34.決死のピクニック
七月二十一日。午前十二時。
東京、西新宿。黒塗りエリア。
あの恐ろしい人工災害から一週間が経とうとしているが、依然としてこの場所の黒塗りは取れていない。
都庁が、オフィス街が、全くの機能不全に陥ったこの副都心。都内の行政は半ば停止し、その機能を分割して赤坂などに移行するなか、いかに黒塗りエリアを復旧するべきかの議論が絶えず繰り返されていた。
通勤・通学にも発生したこの影響は一向に減る見込みもないまま、都内の一部の企業と学校は休止し続ける。新宿からは人気が無くなり、渋谷のスクランブル交差点にも以前のような活気が戻らないままだ。
天災によって、突如与えられた休日に喜ぶ青少年がいるかと思えば、事実上の失業に戸惑う大人もいる。連日のニュースもSNSも、混乱を運ぶことしかできず、この頃になってくると、本当にかつてのような日々が戻ってくるのかと不安になる向きも増えていく。
そんな現状すらも──この黒塗りエリアの惨状を前に口を開くことすら許されない。
まるで生きとし生けるものが全て滅んだ跡地のような、漆黒に塗り固められた路面と、コンクリートにこびりついた黒い液体。
災害ののち半日かけて固まったそれは、自衛隊や専門の分析班が出動し、何度も調査を重ねられた。それでわかったのは、これは怪獣の体液に相当するものであり、ある種の〝下り物〟のようなものだということだ。
それを裏付けるかのように、次第に付近から悪臭が漂い始め、妖力レーダーが過剰に反応するようになる。
単なる悪臭に留まらず、妖力すらも帯びたこの汚染は、西新宿を一個の魔界と変化せしめていたのである。
度重なる自衛隊の潜入調査も、ある時を境に霊能者の協力を要した。
「……で、ぼくたちの出番てことですか」
《すまない。自衛隊の募集要項に霊能測定がないものでね》
吉田恂は防護服をまとったまま、至極おっくうに無線連絡を続ける。
彼の背後には同様に防護服を着た山崎ひかりと、PIRO所属の壮年ハンターが数名、ほか対怪獣装備を施した自衛隊特駆群の隊員が続いている。
ちなみに東海林飛鳥ほか幾人かいるベテランハンターについては、鹿ヶ谷佐織から別件注力の旨が指示されていた。
『平田さんから。〝ウサギ狩り〟だって』
そう、言われている。
結局危地に向かう羽目になった大人たちであるが、その先陣を切るのは図らずも吉田とあいなったわけである。
その理由は、彼の持つ能力にある。
《第三ポイント到着。ここから先は、未知の経路を開拓する必要があります》
背後から無線で通話が来る。吉田はしぶしぶ、緊張に慄く手を抑えながらも、式神を打つ。
右。左。前。三方向に飛び立った折り鶴のような小型の式神は、眼前にそびえ立つ皇重工第四支社ビルに近づこうともがく。その先にはまるで遮るものなど一切なく、ただ足元の黒塗りのみを気をつければ事足りるような、そんな錯覚にすら囚われる。
ところがそのすべての式神が途中で握りつぶされたかのように、くしゃっと消える。式神に繋いだ妖力の糸が、この反動をわずかに吉田の精神にダメージを与えるが、これは受け流せる程度だった。
「やっぱりキツイっすね」
《やはり、結界?》
防護服のヘルメットを接し、振動で語りかける山崎ひかり。
吉田は片手を振って「違う」とサインを出した。
「そんなヤワなもんじゃないっすよ」
ふつう、結界というものは特定の条件にある人間の侵入を阻む、という程度のものでしかない。それはもちろん霊能者以外のものには無意識に作用し、ただなんとなく「この場所は避けておこう」と思い付かせる仕掛けに過ぎない。
ただ、これが霊能者同士になると、無意識が有意識への作用となり、互いの意志力の衝突となる。妖力が生み出す思念の発露が、結界とぶつかり合う時、そこに発生するのはあくまで術式そのものが相手を取り巻く領域に侵入できるか否かを左右するという、いわば精神の鎬を削ると言った性質のものでしかないのだ。
