41.平田啓介、男の意地(2)
庚は平田の怪我を察知するなり、スカーフを持ち出してそれを三角巾がわりにした。腕に巻いていたのだ。
オレンジのタンクトップに迷彩ズボン。革のブーツと言った出立ちである。それは公安というよりは自衛官と言った方が的確。しかしその身なりにしてきた理由も背景も、平田は全部わかっている。
「蛇男は?」と平田。
「虎落丸が追ってる。だからだ──」
言いかけたその時、まさに当人が申し訳なさそうに戻ってきた。
「アイ、スミマセン。逃シテシマイマシタ」
すかさず現れた緑色の躯体。カマキリが人間の形をとったかのようなそれは、庚の愛機であると同時に、式神のようなものだった。
庚はすかさず虎落丸の頭部に相当する部分をペシペシ叩いた。
「だめじゃん」
「アイ、スンマセン。ホントニ、スンマセン」
「おいギャグやりに来たんだったら時間外労働として認めねーかんな」
平田も一瞬しらけてしまった。
が、すぐに我にかえる。
「岐! 手貸せ! また黒いのが来る!」
「?!」
慌てて肩を貸す庚。虎落丸を連れて、平田を介助すると二人乗りになった。
「お腹のあたりで、手組めます?」
「肩外れたからきちい」
「しょーがないですね。虎落、平田さんのホールドしてやって」
「ソンナばいくハ、コノ世ニナイ」
「どうにかしろって。みんなで仲良く死にたかないから!」
アクセル。背後にはすでに、黒い濁流がビルの二階まで届きそうなほどに迸っていた。
踏む。全速力。どうにかこうにか平田が庚の背中にしがみつく。そのままかっ飛ばし、無人の新宿を駆け抜ける。
障害物の少ない、だだっ広い無人の副都心はかつて人間の生活があったとは思えないほどの空虚なバイクの轟音を反響させる。もし時間にして数えるなら、自衛隊のいる場所まで三分も掛からなかったはずなのだ。
にもかかわらず、この短い時間に事件が立て続けに起こった。
まず、異変に気づいたのは庚だった。
「平田さん」
「……まじかよ」
平田も気づいたようだった。彼が振り向くとそこには虎落丸の全速力に追いつかんばかりの速度で、這う動きをする土師清巳がいたのである。
「にィィがぁァァスぅかァアアアア!!!」
貪婪たる赤い左眼が、緑のバイクを見逃さない。その焦点は何よりも岐庚に向いていた。狙った獲物は逃さない。下卑たまなざしすら湛えて、それはかつて戦った相手すらを無視してなお、高級な血筋へと視線を注ぐ。
平田啓介は左手を、庚から離そうとした。
「なにしてんスか!」
「ばかやろ。おまえは前だけ見てろ!」
痛む肩を無理して、なんとか庚の体にしがみつく。そして左手で例の拳銃を取り出した。記憶が間違いなければ、残弾は二発。
肩からへそにかけて激痛が走る。目の前の焦点すらも危うくなりそうなこの極限状態で、かろうじて後ろを向いて、土師清巳の足掻くすがたを視界に入れた。
だが土師清巳もむざむざ相手の攻撃を受けるほど無能ではない。平田も視線が交差したとき、彼はもはやヒトとしてではなく、野生の勘のようなもので口から蛇を噴いた。
槍のように、矢のように鋭く飛び出す蛇。それが二、三と飛び、庚のバイクごと狙う。とっさの判断でタイヤや身体への直撃は避けるものの、大きくからだが振られて、平田の五発目はありもしない方向へと撃ち放たれてしまった。
「岐ォ!」
「なんスか!」
「最後だ! 避けながら安定させろ!」
「無茶ッ!」
このまま向かえば、御苑にたどり着くだろう。そこには自衛隊が機械仕掛けの結界石を警護しながら待機しているはずなのだ。
そこに土師清巳を連れて行くわけにはいかない。だからいまこそ決着を着けなければならない。
ふたたび蛇の矢が飛んできた。避けた箇所に硬く直立した蛇が突き立つ。
それが三つ、四つと繰り返す。その度に右に左に車体が揺られ、照準もぶれていく。土師清巳は決してブレない。というより、最短距離を駆けてようやく虎落丸に追いつくと言ったところで、余裕がないのだろう。
だから、問題はこちら側──決して揺れない一瞬だけが、あればいいのだ。
左手を構える。振り向きながら、肩の激痛を我慢しながら──腕が震える。車体も揺れる。庚も頑張っているが、それでも照準が合うことはない。
こんなとき──平田はあらぬことを考えた。こんなとき、あのバカだったらどう考えたものかな?
