35.スパイダー・リリィの冒険
安代麻紀が目覚めたとき、デジタル時計は七月二十三日の午前七時五十分を差していた。やばい。寝過ごした、と思って起き上がる。いつもの電車に遅れる。そしたらあのうるさい生活指導の先生にどやされる。学級崩壊なんてしてて当たり前の世の中で、あのセンセー、まだ自分が指導しなきゃ、て思ってるの。超さむい。
が、そんな気持ちは部屋を出た途端に消えてしまった。リビングのテレビがつきっぱなしで、まだ終わらない新宿の件を報道しているからだった。
あの災害があって以来、安否不明の生徒がいるという事情で、マキの学校は休校状態だった。
期末試験明けだったし、いまは事実上の夏休みだから、別にそれでもよかった。ただ世間があまりにも騒いでるものだから、家の方でもすっかりパニックになっていて、マキはいまだに休みという感じがしない。
それどころか、日々母親に命令されて、やれパスタだの、保存食だのを買い出しに出かけることの繰り返し。
そんなに買っても食べきらないよ、と文句を言っても「でもいつ何が起こるかわからないじゃないの」ときつく返される。現にあの日以来、都心部で無差別通り魔殺人が出没いていて、犯人が不明なのだというニュースが繰り返されている。そりゃその通りだけど。もし何かがあったとして、そのあとほんとに自分達が無事なのか、それ自体もわからないのに、と思ってしまう。
第一、いつどこで、何が起こってもおかしくないのはこの頃ずっとそうではないか。
二〇一五年の五月からこの方、日本各地で、ときには世界の大都市にだって、巨大生物が出てくることが当たり前になった。そんな〝新しい日常〟に慣れきって、いつしか怪獣出現速報があっても、せいぜい電車の遅延にしかならない。
そんな緩やかな災害との共生社会が立ち上がってから三年が経っている。大人たちにとって三年はその辺の、適当に過ごした年月でしかないかもしれないが、マキにとっての三年は、ひとつの学校生活をまるまる通り過ぎてしまうほどの、大きな時間なのだった。
その間に色々なものが変わった。流行り廃り、好きな人ややってみたい化粧、クラスメイトとうわさ話、仲良くなった人、遠ざかった人なども。
やりたいことがたくさんあったし、欲しいものもたくさんあった。原宿の竹下通りを進んだときの、あの目移りするようなショップと小径の数々にも似て、行ったり来たりでさまざまな経験をした。その間にたくさんのものがこぼれ落ちたし、失敗もあった。
けど、別にこれが絶望だと思ったことはなかった。
自分は冷めているかもしれない。いつかは適当な大学に行って、そこそこメイクの勉強をして、ファッションデザイナーになってやろうとしている自分にとって、必要なのはお金と時間だった。そのための手段は使えるだけ使ったし、ちょっとつらいこともめんどくさいこともあったけど、まあ過ぎたことだとどこか割り切ってもいた。
そんな今朝、マキは母親の愚痴に付き合わされ、いまだ仕事が再開しないぐーたらした父親を敬遠しつつ、とりあえず家を出た。友達と約束があることにして、人の不安から逃げることにしたのだ。
しかし出かけたところですることがない。受験勉強の教材でも持っていけば良かったと後悔した。どうせ暇になるならできることをやっとくというのも、考えものだ。
ところが彼女の悩みは杞憂に終わった。
「安代麻紀だな」
ふと見ると、スーツ姿の男女が二人。ひとりは無精髭のおとこで、もうひとりはメガネのすらりとしたおんなである。
彼らは近寄って、平田と山崎と名乗りを挙げた。警察の人らしい。
「いったい、なんなんですか? 別に法に触れるようなことしてませんケド」
「んー、まあそれはそのうち話す機会があるかもしれんが。いま話したいのはそっちじゃねえんだ」
「は? なんなんですか?」
「ちょっと人を探してる。宗谷紫織というんだが……」
そこで、はたと思い出す。宗谷紫織。そういえば、あの子、結局どうしてたんだろう。
安代麻紀にとって、宗谷紫織もまた、二年前に音信不通になって離れていった友達のひとりに過ぎなかった。
「……あんまり、話せること、ないんですが」
隣の女性が、ちらと腕時計を見た。
「二時間ぐらい、もらっても、いい?」
時計はまだ八時半。別に良いですよ、と答えた。
