36.絶望の時代に生まれた僕らは
メッセージは一件だけではなかった。未読の通知が山ほどあったので数えるのもおっくうだったが、遡れば遡るほど無数の言葉が積み重なって、すっかり長文になっていた。
ようやく宗谷紫織からの最初のメッセージにたどり着く。その直前は、安代麻紀からの送信日時が二〇一六年の十月だった。
>マキちゃん。おひさしぶり。お返事できてなくてごめんなさい。
>最近思ったよりも忙しくて、なかなか返事ができないでいます。変なことはしてない、と思う。とにかく目が疲れることばかりしてるから、スマホも触ってない。だからマキちゃんから連絡が来てたことも知らなかった。ほんとにごめんなさい。
そこまでが二〇一七年の一月。数日後に、間が空いて、追加のメッセージが届く。
>マキちゃん……?
>そのうち遊べる日が来るかもだから。またいつか行こうよ。お返事待ってます。
それから数ヶ月経った。返信も既読もない長い時間が、行間に深い溝を作っている。
次の受信は二〇一七年の六月中旬。やはり宗谷紫織からである。
>マキちゃんへ。いつか遊びに行こうと書いたけど、またしばらくムリかもしれません。これからわたしは遠いところに出かけることにしました。しばらく東京にはいない予定なので、お返事もらっても遊ぶ約束ができないと思います。
>東京に戻ったらまた連絡するから。その時にこのメッセージを見ていたら、通話でもしようよ。
「あのさ、失礼かもしれんが」
平田が唐突に割って入った。
「イマドキって、半年通知読まないの普通なん?」
「……それ、野暮」
山崎ひかりが目を細めた。
安代麻紀は苦笑する。
「普通じゃあ、ないですけど。まあ、あたしほんとにSNS読まないんですよね。急ぎはだいたい通話で来ますし」
それに、当時マキのSNSはそれどころではない通知が山のように殺到していた。そっちを捌くのが基本で、ほかの友達からのメッセージもろくに読んじゃいなかった。
紫織だけが例外だったわけじゃない。しかし紫織がここまで懸命に、立て続けにメッセージをくれたことに、今更になって罪悪感が芽生えつつあった。
「んまあ、いいけどよ。そういうもんなのか……」
そのとき、彼らの斜め後ろの席にひとりの女性が座った。徐々に店が混み始めているようだった。
平田は納得がゆかない顔で、続きを読むように促す。自分で中断した話題だろうと、山崎ひかりは無言で非難していた。
そして次の着信はなんと一年も空いている。二〇一八年の一月。
>あけましておめでとう。マキちゃんちっとも見ないんだね 笑
>東京戻りました。もうお互い三年生なんだね。わたしはたぶん、中退ってことになったと思うけど、マキちゃんは夢に向かって頑張ってるのかな。
>きっと自分のことで忙しいんだと思います。それはそれで頑張ってほしい。でも、もしわたしを思い出すことがあったら、お返事ください。
ぎゅっ。心なしかマキの右手が硬く握られていた。
さらに二週間ごとに少しずつ、間隔を空けてメッセージが続く。
>わたし、何かしちゃった……?
>ねえ
>マキちゃん、ほんとは通知見てるんでしょ?
