30.このクソッタレな日常を守るため
「ごめんなさいだぁ?」
平田啓介は怒っていた。その眼前にはベッドから半身を起こしたまま項垂れる岐庚のすがたがあった。
「なんで岐が謝んないといけないんだ」
「だって……」
「おちつけ。あのバカは勝手に殺された。そんだけだろ」
「でも、あれは──わざわざ大国さんにやられるフリをしてたのは平田さんじゃないですか……」
あのとき、あえて目立って叩かれたのは、平田自身、大国と意思疎通を図るためでもあった。それは望月サヤカ暗殺の瞬間を見計らっていたのかもわからない。この暗黙のやりとりをわかれ、というのは無茶である。だが決定的な瞬間で行った独断が、期待した結果を台無しにしたような、そんな気がした。
しかし平田啓介は冷淡だった。
「『だって』も『でも』もあるか。自分が未熟なことを自覚する分にはいいさ。だが、自分を下げる理由に他人を使うんじゃねえよ」
だいたいな、と彼は苛つきを隠さずに捲し立てる。
「迷惑かけない人間がこの世に居てたまるか。この世に生きてる連中のほとんどは、何かにかけて致命的に無能で致命的にどあほうさ。他人に迷惑掛けない人生なんてものがあったら、だれがそれをやってのけたか教えてほしいね。どの宗教の聖人伝を読んだらそんな人生が可能になるってんだ?」
「……」
平田啓介はタバコの箱をくしゃりと握りつぶした。
「未熟なのはおまえの宿題だ。それはそれ。なんとか自分で解決して見せろ。現場に戻る気があるなら、だがな」
「……すみません」
「ムカつきついでに、おれの愚痴に付き合ってくれや」
後頭部を引っ掻く。その仕草でフケが飛ぶのを、いまは指摘できなかった。
「岐が休んでる間にな、世の中のごちゃごちゃしたのがマー大変だったのよ。お偉いさんからの文句も八割それだった。世論がどーとか、機密がこーだとか。あたらくしあの幹部連中が結局どうなったのかなんて調べる暇すら作らせてもらえない」
「でも、それをザキヤ……いえ、山崎先輩や吉田にやらせてるんでしょ?」
「まあな。あんなろくでもない奴らの打ち合あわせなんざ、おれだけでいいさ。こういう時だけ威勢のいいおじさんたちが多いのよ」
ちょっとした沈黙があった。
突然、平田は話の方向転換をした。
「なあ、望月サヤカの言っていた〝王道楽土〟の意味、わかったか?」
「……正直いうと、途中の理屈はよくわかりませんでした。が、アレですよね。ほんとうなら霊能者がしっかりするべきだった、それをサボってだらだら生きてたから、〈甲府の惨禍〉や〈新宿百鬼夜行〉みたいな事件が起こった……と。だから霊能者だけの国を作るって」
「んーまあ、上出来だ。要約すりゃあそういうことらしい。で、岐はどう思った?」
「どうって……」
しどろもどろになる庚に対して、平田はいけしゃあしゃあと言った。
「おれは、ぶっちゃけあいつらの言ってることがわかっちまった。妖怪退治なんていくらやってもキリがないし、それを日頃の行いで予防できるだったらそっちの方がいい。そういう国家だか制度だかわからんが、それが本当に可能なんだったら、な」
「…………」
「もちろん、霊能者にとってそれがいい国かどうかは知らんし、わからん。ただ、いろいろ思うところはある。いまの世の中の有り様が、今後もっとめちゃくちゃになるであろう社会に対して全然間に合ってないってことだ」
言いながらテレビの方を見る。
すでにSNSや動画投稿サイトに情報・エンターテイメントの速度と供給量で劣ってはいてもなお、テレビは世間を表示しようとする。それは歪められた真実かもしれない。だが、その画面の中には救助活動、救援物資の輸送、そして災害の真相をめぐる多くの言説を照らし合わせようと試みている。
しかし答えのない議論と、「〜すべき」で締めくくられる正論と一般論が〝意見〟と銘打ってまかり通った。政府は早く新宿区民を避難させるべき、黒い泥のような物質の調査を進めるべき、過去自衛隊特駆群に掛けた防衛予算をもっと被災者支援の予算に充てるべき、べき、べき、べき……
SNSはもっと酷い。出どころのわからない統計資料、映像記録、そして政治家の発言を遡って検索したものがスクリーンショットで貼り付けられて無数のシェアを稼ぐ。感情に任せた発信が殺到し、正論や反論の支持者が言葉を武器した代理戦争を展開した。
その主語のほとんどは「政府」だった。時に「自衛隊」になったり、周辺で蠢いてる企業やNPO法人の名前になったりした。
「……ああいうの見てると、腹立つんだよな。なんつうか、モンスター消費者と言うか、クレーマー対応の現場見せられてるみたいでよ。自分たちがお金を払ってるんだからそれがどう使われるべきかを注文するのは当然だ、ていう理屈はそりゃあ株主総会の考え方であって、おれたちの国とか政治を語るための考え方じゃねえような気がするんだよな」
まあ、おれの政治理解の方が間違っているかもわからん。けどな、と平田は続ける。
「知識が豊富な専門家だったり、それなりに世渡り経験ありますぜとか言ってたりする奴らが『他人は変えられませんよ』とかさかしらに言ってる一方で『政府さん、こうするべきですよ』とか物申しているのは、なんかしっくりこねえんだよな。それよりは、主語を『霊能者たち』って言った望月サヤカの方がうんとマシなように見えてくる。少なくとも自分ができる範囲で何かしようとしてるのは、わかるからな」
「…………」
「で、いちおうもとの質問戻るけど、岐もそういう意味で、〝わかる〟側かと思ったんだが、どうなんだ?」
