ぐぬ……!」
二発目は阻止しなければ──
〈首のない巨人〉はたちまちにして形態を変えて防御用にその黒く実体化した妖力を球状に変化させた。おかげでもはや巨人ですらなくなり、その見かけは直立した棒に球体がくっついたような仕様になった。
ところが、岐庚の擬神器は、一発目よりも二発目の方が強力なのである。
容赦なく、その黒い球体は破裂した。
※
九つの腕が、交互に見境なく伸び縮みする中を、颯爽と槍一本でくぐり抜けるのは、さすが大国忍の槍術だった。
斬る。打つ。薙ぐ。躱す。去なす。突く。裂く。掻い潜る──あらゆる装飾も誇大表現も剥ぎ取られた、純粋な動作だけがこの戦いの主役である。
一切の接触は許されない。満身創痍の平田啓介のみが控えるなか、助力の期待もままならず、大国忍はひたすら火遁槍の技巧の限りを尽くしてこれを防いだ。
「前からずっと、ずうっと、こうしてやりたかった! シノブよぉ!」
があっと嘲笑に開いた口は、もはや人間のそれではない。無数に折り畳まれた細く鋭い牙が、内側から二重三重に花開いている。
半妖種族は、遺伝子操作された動物にも似て取り込んだ妖怪の特性を強くその身体に反映させる。ところが土師清巳の形態は、すでに半妖どころではなく、九割五分が蛇とその他取り込んだ怪異の集合体と化していた。積陰月霊大王の黒泥の成分とも混じりあって、もはや無限の妖力をみなぎらせた、その尖兵でもある。
対する大国忍は、土師清巳同様に黒泥から復活を遂げたとしても、積陰月霊大王の妖力の恵みをあまり受けていない。もとよりそうしたものへの忠誠心も理解も少ないせいか、それとも積陰月霊大王自身、特に大国忍という人間に興味がないからか──
とにかく彼は、自身の生前の妖力を駆使するしかほかに方法がない。
それでも九本の鉄棘を相手に互角に動いているその技巧は、生前さすがに魔家四将の最強と銘打たれた男だった。
「やっぱりてめえと正面切って戦っても勝ち目はねえか」
背中から生えた腕を酷使してなお、汗ひとつ流さない土師清巳──彼は喉仏を著しく痙攣させて、隆起させると、嘔吐の姿勢を伴ってはらわたから一本の剣を取り出した。
半透明の粘液をまといながら、それは徐々に人間体の両の腕、つまり十と十一本目の腕にこれを受け取ると、赤い眼でギロリと目標をにらんだ。
対する大国も、次第に息が荒くなる。
とっさに九つの腕がさみだれに動いた。最初はリズミカルに……しかしだんだんとそれを崩しながら、左右非対称に、テンポを踏み外すようにあれでもない、これでもないと不意を作るべく手を尽くす。
大国の火遁槍も、敵の攻撃と交差し打ち付け合う中で、やがて妖力を蓄積していった。炎を燃え上がらせ、その穂先が一個の篝火と相成る。8の字を描きながら光の軌跡を伴うその斬り込みようは、まさに光の演舞──
ついに、その鋒が土師清巳に牙を剥く。
ところが土師清巳の狙いはそこにこそあった。
九つの腕が三本、立て続けに刺し貫かれてなお土師清巳の顔を狙った。
もちろん灼熱の苦痛が土師清巳を襲う。それでもなお、腕が盾になって稼いだ時間は猛毒の刃を大国忍の身体に食い込もうとした。
とたんに銃声が鳴った。
つかの間、毒刃が大国の身体を数ミリ単位で擦り掛けて、そのまま過ぎった。
「きィさァまァァァアアアア」
「やっぱり詰めが甘えよ」
左腕で構えた銀の拳銃。
それを捉えた土師清巳は、憎しみのあまりその眼球そのものに穴を開けた。自らの体内で生成した毒液を、ホースの口を絞り込むように鋭利な一閃として眼球から噴き出す。
さながら、怪光線そのもの。
