37.聖少女の降誕
二〇一八年七月二十八日未明。
満月が昇りつつあるこの頃、新宿の〝黒塗りエリア〟に見知らぬ影が出没した。
その数、百では済まない。
どこからともなくぞろぞろと群れ出したその人間たちは、SNSの号令で集まった。深夜の徘徊とでも言うべきこの異例の集団は、黒塗りエリアの周囲をぐるりと一周するようにその縁を歩き続けている。
メンバーはみな、顔が割れている。
宗教法人あたらくしあ。その周辺的な所属者で、ひとりひとりはその組織の真髄をなんら知らず、ただ慄き、祈りを捧げるばかり。
彼らはもとから独自の宗旨を持った組織だったが、その実態は慈善団体に近い。
平田啓介の調査に拠ると、「人間の原初の罪業が現代文明の腐敗と不幸を招いている」というのがその世界観で、「だからこそ罪業を認識し、心の眼を磨き、おのれの行動を律するべき」だとしている。その宗旨は奇妙な似非科学理論を含んでいるが、基本的には隣人を愛し、ボランティア活動(特に怪獣災害による被災者救助)を推奨し、徳を積むことを目指す。正しく徳を積んだものはやがて死んだ後に功徳を認められ、不幸の連鎖を克服できるのだとしている。
壺を売るわけでもなく、現代医療の手続きを否定するわけでもない。
信者を搾取するわけでも、強引な勧誘活動に精を出すわけでもない。ましてやその歪んだ世界観から他者や育児に暴力を振るった形跡すらみつけることができない。
ただ、世界観が非科学的な、〝良い人たち〟の集まり。
だからこそ、その背後で行っていた真の悪行に公安が手を付けられなかった。
後からわかったことだが、〈あたらくしあ〉の組織には二層構造が組まれており、一方では表に出て、大多数の人間が所属し、積極的に社会参加をする表層がある。
ただ、もう一方では偽PIROというべき機関を運営し、妖怪狩りをしている人間を使い倒す奇妙な側面があった。
後者について、その動向が最終的に何を目的としているのか──いまに解ろうというもの。
「愚かなひとたち」
口ずさむように言葉をこぼす。そのおんな、名前を望月サヤカと呼ばれる。
彼女は、信徒を実につまらないものを見る眼で見下ろしている。黒づくめの動きやすい服。新宿駅の構造物の天辺に、さながらコンクリートジャングルの枝木に泊まる迦陵頻伽のように──しかし、その性質は邪悪そのものであったが。
「いくら信じたところで、〝持って〟いる人間とそうでない人間は明らかなのに」
「巫女よ、そう言ってやらないでください」
諭すように言うのは、千柳斎東厳。
こちらは得物を携えての登場だった。
「信仰とは現代においてこそ必要なものなのです。自由・平等・博愛。まさにこの人類の二百年が必死に築き上げた信仰そのものです。これを刺激するのは魂を侮蔑するに等しい」
「たましい? 美しい言葉だわね」
「しかし重要なことですぞ。自我とか自己主体とか、基本的人権だとか、あるいは人間の尊厳も言ってもよろしいが。とにかくそうしたものは『たとえ実在しなくとも』〝信じることで〟救われるものがあるというものです」
「掬われるのは魂ではなく、足元よ」
ふだんの様子と異なり、その眼にはあからさまな嫌悪と侮蔑がこもっていた。
しかし、それもつかの間。フッと頬が緩みもとの温和な微笑みに変わった。
「まあ、それもこれで終わりね」
「はい。来る世界の洗礼を前に、彼らもその信仰を試されることでしょうね」
立ち上がる。振り向いたところに、土師清巳と弓削倫子がたたずんでいた。
「雑面法師さまは?」
「そろそろお目覚めの時だよ」
「まったく、月の王を降ろすためとはいえ、儀式が二週間も掛かるとはね」
「でも、これでようやく待った甲斐があったというもの」
ほくそ笑むのは、弓削倫子である。
「さて、そろそろ眠り姫にも起きてもらわなきゃ」
望月サヤカがそう言った、その時である。
「待ちな」
ちょうど行方を阻むように立ち並ぶ、四人組。
ひとりは無精ひげのおとこ、平田啓介。
次にいるのは吉田恂。
もうひとりは人相の悪い青年。
そして最後が山崎ひかりである。