地元に朝早くから開いているベーカリーカフェがあった。店主がやる気のないおじさんで、朝はパンを並べてはいるものの、通勤客や学生を相手にするので手一杯で、カフェの方はすっかり手入れができてないと不評の場所だった。三人はそこに入って、手拭き用のウェットティッシュでテーブルを拭いた。それからドリンクを平田の奢りで手にして、適当に何かを食べながら、色々話した。
まず口火を切ったのは、平田である。
「まずどこから話せば良いんだろうなァ、昔流行ったらしいアプリゲームで『リマインズ・アイ』っての、覚えてるか?」
「あー……はいはい、一時期すごくハマってましたね。あれっていまもあるんですか?」
「いや、昨年末にサービス停止していた」
「そうですか。なんかだんだんシナリオがマンネリ化してて、飽きちゃったんですよね。ほんとにすごく流行ってたんですけど」
「そのゲームについてだが、なんていうかな、遊びじゃなかったらしい」
「?」
「あれは見せかけはよくできたゲームなんだけど、GPSとチャットで構成された普通のアプリなんだよ。だから、きみがかつて使っていたキャラクターは、みんな実在の人間だった、て言って、伝わる?」
「はっ、なにそれ……」
まるで漫画やアニメの設定みたいだ、と言いかけた。第一こういうシチュエーション自体もよくわからない。
「それと紫織に何が、関係ある……」
ただ、言いかけて、妙なことを思い出した。
「紫織、そういえば、あの子だけ違うゲームをしていたような気がする」
「その話、もう少し、詳しく聞かせて」
山崎ひかりが前のめりになる。静かだが、冗談も言えなくなるほどの凄みがあった。
それで、しどろもどろに、宗谷紫織が真っ先にプレイしていたという『ウサギ狩り』のシナリオのことを伝えた。その話題に触れた途端、平田の手が激しく打ち鳴らされた。
「ビンゴだ。くそっ」
「ど、どういう……」
「まあそれはこっちの話だ。ところできみは宗谷紫織とまだつながりはあるのか?」
「あ、いえ、その……」
「ハッキリ言ってくれ。連絡できるのか、できないのか」
「できないんです。ずっと、既読がつかなくて」
「何?」
「もう二年ぐらいまえだと思うんですけど、わたし、たしかにあの子と一緒にいました。でも、その、いつからか、次いつ遊びに行く? て聞いても返信がつかなくなって。もう会わなくなっちゃったんです。待ってください、いまちょっと調べてみますから」
そう言って、安代麻紀はスマホのチャットアプリを開く。未読が三桁のバッジ通知を見てげんなりするも、検索機能を駆使してなんとか宗谷紫織の履歴を辿り直す。
すると──意外なことがわかった。
「あれ? 返信きてる」
タップしようとした、その手を、山崎が止めた。
「ごめんなさい。その中身、わたしたちも見てもいい?」
「…………」
平田を見て、山崎を見る。マキは次第に怖くなった。
「あの子、何したんですか?」
「きみには関係ない」
「そんなこと、ないです」
「知ったらきみはもう戻れなくなる」
「何か事件をおこしたんですね?」
「だから──」
「あの子が苦しい事情だったのは知ってます。お父さんと何かあったんでしょうか。それとも、もっと悪い何かやばい人たちに絡まれたりしてるんですか? 新興宗教とか」
「…………」
おとこの、唇を軽く舐める仕草が、妙に安代麻紀の予感を裏付けた。
「まずいこと、したんですね」
どうする? と山崎が平田を見た。平田は両手を上げて降参の姿勢をとった。
「まあいずれはニュースになる。早くに伝えるか、そうでないか、てだけだろう」
ほんとはこんなところで話すことじゃねえんだけどな、としぶしぶ平田は話しだす。
「例の新宿の件、宗谷紫織が重要参考人として扱われている。彼女はいま、怪しい動きをしている新興宗教のメンバーとして、その、なんだ、テロの手伝いをさせられた可能性が高い。しかも現在行方不明となっていて、一刻も早く調べなけりゃならない」
安代麻紀はいま一気に聞いた情報を咀嚼するので精いっぱいだった。
「なにそれ……」
「どうして宗谷紫織と宗教組織に繋がりがあったのか、その間に一個のソーシャルゲームがあったんだ。それは怪獣退治を謳ったひと昔前の流行りのゲームで、オフラインイベントを通じて徐々に勧誘の裾野を開拓していたらしい。おまけにそれは、新規の信者の教育にも繋がっていた。自分が世界を救済する戦士だ、っていう物語を植え込まれてな。実際そのアプリのやってるゲームは見せかけで、実際は裏で本当に化物退治をしてたんだと。その専門のNPOを詐称してな」
