43.獣たちの荒れ狂う夜
爆発が、空気を薙ぎ払い、傷だらけの吉田が宙に放り出された。
ドサッという音ひとつ、コンクリートにうつ伏せになる。呼吸が荒い。意識も朦朧としてきた。それでも護法童子をこの世に顕現させるだけの妖力は保っていた。
この一連の流れを、弓削倫子は見て目を見張った。彼女の目には、呪符に囲まれた吉田が狗龍をズタズタの肉片に砕き飛ばしたように見えたのだ。
しかし護法童子の行動に機敏さが無くなっていた。その存在も薄れかかっている。さながら戦いに飽きたかのように静止すると、もはやその場を支配していた殺気も闘気も消え失せてしまった。
彼女は吉田のもとに歩み寄る。
すでに口寄せは解いていた。
「おい、起きろ」
髪をつかんで、引っ張り上げた。爆発に巻き込まれ窒息し掛かった意識が、急に酸素を吸っていまだぼうっとしていた。それでも呂律が回るようにはしていた。吉田自身、対術者の訓練は怠っていたわけではない。
「なんですか」
かろうじて、聞き返す。
「なぜ戦うことを投げ出した?」
「……戦う理由なんて、そもそもありましたか」
言われて、弓削倫子はより言い知れない不快感を呑み込んだ。代わりに強がりの回答を吐き出す。
「あったさ。お前は、しょせんは体制を守ってるだけの思考の浅い人間だからな」
「そう、かも、しんないっすね……」
「…………」
だが、その言葉の手応えの無さに、虚しさを感じたのは弓削倫子本人だった。
「やれやれ、わたしの負けだよ。お前の言う通りだ。戦う理由なんかあるものか。ただ、わたしの生きたかった。生きるために壊さないといけなかった。それを邪魔されただけだからな。この借りは、高く付くぞ」
すっくと立ち上がる。そして、皇ビルの方を見た。
「すでに儀式は完了している。お前たちがいくら努力したところで、この新世界の訪れは止められはしないさ。ただ、生き延びられるかどうか、それだけだ」
「ははっ、よくわかんないですけど、ぼくも死ぬのはごめんです」
「なら、生きれば良い。わたしは……」
言い切る直前、弓削倫子は何かを察知し、身を守った。
そこに岐庚が飛び込んだ。妖力を漲らせた拳が一発、直撃をまともに受ければ、怪我なしでは済まされない。
が、それは途中で変わり身に転じた。コンクリートの破片として、飛び散る。
吉田が見上げると、そこには弓削倫子と岐庚のふたりの影がたたずんでいた。
「…………」
スッ、と弓削倫子は手を上げた。
両手である。
「やめだ」
「?」
「もう、戦わない」
「なんで?」
「……意味がなくなったから」
「はあ?」
面食らう岐庚に対して、弓削倫子は好き勝手に歩き出す。
「わたしはこの社会がズタズタになり、〈月卿〉の連中が泡を吹けばそれで良かった。いまはもう、その目論見は達成されている。あとは、もう好きなようにやるだけだ」
「……それで自分の罪がなくなるとでも?」
「まさか。自首しろとでも?」
「…………」
「まっぴらごめんだね。わたしは好きにやってきた。これからも好きにやっていくだけさ。しかしいいのか? わたしなんかを相手にしてるあいだに、もうあそこで起きていることは止めようがなくなるかもしれないぞ」
指差す。そこにはまだ、黒い球状のものが屹立する皇ビルのすがたがあった。
「なんだ、ありゃ」と庚。
したり顔になった弓削倫子が言う。
「積陰月霊大王の胞衣袋だよ。じきにこの世に生まれ落ちる。そうなれば、ここにいたって安全とは限らない」
「その化け物は、世界を変えるのか?」
鋭い目つき。弓削倫子は肩をすくめた。
「さあ。世界を終わらせるかもな」
不吉な予言だった。
ふん、と鼻を鳴らして受け流す庚。
ところが突如、弓削倫子の背後から虎落丸が出現した。それまで持てる妖力の限りを尽くして飛んでいた虎落丸だったが、吉田の窮状を見て悟った庚が、またしても彼を足場にしたのである。おかげで地面スレスレに落ち掛け、すっかり遅れを取っていたのだった。
それがいま戻ってみると、主人と吉田と敵とが話し込んでいる。虎落丸には何が何だかわからなかった。しかし、敵は敵だ。いま不意をついて悪いことなど何もないはずだ。
両腕にあたる部位を、開いた。そしてそのまま──閉じる!
