31.天井桟敷の孤独な子供たち
動画はニュースの切り抜きだった。望月サヤカの登場は開始から三十三秒。名前も背景も隠されていたが、彼女は紛れもなく望月サヤカであると、公安のメンバーはつとに察知していた。
『もはや政府は無意味だと思います』
テロップ付きの断言を指して、無数のコメントが付いている。
その一つ一つを論うことに意味はない。平田をはじめ、公安メンバーにとってこれらの言葉はあくまで「ただの言葉」に過ぎない。しかし言葉は手元の道具を通じて、街角のディスプレイを通じて、世界中を網羅したネットワークへと拡散する。浸透する。そして無数の化学反応が、実体のない言説をリアルなものへと変換する。
ひとつの時代が、すでに過去のものになっていた。
それはいまに始まったものではなかったかもしれない。ある種の文明批評家にとっては、長い時間を掛けて危険を叫ばれ続けていたものであったかもしれない。そしてそれは三年前の〈甲府の惨禍〉でも、〈新宿百鬼夜行〉でも、繰り返し問題視されてきたことだったのかもしれない。
何もしていないわけではなかった。自衛隊は怪獣災害の危険性を鑑み、ただちに〈特殊害獣駆除作戦群〉を組織した。公安警察は霊能者による計画犯罪を考慮し、異例の数字として一ノ一、通称〈特殊霊障捜査班〉を設置した。
しかし事態が更新されるにつれて、それまで用意されていた枠組みを超えて災害は起こった。存在そのものが超常現象──すなわち〝想定外〟に分類される怪獣や霊能者は、ほんらいならいくら想像力を凝らしても足りないほどのものである。
にもかかわらず、予算には限りがあり、これを理解する人員にも限りがあり、時間についてはさらに限りがあった。結果として初動は遅く、見当違いの施策が不適切な場面で適用され、制度の考慮不足を見過ごしたまま可決と施行がまかり通る。
これが一般の企業であれば、呆れられても仕方のない事態なのである。
しかし国家は企業ではない。税金は株式ではないし、その運用について意見はあれど、命令を下すことはできない。ましてやその誤ちは声によってしか──さながら祈りにも呪詛にも似た言葉の集合によってしか、正しく批判され得ない。それが届くかどうか、あるいは実現されるかどうかは、あまりにも虚しいほどの確率に縋らなければならないのだ。
この思い通りならないことが、自分の住む社会を「無意味である」と判断する。
一方で、世界の仕組みは絶えず言ったことが直ちに実行されることによって進歩を重ねてきた。入力した言葉は素早く送信され、受信したアイデアは苦労を通じて実装される。評判は人の気持ちを動かし、蜘蛛の子を集めて散らすがごとく、世間という大動脈をひきもきらずに脈打っている。
もし、現代社会に一つの信仰があるとすれば、それは〝効率〟という概念そのものへの崇拝であっただろう。
この概念は、絶えず人間を計測し、機能と役割に還元する。結果によってのみ人間の存在は担保され、役立たずと未熟者は他の名声を支えるか貶すことによってしかそのあり方を意味づけることが出来ない。
すでに世間は二つの層に分裂していた。
行動するもの。行動しないもの。
結果を残すもの。結果が残せないもの。
努力をし続けるもの。努力を諦めて自分で引き受けることすら投げ出したもの。
それはさながら社会生活における舞台壇上と観客席のような分裂だった。たくさんの面白い演目とくだらない笑劇、そして見るに絶えない茶番劇と、脚本がなってないくせにシリアスを装うつまらない悲劇が、かわるがわるやってきては、好き勝手に感想と応援が、罵詈と雑言が飛び交う。この人間の群像が、いまや社会の一つの図式になっていた。
公安のメンバーは、喩えるなら、このどうしようもない舞台の裏方である。舞台に立つわけでもなく、観客席に座るわけでもなく。それでも舞台が、上演が絶えることがないように日々懸命に務めることが、それこそが結局のところ、彼らの任務なのだった。
だから彼らの役割は、正義を語ることではない。
「これもとの局で撮った日時、わかるか?」
平田の冷静な確認に、山崎ひかりはそっけなく答えた。
「今日の十二時。新橋。もう局には確認した」
「上出来だ。だとすりゃ、あいつらもうだいぶ新宿から離れたな」