「これは妖力そのものが時空を捻じ曲げてるんです。なんて言えば良いんでしょうね。砂漠でいうアリ地獄とか、氷河でいうクレバスとか、そういう一発アウトな〝裂け目〟が、そこかしこにあるんすよ」
それで今まで調査が捗らなかったわけですよね? と吉田は背後に確認する。その通りだ、と答えたのは、無線で指揮を取る椹木信彦三佐である。
《いま吉田くんが見ているあたりで、隊員がすでに三名、殉職した。その、君の言い方を借りるが、〝裂け目〟というのは、霊能を使えば見える類いではないのか?》
「残念ながら無理です。言うなれば、ブラックホールみたいなもんなんで。霊視とは別次元のやつですよ」
《なるほど。どんどんスケールがデカくなってくな……》
これでは復旧のために人を呼ぶことすらままならない。
この根本的な対策はいずれは考えなくてはならないとしても、いまとりあえずこの見えない裂け目をどう乗り越えていくべきか。
《まさか。式神を、使い切るつもり?》
「やめてくださいよ。先輩。そんなんしたらぼく廃人になっちゃいますって。もう少し簡単な技を考えてきましたから」
そう言って取り出したのは、分銅に手拭いを巻いたスリングショットの数々。あわせてざっと五から十。吉田は先ほど式神を打った方向の合間を縫って、スリングを投げた。
かつん、と黒く固まった路面を叩く。その投げた筋道は、水平に直線コース。
「こう見えても野球とか、ボール投げは得意だったんで」
吉田恂が少しずつ周囲を警戒しながら進む。そのあとに続く数名。決して道を外れないようにと注意をしつつ、今来た道のりを脳みそに刻み込む。
その後、数回スリングを投げる。空を切る動きと、路面に石がぶつかるような無機質な反響。直ちに続く足音だけが、無常の空間に殷々と響き渡る。
生者のいない世界。
まるで、ここはひとつの月面だった。
やがて数十回の繰り返しの果てに、一行は皇重工第四支社ビルにたどり着く。かつて一週間前に怪獣退治と組織摘発のために動いたのがウソのような、世界の変わり果てよう。
その先陣を切ろうとして、一階フロアへの侵入口を模索する。しかしそのために放り投げた一擲が、明らかな違和感をもたらした。
投げた石が、戻ってこない。
吉田恂が背後の隊員に声をかける。
「ドローン、使えますか?」
《承知した》
これまでドローンが使えなかったのは、〝裂け目〟の存在が探知できなかったからだった。いま。吉田恂の協力で深層部まで踏み込んだいまなら、決定的な場面をドローンカメラで収めることができるはずなのだ。
ビルの手前から、ビルの内部に向かってドローンを飛ばす。繋いだカメラは背負ってきたモニターと、そして指揮統制所のテレビとにリアルタイム映像を送り続ける。
それが、外の景色から、徐々に黒塗りのビルの内側へ迫っていく──
「どうですか?」
《ライト付けます》
ドローンに付いた白い照明がパッと付く。そこで見た光景に、一同背筋が凍った。
《これは──》
黒い球体が、数珠繋ぎになって一階エントランスホールの吹き抜けに沿って、上へ上へと貼り付いている。そのひとつひとつは人ひとり入っていそうな大きさで、ズームアップを繰り返すうちに、中に得体の知れない生物が胎動しているのがわかった。
「カエルの卵みたいっすね」
吉田が思わず呟く。
《気持ち悪い》
山崎ひかりも、これには辟易した様子だった。
「妖力レーダーはどうですか?」
《かなり濃い。これが毒ガスだったら一呼吸も許されなさそうなほどだ》
試しにメーターを見ると、そこかしこに異常とわかる値が叩き出されている。
「椹木さん、少し無茶してみますか?」
《良いだろう。許可する》
「じゃあ、そのまま吹き抜け上がってください」
しかしその試みは即座に阻止された。正体不明の落下物が、ドローンを押し潰したのである。
《自動で、阻止したの?》
「わかりません。死ぬ気でいいなら踏み込みたいところですが……」
《やめてくれ。そんなことされたらおれが平田に殺される。ただでさえピリピリされてるんだ、あいつには》
