7.きっと期待していたんだ
術式の力に包まれながら、津島実次は考える。大したことのない人生だった。だから大したことのない技しか手に入らなかったのだろう、と。
むかしから理科の実験が好きだった。二酸化マンガンの塊に過酸化水素水を掛けると発生する化学反応が、とても面白かったのが原体験だ。
あとで知ったことだが、この二酸化マンガンの役割を触媒と言うらしい。だとすれば、津島の異能とはまさに触媒だった。それ自体に特に意味はない。しかし、そこにいるだけで何かを増幅させうる。
『ムカつくんだよ』
小学生のとき、同級生にそう言われた。
『気持ち悪い』
中学生のとき、すれ違いざまに女子生徒にそうささやかれた。
『なんでおまえはこう、もっと個性が出せないんだ』
高校生のとき、進路相談室で先生にそう愚痴られた。
大学生に至ってついにひとの陰に隠れることを覚えた。目立つことはしちゃいけない。口数は少なく、必要最低限のことをやって、さっさと家に帰る。そのうち、真面目な学生、という評価になった。
ちょうど意識の高い若人たちがインターネットで世間にしゃしゃり出てくるころだった。だからかえって、彼のような存在が扱いやすいと思えたのだろうか。
みんなが自分の見たいように津島のことを品定めする。津島は結果的に、その偏見を助長させるだけだった。しかし彼は何も思うところがなかった。感じることもなかった。ほっといてくれればそれで良かった。
──それでも。
何かが抑圧されていたと気付いたのは、三年前のことだった。
怪獣が世に現れたあの日、ひとびとは慄き、パニックに陥った。明日は我が身と怯えながら、さながら震災でも起こったかのように、災害グッズや生活用品の買い占めが起こった。甲府から距離を置いた場所に住居を移すものもいた。
やがてその懸念が実現し、時を置かずに新宿が火の海と化したころから、津島はむしろ楽しんでいる自分を発見したのだ。
なによりも気持ちが良かったのだ。
ありきたりでどうでもいい日常が、積み木のように崩れ落ちる瞬間が。ガラガラぽんと音を立てて、今までどおりの日々が、どうなるかわからない明日になることが、とても。
いつも通りがいつも通りじゃなくなる瞬間、津島のなかに埋もれていた〝何か〟が、むくりと首をもたげたのだ。
津島の語彙では、この躍動感に名を与えることができない。しかしそれは紛れもなく一種の怪獣だった。名前のない怪物、あるいは直視しようのない物ノ怪として、それは存在しうるものだった。
かくして二十一世紀に蘇った怪獣災害は、文明だけでなく、ヒトの心にまで亀裂を穿ったのである。
ところで、霊峰富士の樹海が、自殺の名所となっているのはよく知られた話だ。
自殺の動機はさまざまだろう。何かに行き詰まったとき、思い詰めたとき、許されない想いを添い遂げるためか、それとも──
彼らの想いは津島にはわからない。しかし人並みならぬ気持ちや袋小路に追い込まれた思考が、終わりを迎える場所としてこの樹海を選んだのだけは理解している。
そこでは死が安らぎの肩代わりをするものだという、暗黙の了解がある。しかしほんとうだろうか。津島は思う。現にここの曰く付きの都市伝説は、死んでも死にきれない想いの集まりそのものではないか。
ならば──その無念、どれほどのものか。
彼らがどのようにその無念を具現化し、晴らしているかはわからない。そんなの好きにすればいい。けれども津島はそのわだかまった想いの流れに目をつけた。自身の異能が励起するとき、いままでくすぶるだけだった妖気が烈火のごとく燃え上がり、樹海のざわめきとしてあたりをほとばしる。
そのとき、たくさんの恨みの声を聞いた。
叶わなかった夢のこと。押し付けられた親の期待。信頼したひとに裏切られた気持ち。経済的逼塞。定年を経て家族に捨てられた孤独な老人。理解されなかった恋人同士。虐待されて逃げ場のない子供の絶望や、家族に迷惑を掛けてばかりの重病人の優しい決断。
おまけに死ぬまでに身に刻まれた苦痛と、苦労と、凍え死ぬような寒さまで伴った。さんざんもがいて、傷ましくて、切なくて、そんな最後に閃く感情は──後悔。
ああ。津島は嘆息する。そして涙がこぼれる。
「わかるよ。だからおれはいつかこんな世の中ぶっ壊してやろうと思ったんだ」
こんなつまんなくて、くだらなくて、どうしようもなくて、真面目なだけでは取り残されるほど狡猾な、ださくて臭くて気持ち悪いほどのこの世界のありようが。
粉々に砕けて、血に染まれば、きっと何かが変わる。変われば、きっと──
でも、それもはかない妄想に過ぎない。
雷が轟くような音が、ずうんと風の大波を伴って押し寄せて来た。
そのあまりにも激しい気配に、呆気に取られていると、見知らぬおんなが右腕をぶん回しながら近づいて来た。
「あーあ。天然記念物壊しちゃったよ」
スニーカーが泥だらけだった。黒い髪も乱れてしまって、始末に負えない。すっかりくたびれて、愚痴のひとつやふたつも言いたくなるような不満たらたらな面持ちで、彼女は津島の存在を見いだした。
「津島実次さん、で合ってる?」
無言。
「おたく、指名手配犯なの。で、わたしは警察。そうゆうことで、いいかしら?」
ぐっ、と力が入った。
「なんで……なんで邪魔するんだ!」
おんなの目は冷ややかだった。
「怪獣が出てきた日から、何かが変わると思ってた。たしかに何かは変わったかもしれない。でも、相変わらず世の中は愚かでクソッタレなままだ。だから──」
「だから怪獣にぜんぶ壊してもらおう、だあ?」
おんなの身が傾いたかと思ったとたん、津島は瞬く間に胸ぐらをつかまれた。しかも片手で、ぐいとぶら下がるように吊るされた。
「甘ったれんじゃねえ。こちとら休日出勤で来てんだ。泣き言なんざ聞きたかないよ」
低くて鋭い一声。さながら唾を吐き捨てるかのように、津島は放り投げられた。
おんなはそれ以上ことばを交わすつもりも失せたようで、左手でスマートフォンを持ち、誰かに通話をしようとしている。
と、そのときだった。
「……地震?」
あたかも砂のお城を外堀から崩すときのように、徐々に平衡感覚が乱れていく。ふらふらと視界が揺れたと思った途端、耳をつんざく鳴き声が、富士山麓の地面を切り裂いた。
熱線。ひと言でいえばそれだった。
地面が開き、空高く火柱が舞い、その中から大岩がヌッと飛び出す。真緑のコケに覆われた岩のように見えた。しかし時折鮮血のしぶきを上げるところから、巨大な生物だと理解できた。
彼女の作戦が成功したのだ。津島は自分が見送ったおんなの顔を思い出した。自分が手をかけたプロジェクトが、ようやく陽の目を浴びることになる。それが嬉しくて、彼は自分を捕まえにきたおんなを振り切って、駆け出した。
だが、喜びも束の間だった。
亀裂からはもう一体、怪獣が現れたのだ。その怪獣は全身が黒く、恐竜時代の翼竜にも似たゴツゴツとした巨躯と翼を備え、その先の熊手のごとき鉤爪を以て、這うように大地の亀裂をよじ登ってきたのだった。
その怪鳥の名前は、いまや誰もが知っている。忘れられるはずもなかった。この怪獣こそが、世界の歴史を転換せしめたのだから。
つぶらな赤い瞳が、津島を見下ろした。