公安警察第十一課、通称〈特殊霊障捜査班〉のメンバーの顔が揃っているように見えたが──
「猿女君はいないのね?」
「あいにく最後の仕上げがあってな。別行動中だ」
「それで、そこの方はどなた?」
「……ケッ、気に食わねえなァ」
望月サヤカは素知らぬ顔だったが、知らないわけではなかった。
猫依沙月。内閣調査室所属の霊能者で、冬堂井氷鹿の同僚。で、ありながら〈宗教法人あたらくしあ〉お抱えの妖怪ハンターとして、かつて犬神憑きの術師だった存在──
彼は一度東新宿の事変で岐庚、東海林飛鳥のペアと戦った、あの人物である。
それがいまや、冬堂井氷鹿との同盟から、公安の先陣を着ることになったのだ。
「カマトトぶってるなんざ、イマドキ流行りじゃねえぜ」
「まあ下品なこと」
クスクス微笑む。その眼はやはり蔑みのまなざしをたたえる。
「ということは、わざわざこうして正面衝突しようってわけね」
「ああ、そうとも。そういうの、一回やってみたかったからな」
獰猛な笑みを浮かべる平田。
「あの時の続き、ちゃんとやろうや」
「続きって言っても、あなたは逃げるのが得意だっただけじゃない」
「時間稼ぎをするのがおれの役目でね」
「ホラ、やっぱり。同じ手に二度とは乗らないわよ」
ぱちん、と指を鳴らす。とたんに掻き消える望月サヤカ率いる四人組──
「何ッ!」
「幻術ですよ! だから注意しろって言ったじゃないですか!」
吉田恂が怒鳴る。
「どうする?」
「あんたいつも用意周到なのに今日に限ってボンコツなのなんなんだ!」
「いやあ、まさかこうもあっけなく逃げられるとはな……」
ポリポリと素知らぬ顔で頰を掻く。
「ッたくよ」
猫依があきれ顔で犬神を呼び出した。
「さっきの幻術からでも、やつらの妖力の性質と流れがわかる。こいつらはそれを追うプロだ。うちの犬鬼を分けてやるから追跡に役立ててくれ」
平田啓介が救い主でも見るような明るい顔になった。
「もしかして、おまえ良いヤツ?」
「アァ? ふざけんなてめえコラ! もとはといえば──」
「喧嘩してる、暇はない」
山崎ひかりが割って入る。
それで全員が冷静になった。
「よし、じゃあ犬神借りるわ」
「どうも気になるのは、全員バラバラに動いているようだぞ」
猫依が注意する。
「望月サヤカの動向が気になるが」
「まあ、それこそ大丈夫だろ」
平田はあくまで楽観的だ。
「なにが。あいつが術者の中では最も危険なんだぞ?」
「奴こそ狙いがハッキリしてる。そしてそこには最強のコマを置いてるから、なんも問題はない」
「最強の……って、おまえ」
「ピンポン。どうせ皇ビルのど真ん中でしょ。そこに井氷鹿くんを配置したから」
「おまえ、ほんとに人使い荒いのな」
「……今に始まった、ことじゃないから」
山崎ひかりが冷静に言う。が、猫依の驚きように同情的だった。
「ま、さしづめ月の王を起こして世の中ひっくり返す魂胆なのだろうが、そうはさせんよ」
平田が腕を回した。
「朝が来たらみんなお縄につかせてやる。月蝕なんて見てる暇がないようにな」
二〇一八年七月二十八日……それは、明け方ごろに皆既月食が起こった日である。
しかしその月が完全に喰われた時間には、朝日が昇っていて、誰もその瞬間を目の当たりにしていない。はずだったのだ。
※
望月サヤカが皇重工ビルにたどり着いたとき、夜の果てに縹渺とした光の兆しを見た。
夜の底が白くなる。徐々に朝日が次の日常を予告するそのさなかに、〝黒塗りエリア〟の中枢へ悠々自適と歩いてきたのだ。
鼻歌すらまじえて、余裕たっぷりに。
ずっと長い間、この時を待ち望んでいた自分がいる。
生まれつき能力を持った彼女にとって、この世はとてもつまらないものだった。
退屈。それは世界を灰色にする。
さながらアポロ着陸以降、月世界が生命の住まない虚無の世界となったように。
結社でのプログラムも、政財界への関与も、決して彼女の渇望を満たしはしなかった。ただ、退屈と倦怠。たまたま持ち得てしまった能力の使い所がないという、そのやるせなさが痛いほどあった。