平田啓介の左手首を、それは貫いた。銀の拳銃を手落とす。痛罵の声が平田から漏れると同時に、大国忍がその犠牲を無駄にするまいとさらに火遁槍の鋒をねじり上げ、貫いていた三本分の腕を切り裂いた。
しかし、そこから噴き出した毒液が、大国忍の片目に覆いかぶさった。
「くそっ」
「ちくしょう」
同時に悪態を吐く。
「HaHaHaHaHaHa」
土師清巳の笑い声は、もはや人間だった頃よりも一段と獰猛な、野蛮なものになった。
「オレハモットツヨクナル。オレハシナナイ。オレハカミニナル!」
「はーッ? すまんが日本語で話してくれねえか! 聞き取れなくて話になんねえよ!」
平田啓介がそれでも煽り返す。大国忍の左目がすでに爛れかけてもう回復の余地がないのに対して、平田は自身の毒耐性で腕の焼け付くような痛みと痺れでまだ済んでいる。
大国忍は、それでも痛みを乗り越えた。両手はまだ槍を離さない。
「平田!」
「なんだ?」
「おれの左目になってくれ!」
「あいよ」
そして、ふたりは左右に散った。
ふたたび大国忍が前衛で、平田啓介が後衛で構える。しかし銀の拳銃を持つ手は瞬発力がなくなり、もはや隙を狙って撃てるとは思わない。
「ハッ、バカメ」
土師清巳は嘲笑う。しょせん声と言葉とでしかコミュニケーションができないようでは敵に対策をとってくれと言わんばかりではないか。
彼の脳裏には、それでも平田啓介が的確に不意を突いて土師清巳を狙撃するシナリオと、平田啓介が的確に声掛けして大国忍が不意を突くシナリオの二択があった。どちらがどっちでも構わない。だが、しょせんその二つしかないはずなのだ。ならば取るべき対策もある。
しょせん、人間。言葉と言葉を使う〝遅い〟コミュニケーションでしか、協力も連帯もできない。
しかし、土師清巳は違った。たとえ失敗しても挫けず、敗北しても立ち上がる。勝敗の決定に言葉は要らず、その立場の違いを前には他者など食い物であり、慰み物でしかない。世界の万物は己にとって有益か否かしか価値を持たず、それに値しない存在は、道端の小石にも似た、いつでも無邪気に拾っては投げてしまえる玩具に他ならない。
彼らは素早く理解するだろう。この強さ、無限の上昇を繰り返す生命を前に、己のひ弱さと無力を痛感するだろう。
そして、ついにおのれの命だけが崇高なものだという、生存競争の原理こそが、唯一無二の真理なのだ、と。その原理の前には、強者のもとに跪き、命乞いをするか、あるいは強者の弄びに巻き添えを食らわぬように一生日陰者として暮らす努力をするしかないことを、おのれに課すしかないのだ。
愚かな人類──オレハ ソノ ツマラナイ ジゲン ヲ トッパ シタノダ。
土師清巳の残った六本の腕がとめどなく動いて回る。大国忍は前ほど苦戦せず、素早く切り込んできた。しかし飛び込んだのが間違いである。深入りすればするほど、死角からの一撃がしやすくなる。
「右、上、左! 三時の方向!」
平田啓介の叫び声──絶妙に、土師清巳の腕の位置を説明する。
うまい。が、それでも、土師清巳の予測範囲内だった。
大国忍がステップを踏み、土師清巳との間合いを詰める。それはさながら平田の指示を受け取り、的確に敵の懐中に飛び込んだかのように見えた。
ところが、土師清巳の腹部からさらに舌のような触手が生えて、大国忍の胴体に巻きついたのだった。
「なッ……!」
「オシカッタナ」
残り六本のうち五本の腕が大国忍の両手両足を掴んだ。このまますかさず八つ裂きにせんと、強く引っ張り出す。締め付ける腕の強さで、火遁槍がぽとりと落ちた。
……かに思われたのだが。
ばん、と銃声──
やはりこの瞬間を狙撃しにきたかと土師清巳は頭部を保護した。一本の腕を余らせて置いてよかった。それで、おそらく狙われるであろう弱点をガードするはずだった。