>ねえ
日付が開く。
>ごめん。わたしの知ってるマキちゃんはそんなことしない人だった。勘違いだった。ごめんなさい。
>でも、もうそんなに時間がないんだ。できれば早いうちに会いたい。
ここから数日後、思い切って通話をした履歴がある。不在着信となっている。
「これ、なんで取れなかったんだ?」
平田が言うと、安代麻紀は言葉を濁した。
「えっと……しょうじき言うと、憶えてないです」
履歴は二〇一八年の二月。マキ自身、あまり憶えていても仕方のないことばかりだったような気がする。
いまは受験勉強ということで手を引いたが、当時は倦怠感がすごかった。学校生活を送るのだってやっとのところに、自分で始めたこととはいえ、学校の外側にある面倒くさい人間関係も少なくなかった。付きまといも暴力もあった。そのひとつひとつを思い出すことすら、おっくうなのだ。
思い出なんてとうの昔に消えていた。あるのは夢に向かうための資金と、疲労のみ。
マキ自身余裕がなかった。だから、もしこの時紫織の言葉を見たところで、なに昔の話を蒸し返しているんだかと冷たくあしらっていたかもしれない。にもかかわらず、彼女はすがるような気持ちで、あの頃と変わらない温度感で接するつもりでいるのが、文面からなんとなくわかった。
それが、鳥肌が立つほど気持ちの悪いことのように思えてしまった。
不可解なほどの怒りと悲しみが同時におそいかかる。頭の中がジクジクと痛み、耳の根元から熱くなる。
「べつにわたしでなくてもいいのに」
そっけなく飛び出した言葉が、場の温度を下げていた。
山崎ひかりは、無感動なまなざしを安代麻紀に向けていた。非難するわけでもなく、ましてや共感するわけでもない。ただ、そこに発言があったという事実を、蟻の行列を眺めるようなまなざしで、捉えている。
平田啓介は、無精ひげをさすりながら、大きくため息をついた。
「あんまり言いたくないことなんだが、そういうことは、口に出して言うもんじゃないぞ」
「…………」
「ったく、こんな当たり前のじじむさい説教はしたかねえけどよ」
「……刑事さん」
「あん?」
「友達ってどこまで行っても友達なの?」
「何ィ?」
「こんな、音信不通のままほっぽらかして、急に戻ってきたらぜひ話したいことがあるってしつこく連絡が寄越してくるような人間が、〝友達だから〟って言ってくるのが図々しいとは思わないの?」
「…………」
「わたしだって、べつに無視してたわけじゃないし、それどころじゃなかったし、とにかく余裕がなかった。第一、それまでお互いがお互い関わらないことで問題なくやれてたのにさ、急に連絡寄越して〝話がある〟って何なのよ。ほんと。なんかあるんだったらあの時早いうちに相談してくれればよかったのに」
「だが、土壇場になって思い出す。それだけ信頼してたってことじゃないのか」
「……」
「べつに庇うつもりもないが、この子は冒頭で謝ってる。それを今の今まで見てなかったきみもきみだし、きみが気楽に誘ったメッセージを見ないまま半年ほっぽらかして、今さら相談持ち掛けてるこの子もこの子だ。どっちも良かったとは思わんし、どっちも悪いとも言い切れない。でも、それだけのことで拗れるのが人間関係ってもんだよ」
平田の脳裏には、すでにこの世に亡い人物がよぎっていた。
「残りをさっさと読もうや。いま結論を出すのは早すぎる」
それから、小刻みに来るメッセージは、日を跨ぎながら、それでも既読を付くことを期待しながら送られ続けていた。
>マキちゃん。また東京を離れます。もうあの家にわたしはいません。いま言えるのはそれだけ。どうか、お返事ください。
>もしかしたらブロックしてるの
>ブロックしてないといいんだけど
>マキちゃん忙しいのは知ってるけど、ここまで読まない人だとは思わなかった
>寂しいです
それから、また期間が空いた。
次の、そして最後のメッセージは、長文メッセージになっていた。別タブに折り畳まれてテキストエリアに保存されたその日付は二〇一八年五月──
>マキちゃんへ。また東京に戻りました。もう会うための時間を割くことすら出来なくなりました。だから、ほんとうは会って話しておきたいことを、いまここで書いておこうと思います。