「ちょっと、ちょっと待って。全然わからないんですけど」
「まあ、これは大人の世界の話だからな。一から全部説明すると長くなるさ」
それでも、平田はゆっくりと、反芻するように説明しなおした。
対怪獣用の専門機関にPIROという組織がある。超常現象対策捜査局というのがその正式名称で、PIROというのはその英訳[the Paranormal Investigation & Removing Office]の頭文字を取ったものだ。この機関は半官半民の運営で、別にこれと言って隠されていた組織ではないのだが、表向きには探偵事務所や害獣駆除の形を取っている。その背後にはいろいろ難しい事情が絡んでいるらしい。
二〇一五年以来、大怪獣が世間を騒がせたことから一部の界隈ではPIROは既知の事項となった。特にオカルトマニアや社会評論家気取りがその名前を乱発し、胡散臭さと裏社会感とが両立する怪しい名前になったことは否めない。ただ、そこで現役の高校生が働いていることは事実であり、それは適切な検索を通じてすぐにわかることだった。
その名前を、密かに盗んだのが、宗教法人あたらくしあの手口だった。
彼らはPIROをあたかも政府公認の公共事業のように設えて、ウェブサイトを作った。そしてそこに本当の情報を掲載して、架空の信用を作り上げると、そこで起きている〝人手不足〟につけ込んで、野良の妖怪ハンターを大量に雇用し、実際に都内や周辺に出没する事件を秘密裏に解決させた。
これは平田が安代麻紀に直接言ったわけではないが、PIRO自身も接敵以前に消失した妖怪が徐々に増えていることを報告していた。その背後には、こうした「偽PIRO」とでも言うべき組織の暗躍があったのだ。
「この架空の怪獣退治組織は、直接現場で戦う『ハンター』と、現場の情報や戦略を指示する『オペレーター』ってのが役割分担していた。そのうちの『オペレーター』に相当する奴らが、『リマインズアイ』のプレイヤーだったってことだ」
「え……じゃあわたしもその手伝いをしたってことなの?」
「そういうことになる」
安代麻紀はここで思い返して、強い衝撃を受けた。あのゲームで何度かミスをして、ロストしたキャラクターが少なからずいた。それがもし現実にいた人間だとするなら……
その不安を思わず口にすると、山崎ひかりはそっとマキの肩に手を置いた。
「大丈夫。あなたが、殺したわけじゃ、ないから」
「でも、」
彼女は首を振った。別にとくに思い入れのあるゲームでも、キャラクターだったわけでもないけど、いまになって知らされて、平気ではいられなかった。
「まあ、それはまた別の話だよ。宗谷紫織はその中でかなり優秀なプレイヤーだったらしい。それで、何度かオフラインイベントを通じて身元も知られていたんだろうな。彼女はいつしか──君が言うところの『違うシナリオ』に進んで行ったんだ」
「そんな……」
人生はゲームだ。みんな同じアカウントとパラメータを背負い、〝現代〟という名のプラットフォームで互いの順位と成長度・達成度を比べ合う。
しかしそのプラットフォームが大きくなればなるほど、いつしか同じゲームで遊んでいるはずなのに、違うシナリオを進んでいることがある。いずれまた会うこともあるだろう。そんな楽観は、時として思わぬ形で壮絶な裏切りにあうこともあるのだ。
「で、そろそろそのチャット、読んでもいいかな」
「…………」
少し気が乗らなかったが、やがてうなずいた。しかし、ふたりのおとなが身を乗り出して、スマホをテーブルの中央に置こうとしたとき、あえて手を固く握って、安代麻紀は言った。
「約束してください。わたしも、この件の行く末を知りたい。決して仲間はずれにしないでください」
困惑したような平田。どうするんだろうと素知らぬ顔で上司を見つめる山崎。
「わーったよ。始末書書く枚数が増えるだけだ」
ボリボリと頭を掻く。ちょっとフケが飛んだような気がしたが、安代麻紀にはどうでも良かった。
「ありがとうございます」
こうして三人は、スマートフォンのチャットアプリを、宗谷紫織が寄越した便りを一斉に見つめたのだった。