しかし、それは大国忍を捕捉していた方の腕を貫いたのだ。
とたんに大国忍が、一瞬手放したに見えた火遁槍を再び手繰り寄せた。土師清巳はこの時見落としていたのだが、火遁槍の末端には糸が伸びていて、持ち主の手元にいつでも戻ってくるように細工がしてあるのだった。
すかさず手に収まった火遁槍──その穂先から柄に掛けて炎が赤く包み込むと、手首の回転だけで他の腕を焼きちぎる。
あっという間に両手両足を自由にした大国忍、そのままはらわたの舌に向かって槍を突き刺した。
地鳴りのような、悍ましい悲鳴が轟いた。悲鳴、苦痛、悲鳴、苦痛、苦痛。土師清巳の思考が停止し、人外のフォルムをした自身の身体が徐々に妖力を失って崩れ落ちる。
「ナ、ナゼ、ナゼ……」
炎に包まれる中、銀の弾丸が容赦なく土師清巳の四肢を貫く。
そして喉を、額を撃ち抜いた。
抹香薫る銃口に、フッと一息。平田啓介がガンマンよろしく格好を付けると、とぼけた表情で傍らの同期を見た。
「なんでだろうな。教えてくれよ、大国」
「さあな。お前が勝手に考えたことじゃないのかね。平田さんよ」
彼らはただ、精いっぱい最善の選択を試みただけなのだった。
※
結界の展開から、〈首のない巨人〉が崩壊するまでの時間は、瞬く間と言っても良いほどである。
おそらく三分も掛ってないだろう。
当初その場にいた一般人は、これを結界の成果と思い、拍手喝采した。しかし術者一同は暗い面持ちのまま、これからが激戦になることを予感していた。
「とりあえず、他の皆さんはぼくの近くに来てください──」
吉田恂は結跏趺坐の姿勢のまま、新宿周辺の巨大結界とはべつに、もう一個自身の周囲に結界を二重に張った。
その中に一般人を集めて、被害を受けないようにしているのだ。
外で身構えるのは、二体の護法童子と虎落丸、山崎ひかりであるが──彼女は残念ながら得物を持ち合わせていないはずだった。
「敵もすぐにぼくらのことに気がつくはずです。何が来ても対処してください」
「わかった」
山崎ひかりもまた、体術と組み合わせた術式でなんとか迎え撃とうとしていた。
その時、まるで前置きなんてなかったかのように、吉田恂の背後からそれは噛みつこうとした。
月兎である。ところが彼らの目論見はハズレ、結界に阻止される。まるで硬い窓ガラスに思い切りぶつかったみたいな衝撃が、月兎の存在をことさらに強調した。
「あっ」
安代麻紀はそれを二年前にも見たことがある。そして寿遼も、それがなんであるかを知っていた。
「月兎」
山崎ひかりが、その名を呼んだ。
《アレアレ》
《オヤオヤ》
仰々しく嘯いたその言葉は、ジッパーで開閉するような歪な蝦蟇口をカパカパ動かすことによって再現された。
しかしその口の奥から漂う奈落の闇が、ちらついて見える時、見るものを悍ましい心地にさせる。深淵を見る時、深淵にもまた見られているのだと、言わんばかりに。
《ケッカイあけてくれないなら、まわりのニンゲンからコロしていくよ》
《いくよーん》
ぴょーん、ぴょーん、まるで六分の一重力であるかのように飛び立ったそれは、しかし瞬く間に一般人の目の前に出現した。だがこちらもうまくいかない。
そこで、ターゲットを、山崎ひかりに絞った。いよいよ身構える山崎ひかり。
消えた逃げ──口。
遅い。
月兎の蝦蟇口が山崎ひかりの半身をまさに腹に仕舞い込もうとしたとたん、その顔は横殴りの一撃を食らって遠のいた。
パッと消えた。そして間合いを取って警戒の姿勢に直る。
「ッぶねー」
猫依沙月が、背中に刀二本背負って戻ってきたのだった。