完全に不意を突かれた弓削倫子だったが、単に捕捉されただけなら問題ないつもりだった。すかさず術を使って抜け出す算段が動いていた。ところがそれ以上に素早かったのは庚である。瞬きする間も無く彼女は間合いを詰めると、こつん、と首筋に一撃、強い衝撃とともに弓削倫子はぐったりと倒れた。
その身体を抱き抱えた庚、吉田の懐から「縛」の呪符を取り出し、その両手首足首を巻いて捕らえた。
「虎落〜、たまにはやるじゃん!」
《エッヘン、ドンナモンダイ》
照れ臭そうにする器怪である。
その後、庚は吉田の容体を確認したが、すこし休めば大丈夫との言葉に圧された。言い合いになりかけたが、吉田の意識は以前よりもハッキリしていた。
「大丈夫ですって。この人は護法童子に運ばせるんで」
「ん、そうか。ならいいけど」
とりあえずそれでこの場は収まる。庚と虎落丸は、さらに奥へと進むことにした。皇ビルの方へと。
※
ところでその進行方向とは全く無関係の場所で激闘を繰り広げていたふたりの男がいた。猫依沙月と千柳斎東厳である。彼らは体術の限りを尽くしてこの長い時間をぶつかり合っていたが、この時ついにひとつの決着をつけるところであった。
犬神の化身が二匹、周囲に舞う。それはいつしか猫依自身の両の腕にまとわりつき、それ自体がひとつの顎門をかたどる。その爪はヒトのそれを凌駕して鋭く、その掌は岩をも砕く。妖力自体を独自の呼吸法によってコントロールし、肩から拳にかけての膂力に還元しているのだ。
対する東厳、どこからともなく取り出した棒を素早く振りかざし、猫依の格闘をうまくあしらっていた。しかしする方は真剣である。なにぶん、岩をも砕く掌を弾くだけでも手一杯なのだ。それは見事に猫依の技を避けているように見えながら、かろうじて躱すので精いっぱいだというのが正確だったろう。
技倆が互角。そう分かるや否や、東厳の余裕はギリギリですらあったのだ。
ところが攻撃の手を止めたのは、猫依の方だった。それもあまりにもわざとらしく、人気のない屋上を狙いすましたかのようにすっくとたたずむ。
次の手は来ないのか……という警戒心を抱かせながらも、それでももはや害意がないことを示すように両手をポケットから出して差し出していた。
「……?」
首をかしげる千柳斎東厳。
「〈月卿〉からの伝言だよ、〝学長〟どの」
「……!!」
それはどんな威力を持つ掌よりも心臓を強く圧迫した。
〝学長〟……それは、千柳斎東厳が、いまの号を名乗る以前のあだ名である。宗教法人あたらくしあを設立する以前、彼もまたある自己啓発セミナーの一員であり、それを運営する立場にもあった。そこで付いたあだ名が〝学長〟──彼が就任していたとある支部長を指して、そう呼んだのである。
そのセミナーこそは、旧帝国軍時代に軍事探偵を経験し、世界各国を渡って道を開いたというある男の学会だった。この男の思想の影響力はいまもまだ著しく、日露戦争を主導した軍人から大正時代の首相、昭和の横綱、実業界の大物から平成のタレント、スポーツ選手に至るまでその思想を受け継いでいる。
心身合一をスローガンとするその一大勢力は、東厳の武術のルーツでもあった。
むろんそんなことは身元調査が進めば分かること、それよりも問題なのは、この経歴から東厳自身が〝結社〟と関わりを持っていること、それ自体を察知されていたことだ。
「何が言いたい」
かろうじて出てきた言葉がそれだった。
「おれは公安の味方としてここに出張っちゃいるが、独自の調査であんたがたを調べさせてもらっている。もっとも、〝巫女〟どのはそれも分かった上で泳がせてもらっていたようだが、あんたについては情報は正確だったみたいだね」
「…………」
「おれは上から言われたことしか言わない。使いぱしりだと思ってもらって結構だ。向こうはあんたがたにいまさら取引を持ちかけようとしている。これに応ずるか、否や?」
「……断る」
「ほう。理由は?」
「しょせんは彼奴ら、積陰月霊大王の法を恐れてのことではないのかね?」
「…………」
猫依は眉ひとつ動かさない。それ見たことかと東厳はほくそ笑む。
「記紀に名を残しておきながら、歴史に関与しなかった唯一の貴子:月読を、我らはともに崇め奉ってきた同胞であろうぞ。それを積陰月霊大王と見立てたのは我らが〝巫女〟だ。
この見立てを良しとしなかったのは〈月卿〉にほかならなかったわけであろう? それをいまさら、和睦などと手を結べるわけがない……ッ!」
猫依はその場で胡座を組んだ。
「見事だ。しかしその反論は、上も予見されていた通りでな」
「なに?」
「もちろんおれたちは三本足の烏を主とする〝結社〟の中でも、異端派閥に属する。しかし積陰月霊大王はあまりにも別格だ。いくら闇の歴史に祀られてきたとはいえ、月読とはわけが違う。そっちの〝巫女〟どのはそんなこと、とっくのとうにわかった上であんたがたを利用してたんだよ。アイツは本気で、術者によるユートピアなんか作る気でいると思ってるのか?」
「いいや」
即答。猫依は目を見張った。
「わかっていて、か?」
「さあて。〝巫女〟はかねてより我が思念より遠く離れた所見を持っておられる。理解の範ちゅうの外側よ。しかし、ユートピアなるもの、信ずるに足らん。なぜならそれはすでに出尽くした議論だからな」
先人が叶えて来れなかった夢の話をするつもりはない、と、東厳はそう言い切った。
猫依はあえて食い下がる。
「千柳斎東厳。いまはそう呼ばせてもらうが、あなたは〈月卿〉も高く評価されている。いまが退き際だとは思わないのか?」
「はっはっはっ! 小僧! 戯言はここまでとしようや」
身構える。彼は戦うつもりが満々だった。
「この国が敗北を喫してよりすでに半世紀が過ぎた。その栄枯盛衰、眺めておるぶんことごとく面白みに欠ける。いいかね。〝巫女〟はそれでも命を賭すに値するのだよ。あれほどの存在の思惑、叶えてやるのも人が人として生まれてきた道理と思える。それ以上が要るものか」
「…………」
瞑目し、立ち上がる。とたん、彼の全身が逆毛に立った。
開いた眼は狼の眼──まさに〝内なる獣〟の解放がここになされた。
「なら、殺るっきゃねえなあ」
構える。そして──
勝負は一瞬で着いた。