40.平田啓介、男の意地(1)
黒い奔流がふたたび新宿の大地を満たし始めたその時、平田啓介と土師清巳の戦いはひとつのクライマックスを迎えていた。
しかしその瞬間を描くよりは、やはり時系列順に起こったことを書くのが適切だろう。
麻痺毒の効能を脱した土師清巳のことから始める。彼は全身の痙攣を慣らすべす、恐る恐る両の腕を動かし、それから全身の痺れた筋肉をもみほぐした。
対する平田は余裕たっぷりのしぐさでポケットから拳銃を取り出した。六連式のリボルバー、本来日本の警察が持ち合わせてはならないタイプの銃。その筒にはSとWが輝かしい代名詞のように彫り込まれていた。
「六発だ。それ以内にはカタを付ける」
そう、宣言した。
「へっ」
嘲笑う土師清巳、彼は徐々に人間形態に戻りつつあった。
「いいのかよ。そういう宣言ってのは、かえって自分を苦しめることになるんだぜ」
「まあ、言えば叶うなんて思っちゃいねえよ。自己啓発本じゃあるめえし」
別にそういう呪術的な縛りでもない。
「じゃあ、なんで言ったんだ」
「んー、かっこいいから?」
「はぁ?」
「かっこつけだけが生き甲斐だよ。それすらできなくなったらヒトとして虚しいだけだからな」
「バカバカしい」
ようやく揉みほぐした手脚に余力が出てきた。それまで経つのがやっとのところ、半妖としての妖力も回復にすべて持って行かれていた。
これほど絶好のチャンス。それをくだらない会話で浪費してしまうこの平田という人間を、土師は次第に軽蔑していた。
「そういうのは、圧倒的な実力者にだけ許されたパフォーマンスだぜ」
「そお? おまえ、弱いんじゃないの?」
「はん」
その手には乗らないぞ、と念押しに嘲笑った。
「さすがに油断はした。が、同じ轍を二度は踏むものかよ」
ふたたび変化する。その肢体に鱗が生え、前傾姿勢になるとディノニクスのような形態にすがたを変える。体長もそれ以前から遥かに大きくなっていた。
「すげえな。服とかどうなってんだ」
「答エル義理ハナイ」
ちなみに、一見するとそれまで着ていた衣服は霧消したようになくなっていた。
一向に余裕を無くすそぶりを見せない平田啓介に対して、土師清巳はまたしても苛立ちを抑えきれなかった。
完全形態と化した土師の動きは、さながら原始時代の〝狩る者〟そのもの。生まれつきの圧倒的強者の面持ちをたたえながら、這うように泳ぐようにその身をしならせ、間合いを詰め、それから牙を剥いた。
それをよける平田啓介だったが、その目はけげんだった。先ほど平田の血液で麻痺した身である。よもや二度目はあるまいと念頭に入れておいてのこの技は、さすがに意外だったのか。
否。土師の真の狙いは、さらにその先にあったのだ。
大きく開いた蜥蜴の口が、毒牙を剥き出しにしたかに見えたそのとたん、喉からさらにもう一匹の蛇が顔を出した。
投げ飛ばされたロープのような俊敏さで、それは平田の首に巻き付いた。絞められる。ぐえっ、と言う声がした。土師は容赦なくそれを首の一振りで振りまわした。
鞭打ちのように、うんと伸びた蛇の体ごと、平田はアスファルトにもんどり打った。したたかに腰を打つ。声にならない悲鳴が平田の喉に込み上げた。
土師はその喉から蛇を出し切ると、勝利の雄叫びを上げる。
「ハハッ、マサカオレガ近接ダケト侮ッタカヨ!」
平田はまだ立ち上がるのに苦労している。それ見たことかと土師はさらに両腕を蛇に変化させ、平田を噛まないようにその肩口と足首とを挟んだ。
「引キ摺リ回シテヤル……ッ!」
ぐいと引っ張る。その動きに合わせてアスファルトの路面に頰から半身を、さながら卸し金に押し付けられたかのように血を流していく。
平田はこれを回避するほどの体術に恵まれていない。だからひたすらなすがままにされていた……わけではなかった。
すかさず左手に持ち替えた拳銃を、土師に向かって放つ。
銃声とともに撃ち抜かれた右肩。妖力で防護しているとはいえ、まさかの一撃と痛覚で土師はその腕を離した。
自由になった平田の脚。勢い余って回転し、うつ伏せになりながらもかろうじて起きあがろうとする姿勢になる。この間に肩口の蛇も引きちぎり、なんとか無力化した。
息が荒い。平田も強くはないのだ。
「クソッ、小細工ヲ……」
妖力を解放し、傷口を塞ごうとする。
ところが。
「?!」
治らない。それどころか、妖力を行使すればするほど傷口からの出血が悪化する。
「オ前……!」
「説明してなかったから、知らなくて当然なんだがよ……それ、銀の弾丸なのよね……妖力に反応するから、治そうとするだけ無駄よ」