「もう皇重工ビルも用済み、てことなんでしょうかね?」
吉田が口を開く。
「……宗谷紫織」
庚が答えるでもなく、独り言つ。
「あの子、結局あのビルから出ていったのかしら?」
「その件については、要調査だな。あと、その宗谷紫織の素性も調べさせろ。何かわかるかもしれん」
「了解」
山崎ひかりは頷く。
「奴らの現行犯を抑えられなかった以上、なんとしてでも鼻を明かしてやらにゃならん。〝次はない〟と上層部もお達しだ。ま、首すげ替えられてもこれを対処できるやつなんかそうそういないと思うが、そういう居直り強盗みたいなやり口ももはや時間の問題だ。ほかにやれることはあるか?」
平田の問いに、吉田が恐る恐る言う。
「あの。〈あたらくしあ〉のもともとの信者は、いま何をやってるんでしょう?」
「良い質問だ。信者のリストはあるからそちらの動き探れるか?」
「はい!」
各々にやるべきことが見つかる中、岐庚はおのれの無力を改めて感じた。
「わたしはどうするべきですか?」
平田はすげなく答えた。
「おまえは、どうするべきだと思う?」
「…………」
「少し考えてみろ。病室で動けないんだから、考える時間くらいは作れるはずだ」
「……はい」
目を逸らす。ああ、まただ。自分が何か蚊帳の外に追い出されたような心地がする。
たとえどんなに力を持っていたとしても、どんなに意志があろうとも。何か掛け違えたような孤独は、いまもって治らない。
その心情を察したのか、平田がふと思い立ったように口を開いた。
「ひとつ。余計なことを伝えておく」
「はい」
「おまえは自分で、ひとりで何かをしようとしすぎだ。おまえの中にある才能だか、能力だか、なんだか知らんが、とにかく自分ひとりで何かができると思ったら大間違いだからな。使えるものはなんでも使え。踏みつけて恨まれるぐらいまで、徹底的に使い込め。それぐらいやって初めて、おれたちは『何かができる』と言えるんだよ」
それは庚にとって、言外に次のような意味を持っていた。
そろそろ逃げているものと向き合うべきじゃないのか、と。
「……わかりました」
「ん、ならいい」
手をひらひらさせて、平田は背を向ける。そのあとを吉田が続き、最後に山崎ひかりが「頑張ってね」と一言添えて立ち去った。
そして、また庚はひとりきりになった。だがもうその孤独は心を蝕みはしない。
ずっと彼女はどこか自分をひとりきりなのだと思っていた。小さい頃から特殊な生まれのもとで、人には見えないものを見て、人には言えないことを抱え込んで生きてきた。
たまに自分を曝け出す相手がいたかと思っても、それはすぐに離れていった。自分から突き放したのかもしれない。ただ相手に愛想をつかされただけなのかもしれない。けれどもとにかく、数を重ねるごとに、結局自分がひとりでやらなきゃならないのだと腹を括るしかなかったように思う。
そして不幸なことに、それは今までそれなりに成果を上げてきたのだった。
いまようやく彼女は挫折を経験していた。それは普通の人間であれば、より幼い頃に経験してよかったはずのことである。自分の無力を知ること。誰かの手を借りること。そしてできなかった自分と、世間に対してどうにか擦り合わせと妥協を図ること──
おのれのままならないものを知ることこそは、ついに自分が社会とつながり直すためのきっかけなのではなかったか。
かつて学生であった時、庚は観客席の側にいた。舞台の上で繰り広げられる虚しいセリフの掛け合いを見て、それ以外の演目はないのかと常に目を逸らし続けていた。
それが、社会人になったからと言って、それなりに世の役に立つ立派な職に就いたからと言って、決して自分の立場が観客席から動いていたわけではないのだ。
もし、自分がそこからもう少しましなところにいたいのであれば、やはり行動は起こさなければならない。
ベッドから降り、席を立つように起立する。腕を庇いながらスマートフォンを手繰り寄せると、連絡先を見直した。何度かスクロールする。タップを三回たぐったさきに、それはあった。
押す。通話が始まる。何度も繰り返されるコール音。うんと長く感じた時間を待って、ようやくつながる音がした。彼女が初めて自分から掴みに行った社会とのつながりだった。
「あ、もしもし。岐甲太郎をお願いしたいのですが」