39.豊饒の海満ち溢るる時
「始まりましたね」
「みたいだな」
吉田恂が式神の布陣を張る手前、猫依沙月は伸びをしていた。
犬神を分けて追跡を出す。この作戦と並行して、徐々に始まった災害の第二フェーズを阻止する動きが展開していた。すると追うものは必ずしも盤石ではなくなる。もともと接近戦を得意としない吉田は、式神を分散して各結界石を用心しようと、そういうことになっていた。
猫依はというと、犬神ありきで戦う彼にとって、分霊は戦力の激減を意味した。ということは、可能であれば戻ってきてからの方が行動しやすい。と同時に、接近戦に弱い吉田の守りをした方が効率が良いと判断したのである。
会話の途中で、猫依は犬神の分霊が戻ってくるのを察知していた。嗅ぎつける鼻が要らなくなったのならば、それは接敵を意味する。戦いの火蓋は切られたのだ。
吉田は状況の変化を淡々と観測しながらも、不安を隠せない声色で、口を開いた。
「あの黒いやつ、今度は何する気なんでしょうね?」
「さあてな。おれァ難しいことぁよ、サッパリだかんな」
「気になりはしないんですか?」
「おれは気にしてんのは、井氷鹿がくたばってねえかってことぐらいさ。知ってっか? あいつほっとくとすぐメシ抜くんだぜ?」
「……」
「ったくよ、最近はマシになったって言っても、プロテインバーとカロリーバーしか食ってねえからな。たまにメシ食わせないと肝心な時力が出ねえって言いやがる。ばかだぜ。仕事に夢中になってるやつはよ」
吉田はおもむろに顔を上げた。猫依の形相は、けものの面影があったが、この時はなぜか優しく見えた。
「猫依さんって、面倒見いいんですね」
「……猫さん」
ぼそり、と山崎ひかり。
「ンだとオラァ! てか、なんでお前ここにいんだよ!」
つい先ほど、犬神の分霊を分け与えたもうひとりが、いつのまにか戻ってきている。
すん、と何かが鼻を抜けたような気がした。猫依が眉をしかめる。
「敵を、追いかけてた」
「そうかい。おれの犬鬼はどうした?」
「……ここに」
彼女の足元には、豆柴サイズの犬神がくぅーん、と寂しげに鳴いていた。
「ほう」と、言ってから、おもむろに顔を上げた。「にしては、お色直しが早いんじゃねえか?」
「なんのこと」
「変わり身の術ってやつか?」
「……」
「現代忍者ってのは、おしゃれしすぎてかえって術も疎かになるんだな」
と、言いかけたとたん、背後から強烈な気配を感じて振り向いた。
そこには千柳斎東厳の鋭い蹴り。
とっさに両腕をクロスして防御する。その勢いを背後に殺しながら、受け身を取った猫依は、すかさず立ち上がる。
老翁は、ハッ、と競走馬のような雄叫びを迸らせた。
「公安も人手が足りなくなったかの。よもや内閣調査室の小僧も駆り出すとは」
「そりゃ悪かったね。いわゆる国家の一大事ってやつでなァ」
ギラギラしたまなざしが、老翁を捉える。
一方、吉田恂はかつて山崎ひかりだった人物からの立て続けの接近戦に苦闘を強いられていた。
腕。脚。肘。足。掌。掌。この連続攻撃を前に、反射神経が間に合わない。三発目からしたたかに喰らい、式神の布陣を一度解かなければならなかった。
「くそっ」
「こないだの借りを返させてもらおう」
幻術を解いてあらわれたのは、弓削倫子。アシンメトリーの白黒服を着て、ブルーリボンで留めたポニーテールが空を切った。
いったん間合いを取る吉田恂。彼はすかさず猫依の状況を察知し、意思疎通を図った。
「猫依さん!」
「なんでか知らねーが、犬鬼は本物だ。だからフルパワーでやったろうじゃんよ」
来い、と言ったそのとたん、犬神の身がかげろうのように妖力をみなぎらせた。その炎は猫依の血潮を激しく巡らせ、両の頬に埋め込まれた文身を浮き上がらせる。
奥歯をギリギリと鳴らす。まるでそこに原始の記憶を──かつて人間がケダモノであった頃の本能を呼び覚ますスイッチがあるかのように、すり合わせ、かちりと切り替えた。
発熱したかのような烈火の肌色。その灼熱の妖力に身を焦がしながら、猫依は靴を蹴飛ばすように脱ぎ、手首に巻かれたサポーターを振り解いた。