海外に出かけても大したことはなかった。言語が違うだけで、あさはかで愚かなのはどこの国の人間も変わらない。
どうせなら、この世界を壊してみたほうが面白い。
そんなアイデアがいつ生まれたのか、もう憶えていない。しかしそれを実行に移すときこれまで感じたことのないほどの喜びとやりがいを獲得した。
そして同時に、なぜいままでこれを思いつかなかったのかと後悔すらした。人の奥底に溜まった鬱憤。それは他人への恨み。社会への不満。満足いかないあらゆる環境への怨嗟。それを汲み取ることは容易いし、それを見抜いて操ることなどもっと楽だった。
この世を不満が群がる麦畑だと見た時、これほど風に靡いて気持ちいい景色はない。そう思ったのである。
「さて、待ち伏せなんかされても丸わかりよ、井氷鹿くん」
「…………」
望月サヤカの背後に立つ、ロングコートの男。冬堂井氷鹿はあくまで口を開くことなく、注意深く彼女の動向をうかがう。
「猿女君はここにもいないのね?」
井氷鹿は黙っている。
ため息が、あった。
「つまらないのね」
井氷鹿は静かにポケットから手を出した。その手はこの夏の夜にもかかわらず、凍てついたこぶしを作っていた。
そこにすかさず望月サヤカが身を翻し、反撃を加える。
ほんの一瞬、痛覚に届く。
しかし井氷鹿にはなんの影響もない。その身体にカミを宿す身にあって、通常の呪術はたとえ封印の類であったとしても、数秒の間しか効果をもたない。
ところが井氷鹿の表情が、変わった。
「これは──」
「反転真言曼荼羅。そう、これはキミを倒すための奥の手よ」
望月サヤカの顔が緊張に満ちる。その手が離したのは、特殊な曼荼羅図式を刻んだ呪符だった。
「急急如律令!」
そして、後から口ずさまれる、言霊。
天橋も 長くもがも 高山も 高くもがも
月よみの 持てる 変若水 い取り来て
君にまつりて 変若えしむもの
言霊がほとばしるやいなや、井氷鹿の体がみるみるうちに老化する。シワが刻まれ、深くなり、体幹が弱くなる。
並みの人間なら、この急激な変化で膝からくずおれて、身体組織をズタズタにされる。しかし、相手はヒトの形をした神だった。時間の経過などまるで意に介さない存在は、老化によっても依代の劣化という結果しか招かない。井氷鹿は苦しそうにしつつも、彼のうちに宿る神が巧みに老化に抵抗し、望月サヤカの手が触れるその場所からみるみるうちに氷点下の温度に染め上げた。
老化するおとこに、凍てつくおんな。
この相討ちが、廃墟の前で展開する。
「いい手を思いついたようだが、相討ちでは意味がないな」
井氷鹿が語りかける。
しかしおんなは勝ちを確信した笑みを浮かべていた。
「違うわ。これがほんとうの陽動作戦っていうのよ」
彼女が指差したのは、中空。
そこには一羽の式神が、滑空しながら廃墟の奥へと飛び込んでいった。
「あの式神には真言が刻まれている。もう終わりよ。あなたがここから飛んで行っても、間に合わない」
「その前に、お前を止めてやる」
じりじりと望月サヤカの生命維持活動を弱めていく井氷鹿。
その権能を、一方で満足に発揮させまいと抑制する老化の力──
ふたつの力が拮抗する。その時間は実に三十分もの緊張を生んでいた。
朝日が夜に差し込む。
夜の闇が徐々に薄れつつあるなか、公安と術者の格闘が展開する。
そして、皆既月食が始まった。
それは一般の人間の眼には捉えることのできない、白日の輝きに隠された状態で進んでいった。しかし月蝕とは、地球の影に照らされることによってその輝きの性質を変えるのが特性だった。
いま、次は二つの光を同時に受けていた。
ひとつは日常の時間を照らす白い光。これは満月の輝きとして、黄金色の艶やかな灯りをともす。
一方は、幻想の時間を照らす黒い光。これは太陽が地球を照らす影である。それは並みの人間の眼には見えない世界を、宇宙に向かって投影するのである。
いま、まさに地球の陰画が、月に映った。
そしてそれが白日のもとに照らされたとき、その時は起こったのである。