「……オノレ!」
術者は自らの妖力に依らない術式を嫌う。特にそれが自らの信仰する神と無縁のものであるときには、なおさらだ。
「キサマ、ぷらいどトイウモノハナイノカ!」
「あるさ。だがそれはてめえらみたいな〝自分信仰〟とは無縁のものなんでな!」
すかさず二発目。三発目。
慌てて避ける土師だったが、ついに三発目が右目を貫く。
「ウガァァァアアア」
ジクジクと痛む目。治すことも叶わず、痛みだけが激しい。
のたうち回る大蜥蜴。ようやく立ち上がった平田は、とどめを刺すべく新しい小道具に手を出そうとした。
しかし、その時平田の背後から巨大な蛇が横様に噛み付いてきた。
「はっ?!」
しかもその瞬間に、のたうち回っていた土師清巳の身体が抜け殻になっていた。傷だらけの肉体を投げ打ち、さらに無数の蛇となって身体中から散っていったのだ。
あとには、人間だった頃の衣服が残るのみ。
「くそっ」
巨大な蛇を撃つ。四発目。その一撃は蛇の動きを止めるには致命的だったが、なぜゆえか土師清巳の苦痛には届かない。
どう、と地に倒れる巨大蛇の口から逃れ出た平田だったが、すかさず無数の群れと化した蛇が足から這い上がってくるのを感覚した。
「おいおいおいおいおい」
さすがに余裕がなくなってきた。焦りも出てくる。平田は苦痛を引きずった身体を前のめりにし、蛇からの脱出を試みる。しかしもはや数の勝負だった。
足元に固まってきたそれを遮ることはできず、ついに膝をつく。とたんにどこからともなく出てきた蛇の群れがむくむくと人型の塊になり、上半身が裸のアルビノ、下半身が蛇となった男を生成した。
「舐められてもらっては困るな。これでも魔家四将の第二位だ」
「フン。それにしちゃ漫画でやられる三下みてえなことしか言ってねえぜ」
「ほざけ。キサマとの戦い方も、ようやくわかってきた」
奇妙な音がした。見ると平田の右肩に蛇がまとわりつき、無理な方向に引っ張られていた。
「これでキサマの利き腕も使い物にならなくなったわけだ。このクソッタレめ」
「…………」
だがこの瞬間、ふたりは同時に違和感が場を駆け抜けるのを察知した。
ついにこの時である。黒い奔流が西新宿の街から溢れ出し、徐々に南西方面の交差点まで浸食を始めていたのは。
「ついに来たか」
「…………」
平田の脳裏にあったのは、いかにこの状況を脱し、椹木信彦に合図を出すか、であった。
そもそも司令塔である自分が近接戦闘をしなければならないこの状況がおかしいのだ。しかし大国もおらず、庚に別行動を許しているいま、平田自身も手駒として動かなければならない。もちろんある程度逆算はしていたが、いまのとなっては後の祭りだ。
「ヤベェ」
たった一言。それが本心だった。
「これでおまえらも終わりだな。〝大洪水〟が弱きものを滅ぼし、新しき世界が訪れる!」
遠くでバイクの音が聞こえる。それを耳にして、平田は閃きを得た。
「ヘッ、その世界はおまえらのものとは限らねえんじゃねえのかい」
「? 何を減らず口を」
「おれは望月サヤカの真の狙いを知ってる。おまえらはしょせん利用されただけだ」
「ふん。ばかめ。利用するしないは実力の問題だ。おれが巫女の手脚になっていることは問題ではない。おれは生き残れば良いんだよ。それが誰の意志かなんて、関係ねーのさ!」
「そうかいそうかい」
メキメキと音を立てている。脱臼させられた腕がさらに引き伸ばされているのだ。さすがに苦痛で余裕がなくなってきた。
それでも、バイクの音がある種の確信になっていた。
「なら、おまえさんもはやくここを去ったほうがいいぜ。そら、あすこから黒いやつがどんと来るのも時間の問題だ」
「言われなくても。おまえをここで八つ裂きにして、オレは次の世界でも生き残ってやるさ……ッ!」
その時、バイクの音が耳をつんざくばかりに迫ってきた。この時初めて音の違和感を察知した土師が、ライトの方角を振り向いた。
だが、とたんにその身体は強い衝撃とともに吹き飛ばされていた。緑色の躯体が風のように駆け抜けて、平田の眼前を瞬きひとつでよぎっていく。
残像ひとつない。あるのはバイクに轢かれ、無残な血を晒す蛇の群ればかり。
一瞬股が冷えるような心地に襲われながら、平田はついにその身を解放する。
痛え痛えと言いながら自分で右肩をつなぎなおす。
その間にゆっくりバイクの方から歩いてきたひとりの存在があった。
「大丈夫ですか? 平田さん」
「ばかやろ、遅えって」
岐庚だった。