靴を脱ぐ。手首に巻かれたサポーターを取る。このレベルになると、この領域になると、その難敵と、対話しなくてはならない。
飛び出して行った猫依の俊足。十メートルの間合い。これを早く突き進んでいく。
空を切り裂く音。続いて五十センチの下方修正を施して、東厳老翁の身構えを容赦なく叩き下すと、振り向きざまに肘鉄。横スイングした動きとともに、どうと激しい一撃を与えた。
瞬きする間も無く吹き飛ばされる老翁を尻目に、猫依の瞬足は弓削倫子の方にも牙を剥いた。こちらは流石に一瞬見る隙があったせいか、簡単にはいかない。
瞬きひとつで五回の連打。これをうまく受け流され、三回の後転を経て、体勢を戻される。あと三秒。飛び出す。組み打つ。二秒。一秒……
時間切れだった。飛び退る。弓削倫子は躱すので精いっぱいだったが、この攻撃を耐え忍ぶことができた。
勝ち誇る笑みを見せる現代のくノ一。ところが、その完全に油断した脇腹に、金棒の一撃が入ってもんどり打った。
「フェアじゃないのは許してください。もともとフェアに戦うと、ぼく負けるんで」
吉田恂だった。その傍に立っていたのは、金棒を握った二メートル近い巨漢の護法童子、その名も阿形・桜童子。
胸筋をあらわに、腰巻きひとつのその立ち姿は、さながら金剛力士像そのもの。しかしその強面には巨大な呪符が雑面よろしく掛け下がっており、決してその目に魅入られてはならぬと境界をひかれていた。
「くッ」
弓削倫子はその存在に圧倒され、脅威の優先順位を吉田に格上げした。
「吉田神道の流派は、惟神の道を修めるためならなんでも使え、てのが流儀でしてね……でも、いわゆるカミサマから遠ざかれば遠ざかるほど仮象に近づくので、あんまり好まれないんですが……」
A.U.M.
インド由来の聖なる母音が、次なる護法を呼び出す。
空気の或る面が、水面のように揺らぐ。その中から浮かび上がるように立ち現れたのは、吽形・橘童子。阿形と瓜二つながら、左右の肩口から伸びる牙のような棘がその区別を明らかにする。
「阿吽相形。左近・桜童子、右近・橘童子。これがぼくの最大の手駒です……ッ!」
ひ弱な術師と侮るなかれ。この吉田、禁中を守護する仏の道、その護法童子の継承者でもあった。
「なるほど。式神使い、ばかにはできない」
そう独りごちる弓削倫子、親指の腹を、噛みちぎる。その予備動作は、吉田に次の行動を予期させるのになんの不都合もなかった。
「させないッ!」
右腕を振るように、橘童子の突進がある。しかしその金棒はむなしく空を切り、代わりに和紙の長大な巻物の残像が飛び交う。
逆巻く螺旋。古典的な忍法帖。その縦書きに指からの血の一閃がほとばしり、二重に絡み合う。まだ間に合う。吉田は退く弓削倫子を、逃しはしまいと追い打ちをかける。
「臨・兵・闘・者・皆・陣・列・在・前!」
躱しながら唱えた九字の印。
「口寄せ。狗龍ッ!」
それは、闇より出てて、闇に溶け入る。
まるで水を泳ぐ蛇さながら、それは闇から飛び出して、橘童子の上腕に噛み付いた。動きを止める護法。呑み込みに失敗した狗龍が無様にぶら下がったそれを、まるで天日干しにあった鯵の干物のように見下ろす。
すかさず飛びついた桜童子が、狗龍を捻り潰さんと外側から圧を掛ける。ところが敵は一体ではなかった。まるで梅雨の始まりの水面のように、中空に波紋が複数──
「数ですか」
「さて、術比べなら負けないわよ」
身構える吉田、微笑む弓削倫子。
式神同士の乱戦が始まる傍らで、猫依は激しい息切れを、ようやく鎮めたばかりだった。
「さすが犬神憑きの獣拳法。内なる獣を解放するのは、身空にこたえるか?」
千柳斎東厳。先ほどの殴打を受けながら、まだ顔色ひとつ歪みなし。
「よもやわが組織に潜入捜査していたのを忘れたとは言わせまいぞ。貴様もまた、我らが巫女の野心を勘繰る下賤のものよ」
「るせぇ、その昭和の特撮ドラマみてえな口の利き方なんだ。いい歳しやがって」
「……」
「しかしバケモンみてえな回復力、信じたくねえけど、おまえを止めるには俺しかいねえってことかよ……」
「はて。ウヌひとりで我が拳、止められるかね?」