平田が霊能者として、捜査官として任務に就き始めた頃、自分と同格の術者で同等のキャリアを持つと知らされた大国忍は、まるで自分が「霊能者ってこんなもんだろう」と思っていたのとまさに真逆の人間だった。
そもそも篤胤の子孫として、それもそこそこの宗教の家系に生まれついた平田啓介は、霊能者としては末弟に属する。三人兄弟の三番目。小学校の頃に二番目の兄が交通事故で死んだとき、平田の父は自らの立場を濫用して事故を起こした当人を法的に起訴し、破産寸前まで賠償金を取っていた。当時はそれほど子を失ったことを悲しんでいたのだと思っていたが、大人になる頃、跡継ぎになるべき人間がいなくなったことへの冷徹な処置だとわかってしまった。
長子は霊能者としては平凡。しかし父親の教えはよく守ったので、政財界ではそこそこの二世議員として活躍した。ところが末子の啓介と言ったらいつまで経っても霊を見抜くことができず、妖力を発することがない。
次第に家族は平田啓介という人間を家で飼っている犬か猫のような扱いで、ひたすら適当に可愛がるという方向にシフトした。最初はただ無邪気にどこまでも許してもらえると喜んでいた本人も、思春期になる頃には、ようやく自分がいつまでも〝人間〟扱いされていないことを気が付き、戦慄したものだった。
それは優しさに見せかけた一種差別であった。どれだけ背伸びした悪事を働いても叱られることがなく、何をやってもとりあえずは褒めてもらえる。
「悪いところを指摘しない」「褒めて伸ばせ」を有言実行したかのような品行方正な情操教育を受けて育ったはずの平田啓介は、しかしその正反対のねじ曲がった性格とひねくれたものの見方を体得していた。
彼の目には、自分以外の大人が映っていた。その大人たちの目には、自分は決して映ってない。ただ「一生一人前にならない、体の大きな子供」というまなざしが、平田啓介の青春期をズタズタに貫いていた。
それを打開したくて入った警察という仕事である。そしてたまたま怪獣災害と霊能者の存在が社会問題化するにあたって、彼の出自を高く評価した上層部が、平田の親を説得して引き抜いた。
自分のポジションが、決して自分の実力とも能力とも関係なく与えられる。
果たしてこれは、良い家に飼われた犬と何が違うのだろうか。
平田啓介は思う。自分は世間のいろんな人生のなかでは、かなり恵まれている方だと。それこそ、土師清巳みたく才能に恵まれながら決して家督を継げずにいるような、そんな不遇にはいっさい巡り合ったことはない。ただやることなすこと褒められて、あやされて、何から何まで気が済むまでやらせてもらえて、でも、誰一人叱ってもくれなかった。
誰も〝平田啓介〟という人間を見ていなかったのだ。彼らが見ていたのは、〝平田家の末子〟であり、〝霊能者家系の異端児〟であり〝そこそこ切れる若者〟でしかない。
そんななか巡り会った大国忍という人間は、なんというかガサツにもほどがあったが、それでも平田を人間として扱った。〝平田啓介〟というひとりの人格として彼を認め、彼をそう呼んだのだ。そして数々の任務の中で、ともにメシを食い、ともに徹夜し、ともに犯罪者を追いかけた。
価値観から考え方まで全く異なるふたりが、任務というただ一点において、意気投合する。そういう瞬間が、当時の平田には新鮮だったし、思いのほか充実していたのだ。
そんなさなか、大国が家族を優先して出世コースを離れたこと、そして平田の部下になっていったことに、憤りを感じたのは平田自身だった。
「忍よォ、てめえ家族がそんなに大事かよ。おれらの仕事は世間を守ってる。世間を守ってるから、家族を守ってる。そういうことにはなんねえのかよ」
当時そんなことを言った気がする。だが、大国忍は寂しげにこう返した。
「世の中を守ってるからと言って、本当に隣りで大事な人を守れているものか。自惚れない方がいい。おれたちはただの仕事バカだ。仕事をやってればなんでもうまくいくって、思い込んでるだけの、くだらない人間だよ」
それはある種の予言だった。時ほどなくして離婚した大国は、それでもなお仕事に打ち込むようなことはせず、時に業務中にサボタージュして楽しみを見つけてくるような人間だった。