「やっぱり大国さんなんすかね」
《それは、言わない約束》
「……すんません」
しょんぼりする、その矢先。
《外向けの妖力レーダーに新しい反応! 巨大生物の飛来が確認されます!》
《なんだと?》
《吉田くん、何かがそっちに飛んできている。危ないからそこを離れた方がいい》
「わかりました」
とは言っても、急ぐと帰り道がわかんなくなるから、やめてほしいなあとは思う。
「ちょっとやばいですけど、落ち着いて。来た道を戻ってください」
引き払う。しかし帰り道を確認しながら、五メートル程度離れたばかりの時に、それはやってきた。
一見大きなハエのように見えるその体躯は、体長が五メートルにも達する巨大な蟲だった。しかしそれはヌレハガチでもなければアクタムシとも違う。灰色の化身。東京の上空を滑空するように、それは、皇重工第四支社ビルへと取り付いた。
《あれは……神虫?》
PIRO所属の壮年ハンターが、驚きと共にその名を呼んだ。
《情報、くれますか?》
山崎ひかりの冷静な要請に、ハンターはゆっくり答える。
《害のない怪獣です。むしろ益虫だと言っていい。怪獣の食物連鎖ではかなりの上位に位置して、ほかの怪獣を食ってくれるんです。おまけに人類に害意がないことも、分かってます》
そんな怪獣がなぜ……と言いかけた時、彼らはさらに驚くべき光景を目の当たりにする。
神虫は、一匹ではなかったのだ。
五、六、七……次第に数を増やしていくそれはまるで親の仇でも討つみたいにビルの表面に、黒塗りエリアの各所に着陸する。災害後一週間もの間をあけて、ようやくたどり着いたそれは、さながら怪獣たちもまた人類同様に、入念に打ち合わせてからやってきたかのようだった。
彼らは皇重工ビルに張り付くと、すかさずその口を開け、爪を立てて黒塗りを引き剥がし始めた。
その仕草は、まるで銀色のスクラッチシールを懸命になって剥がす、もしくはトウモロコシを必死にかじりつく動作に似ていた。
ゴリゴリと音を立てて黒い塊が四散する。その雨はビルの倒壊現場で柱が崩落するのにも似た危険をともなった。吉田たちは、さんざんに神虫のやり口をののしりながら、慌ててきた道を戻っていった。
しかし三十メートル程度離れたところで、吉田と山崎、ほか数名はその動向を確認せずにはいられなかった。
怪獣によるビルの解体業務は、黙々と続いている。その有り様は当初は不気味であったが、次第に心強くも見えた。
ところが、その作業が外壁を削り終え、内部に手が掛かるかと思ったとき、事件は起こった。
突如として神虫が跳ね飛ばされたかと思うと仰向けに脚を伸ばし切る。いわゆる死んだ虫が取るポーズ。その仕草を確認したかと思ったのとちょうど同じ瞬間に、皇重工ビルの一階フロアから黒い手のようなものが伸びて他の神虫を握りつぶしたのである。
すかさず、仲間の死を無駄にしまいとその腕のようなものに喰らいつく神虫たち。
ところが腕は一本だけではなかった。
ビルの十階部分にあたる窓から筋肉の束のようなものが螺旋に弧を描いて降り立つと、もう一本の腕となる。それが腕についたハエを払い落とすかのようにパッパッとスマートな仕草で除けていく。
神虫はそのもう一本にやられるものと、うまく躱すものがいた。だが逃げるものはいない。あくまで標的は変わらず、神虫たちは腕に、もしくは内部に向かって必死に噛みつき、爪を立てていく。
腕は、容赦なく虫たちを叩き潰し、握り潰し、捻り潰していく。
《なんなんだ、あの怪獣……》
もちろん人類の注目は、皇重工第四支社ビルの内部に潜むそれに、ある。
しかし吉田たちは、この一連の戦いから自分が戦うべき相手のすがただけではなく、思わぬ味方があることも、知った。
《地球が、怒ってるのか……?》
ひとりが言ったその呟きが、ふしぎとこの場の気持ちを代弁していた。
吉田は決意した。
「そろそろ帰りの空気がなくなります。今日は諦めて撤収しましょう」