「やってやるさ。てめえの底知れねえバカ体力、その元ネタ腑ごと引き摺り出してやる」
術師たちの夜はこれからだった。だが、時は無惨にも悲劇の手を止めない。
※
月には無数の〝海〟がある。呼ばれ方に反して、実体としてはなんら水を持たない虚の海でしかない。しかし個々の名前は詩的な趣きに富んでおり、皮肉にも現実世界の海よりも豊かなイメージを水面に湛えている。
それは肉眼で見ることは叶わない。しかし人類は、かねてよりその歴史の原初から、月の〝海〟を眺め、そのかたちの組み合わせから無数の神話を構築した。心の眼で、そのイメージを膨らませ、実らせ、世界に取り込もうと努力したのだ。
月に住む兎。蛙の王。不老不死を損なった赤鬼から、かたや月から出る鼠の伝承も、世界には語り継がれていた。月は闇の天空と雨水の支配者であり、それによって農作物の豊饒を約束する魔術師であったのだ。
しかしある時からか、月の神話は意味を持たなくなっていた。大っぴらに月を王道に絡めて語ることは次第に悪とされ、君主の道は常に太陽の元に置かれるべし、とその銘を変えてしまった。
覇権国家のすべては、いまや一人残らず太陽の申し子である。
太陽の都。太陽王。日の沈まぬ国。近代に名を馳せた国家が、絶対君主がその栄光に冠したのは、月ではなく太陽の光だった。
しかしその輝きを前に尻込む詩人は、見捨てられた自己を救うために絶えず月を求めて言ノ葉を紡いでもいた。
花鳥風月という言葉が残るように、月は仮託の場所として、激しく輝く光の前に取り残されたものたちの希望のまなざしが向かう、まさにその場所だったのだ。
近代科学は、しかしその月を、見るも無惨な荒野へと発見して行った。始めは望遠鏡の観察が、次いでさまざまな科学者が、過去の月に仮託された言葉を台無しにし、ついにはその大地を人類の足で踏みつけた。
いまや月に空気はなく、水もなく、生物もない。それが常識となってしまった。
唯一、科学が取りこぼしたのは、月の光の源である。それは太陽の光の反射であり、自転と公転の奇跡的な組み合わせから、月はその裏側を地球には決して見せないように運行していることがわかった。
いわば、月は鏡なのだ。周期的にめぐる太陽の光を受けて、その公転具合から、さまざまな光と闇のバランスを暗示する、それは一種の光学的装置と化したのだ。
新月は月のリセットを示し、満月は風物詩としてある種のピークを示す。
だが、おかげで月は太陽のしもべとなり、昼間の疲れを放流するための癒しの月としてしか、その機能を許されなかった。まるで太陽の代理照明としての月。あるいは、秩序なき中の優しき保母としての、月──
そこにいま、地球の陰画が映っている。
ふだんは優しき面持ちを湛えた月は──否、優しき光であることを強いられた月は、この時、一瞬ばかり恐ろしき顔をあらわにする。それはかつて月に死を見た人々の、あるいは農耕社会における恵みのさじ加減を測ったあの自在な支配者としての面持ちである。
狂気の月。取り憑かれた月。しかしそれは、単に世界に隠されていたある潜性を、解放したに過ぎない。
徐々に湧き上がる黒い水は、まさにその撓められ、抑制されたあらゆるものの解放を意味したのだろうか。
「…………」
山崎ひかりは、ただ無言で新宿の街を見ていた。黒塗りエリアの減退に伴って一気呵成に侵入したこの一画は、まるで無人の廃墟街のような生命のなさを予感する。
これがかつて人の住んだ街なのか。そのような悲痛な感動も、いまや無情にも通り過ぎていく。皇重工ビルまで、あと三分も要らない距離。犬神とはいつのまにかはぐれてしまったが、ここまでくれば別に用はなかった。
「いい眺めだろう?」
不意に、声が聞こえる。見れば、廃墟の一角から見下ろすようにたたずむ影。
ポニーテールの立ち姿。中性的な顔立ち。そのプロフィールを、山崎ひかりは知っている。
「……月」
「へえ、知ってたんだ」
「一度やりたいと、思ってた」
「そりゃあ、光栄なことだね」
擬神器:水曜刀を構えた。対する月も身構える。
その時、ついに皇重工ビルが、二度目の大洪水を開始したのだった。