わたしはマキちゃんにあこがれていました。やりたいことがあって、そのためにできることをやって、自信があって、あきらめない。好きなことがハッキリしている。そんな人にわたしもなりたいとどこか思っていました。でも、怪獣のせいでお母さんが死んでから、そういうものが全くなくなって、何していいかわからなくなって、毎日お父さんの世話をしなくちゃならなくなって、何もできないままただ流されるように生きてました。しょうじきなことを書くと、そんなわたしにどうしてマキちゃんが仲良くしてくれるのか、全然分かりませんでした。でも、おかげで自分が一人ぼっちじゃないって思えた。マキちゃんに外に連れてってもらったから、わたしは最近になってようやく自分のやりたいことを見つけられたと思います。
それはわたしにしかできないことで、わたしだからできること。でも、そのためにはたくさんのものを、いろんなものを犠牲にしなくちゃいけない。ほんとは嫌なんだけど、それでもやりたいこと。
たぶん、もうあの頃には戻れない。みんなが集まって、楽しかったあの頃は、もう二度と戻ってこない。こんなことを書いても当たり前、と思うかもしれない。でもそんなことは、知ってても、みんな全然分かってなかったと思う。いつか元通りになるって、あの頃と変わらずにいられるってどこか思い込んでいて、それがずっと続くとムリして信じようとしている。そう見えた。わたしにはそれが耐えられなかった。気持ちが悪かった。だから、みんなから離れていたかった。それは間違いだったかもしれない。わたしの思い込みが酷くて、被害妄想が強かっただけかもしれない。でもここまで来てしまったらいまさらどうしようもないとも思ってるの。ここで戻ろうとしたら、いままで進んできた道も信じきれなくなって、結局どっちつかずのまま、ひとりぼっちで死ぬしかないような気がしているんだ。
そういえば、こないだお父さんが亡くなったんだ。もう死んだって言っていいぐらいにバカになっちゃった。脚を怪我したからって散々いろんなわがまま言ってたのに、もう何にもする気もなくなって、起きてこなくなって、わたしだけ人間としてすら数えてもらえないみたいな扱いになっちゃって。誰も頼る相手がいないし、話せる人もいない。ただ毎日お部屋を掃除して、ご飯作って、食べさせるだけ。そういうことを繰り返したまま、このまま誰にも気づいてもらえずにひとりで死ぬんだと思った。すごく怖かった。わたしの好きな歌詞にあった通り、生きてることに希望はないって。つくづく思わされた。でも、死ぬってことにも救いなんてないんだね。
わたしのお父さん、すごい人だったよ。若いうちからがむしゃらに働いて。徹夜も残業も厭わないぐらい働いて。お母さんと結婚して、わたしを産んでくれて。いろんな不景気があってもちゃんと稼いで、普通の暮らしをして、普通に喧嘩も仲良くお出かけもするような、そんな家庭で生きてこられた。でも、そこまでして頑張って。頑張って。頑張って。その果てにあるものが、こんなにどうしようもない生活だったなんて誰が思いつくんだろうね。
ごめん。また変なこと書いた。でも、残しておきたいから、そっくりそのまま送るね。迷惑ばっかり掛けてごめんね。でも、もうこういう迷惑もこれで最後になるから。最後のわがままだと思って、笑ってください。
じゃあ、さようなら。マキちゃんの夢が叶っていることを願ってやみません。
「…………」
ため息が、漏れた。
「だってさ」と平田。
安代麻紀は悪寒と制御不能な感情でいっぱいいっぱいになっていた。
「わたし、そんなにきれいな人間じゃない」
「…………」
「紫織のお父さん、亡くなったって」
「ああ、それは事実だ」
「じゃあ、ほんとにあの子はひとりぼっちだったんですか?」
「それは、わからん」
「……?」
さて、どこから言えばいいやら、と平田がまた口をもごもごした。
いいからさっさと言えよ、と山崎が冷たく目で諭した。
「あー、〈宗教法人あたらくしあ〉ってな。あそこに加入してる。しかもそこで崇められてるんだと」
「……」
「訳わかんねーだろ? おれたちの仕事って、そういう訳わかんない奴らが起こす事件を取り締まるのが務めなのよ」
「そうなんですね」
すっく、と立ち上がった。
「帰ります。もう、いいです」
「あっ、おい」
立ち去ろうとした彼女の腕を、掴もうとした山崎ひかりの手。
しかしその手は、あらぬ方向を向いて硬く握り締められた。
それは、棒手裏剣だった。
「やはり」
山崎が言い終わるより前に、平田が立ち上がった。
彼らの視線の先には、斜め後ろの席に座っていた女性。その人物は、巧みな変装に身を包んでいたが、山崎ひかりの目は誤魔化せない。
「弓削、倫子……」
「…………」