上司としてはとことん扱いづらい部下。建前にも虚名にも惑わされずに、毎日をのうのうと過ごしていた男。本音としてはどこまでも出世や周囲の期待から逃れたいとぼやいていた奴。それでも、仕事の成果は誰よりも確たるもので、実力者としての腕を振るった。
一度だけ、こんなことを訊いた。
「おまえこの仕事もう辞めりゃいいじゃん。なんやかんや、おまえすげえよ。たぶんおまえの性格に合っててもっと儲かる仕事ってたくさんあるだろ。なんでこう、他人の尻拭いみたいなのを好んでやってるんだ?」
しかし、大国の返した答えはこうだった。
「んー、まあ、でも生きるってそんなもんだろ。誰かが迷惑かけてるのを、別の誰かが尻拭いしてやるしか、社会って成り立たないじゃん。それを一番感じるから、おれはこの仕事がまだやりがい感じるんだよな」
その時返した言葉は、細かく覚えてない。だが、平田はそれをやり甲斐搾取の好例のように思ったのは間違いなかった。
結局、いい奴から先に死んでいく。他人の不幸に涙し、自分より他者を優先できる人間が、その分背負いすぎて自滅するように死に急いでしまう。
そんな馬鹿げた社会にいながら、そしてそんな馬鹿げた良識者が砕け散るのを横目で見ながら、空虚な大人の側に立って、おどけたピエロを演じ続けてきた。きっとこれから演じ続けるだろうし、これからも空虚な大人の一員として、部下に面倒をふっかける嫌な上司でい続けるだろう。
その繰り返しを、いつまで続ければ良いのだろう。きっと空虚な大人とは、この繰り返しに自覚的でいることに疲れてしまったに違いない。でなければ、その繰り返しに無自覚なまま、自分がより良い何かに向かって貢献していると信じ続けているだけだ。
その信仰は、一般的に〝自己啓発〟と呼ばれる。自分の人生は無意味で無価値だと信じたくない連中が、縋り付くようにたどり着く言葉が〝自己実現〟なのだ。
個人が自由で平等であることを保障するこの社会において、〝自己実現〟は絶えずドッペルゲンガーのように生きている人間の背後に寄り添っている。誰もが自分を認めてほしい。誰もが自分らしく生きたい。みんなと違う人間だって、みんなが言っている。
平田啓介もそうだ。おそらく岐庚だってそうだ。
そして、この背後で縋り付くように這って蠢く、土師清巳もまた、そうなのだ。
平田は仕事上、戦う相手のプロファイルをきちんとする。そこには土師清巳という人物を、渡来人呪術師の土師家の異端児という経歴をハッキリと抑えていた。人と蛇の合いの子が普通の出自であるわけがない。もちろんそれは、親の家督を継ぐことを前提とした、異形の実験から生まれた存在であることを、しっかりと記録している。
だが、その才覚は歪んだ傲慢を生み出した。大切に育てられた才能の主は、その才能ゆえに全てがゆるされると錯覚した。身近な人間を手篭めにし、気に入らない人間を殺戮し、ほしいものはすべて権力を通じて手に入れた。おまけに罪はすべて出自ゆえにもみ消された。ネットがそれで騒ごうと、お構いなし。彼の生きている世界はネットのある世界ではなく、人脈のある世界なのだから。
しかし、彼は人脈を持ってなかった。
次第に悪評が立つ彼を、界隈は見逃し切ることができなかった。素行の悪さと品の悪さがついに問題視されたとき、彼は自分の能力を驕り、界隈を離れて生きることを決意したのだった。
おそらく、この男にとって、世界や社会というものはどうだって良いのだ。
ただ自分だけが、自分らしく、自分のように生きられれば、それだけで良いのだ。
こう、言葉にしてしまえばなんでもないような、ごくごく当たり前の欲求でしかないものが、なぜか、平田にはとても許しがたいことのように思えた。
生活、仕事、プライベートに公共空間。そこにいるべき誰かがいる。自分以外の誰かが、目で見て手で触れるような距離にひしめき合っている。たったそれだけのことが、それだけのことなのに、どうして。
どうして。
蛇のまなざしが、平田の目と交差した。
「クソ喰らえってんだ」
引き金を引く。銃声が、誰もいない街に轟いた。
バイクの音がそれをかき消す。新宿南口付近の路上には、下半身が蛇の男が眉間に穴を開けて転がっていたのだった。