現代伊賀秘流。すなわち忍者。公安の調べは、彼女の正体をそう特定していた。
平田が動くつもりだったが、弓削倫子も只者ではない。ややもすれば髪の毛一本の動きにも反応して退却するような、その油断のなさが場を支配していた。
殺気を解く。平田が口を開こうとし、相手が逃げるそぶりを見せないことを認めてから、もう一度口を開いた。
「望月サヤカに伝えろ。決着は七月二十八日だと」
びくっと女の肩がふるえた。
「なぜ……」
ようやく口を開く。平田が怒気を込めて言う。
「プロを舐めるな。カレンダーを見損なうほど、おれらは落ちぶれちゃいねえよ」
「……左様ですか。しかし、わたしの任務はその子の始末です。さがるわけには参りません」
「二対一で勝とうってのかい」
「べつに追い込まれてもいませんで」
「それは違うな」
ぱちんと、指を鳴らす。とたんにテーブル拭きが糸で引っ張ったかのように飛び出して、弓削倫子の顔に突っ込む。
目にも留まらぬ速さだったが、彼女にとっては眠気のするような飛び方である。身を翻すわけでもなく、半身になって避けようもする。しかし、そこに盲点があった。
「ダメですよ。尾行する時は自分が尾行されていることをまず最初に疑わないと」
吉田恂だった。混雑するタイミングでうまく弓削倫子の背後に陣取っていたのだった。
「くッ」
「三対一だな」と平田。
弓削倫子はすかさず身をひこうとしたが、吉田の式神が容赦なく後を追い、その身を貫いた。形はカラスである。嘴が心臓をついばむようなその動きは、朝のパン屋を悲惨な光景へと変える予感を生んだ。
だが、それは霧散した。弓削倫子の血液はおろか、身体すらも残ってない。
「影分身っすね」
「こりゃ面倒な。最初から逃げる気満々だったってわけな」
平田はようやく安代麻紀の方を見た。彼女はきつねにつままれたような顔だった。
「なに、これ」
「これがきみの友達、宗谷紫織がいる世界だよ。そして、彼女が望んでやった成果が、あれだ」
指差す方向には、壁にかけていたテレビが、あいも変わらず流している新宿被災地の光景──
「もうこうなったら第十一課で保護するしかないな。あとで親御さんには連絡しておくから、いったん来なさい」
「え、いや、その」
「すまんが、これ、ぜんぶ本当のことなのよね」
「…………」
頭が追いついてないようだった。しかし溜まった唾を飲み込むと、安代麻紀は頷く。それより他になかった。
あ、とその時平田が思い出したように尋ねた。
「そういや、宗谷紫織が引用していた好きな歌詞って、いったいなんなんだ? あの、生きることに価値なんてないみたいな、なんだありゃ」
安代麻紀は、平田の呑気さにあっけにとられると同時に、妙に毒気もぬかれた。
「いや、〝酸性雨のような涙〟っていう、バンド名の、たぶんあれだと思いますけど」
どれだったっけな、とスマホ片手に取り出す。動画サイトに違法アップロードされたライブ映像を引っ張り出してきて、その曲名をピンポイントで持ってきた。
『絶望の時代に生まれた僕らは』
一番目の歌詞を一通り流す。
はーっ、と平田が、またしてもため息。
「おれの感性とは真逆の曲だわ」
そして、二番。
○
あの日から僕たちは奪われてしまったんだ
正しく見る目と友達を
大人がサボった宿題を
毎日毎日解かされているから
答えはない 誰も正解を知らない問題
誰かがやるべきと言いながら
決して自分で手は挙げない
それでも僕らはやらなきゃいけない
そんなことはわかってるんだ
絶望の時代に生かされた僕たちは
自分が死ぬ場所を探している
生きていることに希望はない
死ぬ理由だけが生きる価値さ
いっそ悪役だと割り切ればよかった
憎むべき相手はどなたでしょうか
○
「嫌な歌詞だな」
「いちおう、流行りの曲です。二年前の」
「ふーん」
ま、いいか、と平田が言った。
目配せで、山崎と吉田に合図する。
「勘定はおれが払っとくよ。早いとこ連れてって」
「了解」
こうして安代麻紀は、暗い旅路に着くことになる。その片手に握りしめたスマホには、まだライブ映像の動画が付けっぱなしのまま、三番目の歌詞と最後のサビを歌うに任せていた……
鳩が死肉をついばむ時代に
希望はすべてが胡散臭い
ならばせめて間違いのない希望を
一番お買い得なものが欲しい
*
絶望の時代に生まれた僕らは
才能だけを持て余している
誰のために尽くせばいいの
愛する相手はどこにいるの
教えてくれるなら誰でもいい
正しい希望を教えてください