「……え?」
「山崎も吉田も、どっちかというと『いまある自分たちの暮らし』を守りたい側だ。だからブレねえ。そこんとこは高く評価してるつもりだよ。ただ、おれはさっきも言ったみたいに、世の中をあんまり良いものだと思えたことがない。いまやってる仕事はあくまで仕事でやってるだけで、『この国の平和を守る』なんて少年漫画みたいな建前は、そうそう信じちゃいねえよ」
物語の中で読むのは楽しんだけどな、と肩をすくめる。
「……わたしは、」
おもむろに庚は口を開けて、それから言葉を探してまた閉じる。
人のためになることがしたいです。
わたしも誰かの日常を守ることは大切だと思ってます。
特殊犯罪者を逮捕したり、怪獣駆除の支援をしたりすることは、将来起こりうる不幸を防いでます。社会に貢献する、すばらしい仕事だと思ってます。
二、三の言葉が浮かんだ。それはすべて喉元を通ろうとした時になぜか引っかかって出てくる気配がしなかった。口を開いてそう言おうとすると何かがちくりと痛んでしまう。ようやく言った言葉は、思っていたのとちょっと違うフレーズにすり替わっていた。
「わたしは、だれかに必要とされたいんだと思います」
「ん。じゃあ、なんで望月サヤカに誘われても行かなかった?」
「……わかりません」
ほんとうのことを言えば、庚がもし社会に貢献したいのならNGOでもボランティアにでも、行けば良かったのだ。
公安警察というのも立派な仕事だろう。しかし、それが庚の言った気持ちに応えてくれる最適解ではない。むしろ極端な話、やりたくてやったことでもなかった。いまある能力や素質、気分が混ざり合って、偶然、なりゆきでそうなっただけのことだ。
ただ、どんなに苦しくても、面倒くさくても、逃げてはこなかった。
どんなことも引き受けてきたし、意外と瀬戸際でどうにかなってしまっていた。
「もしかしたら、望月サヤカは岐やおれみたいなやつに十分にモノをくれるかもしれない。少なくとも公安なんかよりは楽で有意義な仕事をやらせてもらえるかもしれん。が、仮にそうだったとしても、おまえは動かなかっただろうとおれは思ってる」
「はい。それは、そう思います」
「なぜだろうな? おれたちのやってることは、しょうじきろくでもない社会をほったらかしにするだけのつまんない仕事かもしれないのにな」
「…………」
庚はふと、自分が進路に迷っていた時のことを思い出した。
あの時、〈甲府の惨禍〉と呼ばれる日本初の怪獣災害が発生して、世の中の荒れようはいまよりももっと道の混乱にあふれていた。
そんな中、彼女は「あ、このままじゃいけないな」という直観を持っていた。具体的に何がどうとは言えないのだが、災害以前のような生活なんて二度と戻ってこないと考えていたのだ。
にもかかわらず庚の友人たちはふたつの派閥に分かれた。
ひとつは、「前と同じように過ごしたい」と願っている側だった。怪獣災害が発生し、当地への旅行ができなくなったり、インフラが止まったりするたびに文句を言っていた側である。
そしてもうひとつは、「世の中はもっと悪くなるからどうにかしなきゃいけない」と行動する側だった。ただ、その行動が、既存の企業や政治家を批判する側に回っていて、再会するたびに舌鋒が鋭くなっていくのを辟易しながら相手しなくてはならなかった。
庚は、そのどちらの道も選ばなかった。
だから今となってはそのどちらとも音信不通になっている。改めて同窓会に呼ばれようとも思ってないし、また会いたいという気もしなくなっていた。そうして人は孤独になるのだろう。こうして人とのつながりが希薄になっていくのだろう。
後悔はしていない。むしろなるべくしてなった、というような納得すらあった。忙殺されながらも、ひとつひとつ任務を達成することで、少しずつ「自分が無力ではない」という感触を確かめている。それが、たぶん、この仕事を始めて一番大切なことだと思った。
「確かに酷い仕事ですよね。有給突然消えるし、年中無休で働かされるし、死ぬかもしれない目にやたら出くわすし、怪我もするし入院もする。だれも心配してくれるわけでもなければ、だれも手助けしてくれるわけでもない……」
自嘲する。なんて粋狂なことやってるんだろうな、と。
「ただ、嫌な仕事じゃないですよ」
と庚は言った。
「そうか。ならよかったよ、上司的にはな」
平田はそっけなく答えた。
庚は顔を上げた。
「わたしが十一課に来た時、平田さん言ってましたよね? わたしたちが相手にする人間は、みんな『見えないもの』を扱うって。そしてわたしたちはそれをあえて〝犯罪〟と言わなければならない仕事をしてるって」
「そーいや、そんなこと言ったっけなあ」
「だったらわたしの答えはそれ、ということにしておいてください」
「……はん、いっちょまえな口だけ聞きやがって」
平田は思わず笑みをこぼした。
その時だった。病室のドアが開き、吉田と山崎のふたりがやってきた。
ツカツカと歩み寄る男女。しかしその表情は険しい。
「これ、みて」
差し出されたのはスマートフォン。そこに映っていたのは、動画サイトに投稿された一本の動画であった。それはSNSを通じてある界隈に拡散しつつあり、知識人やマニアのアカウントからさらに一般へと波及する途上にあった。
投稿日時はつい二時間ほど前。再生回数がすでに百万回を超えている。しかし一同が覗き込んで驚いたのはその拡散度合いや中身、タイトルでもない。
サムネイル画像に、望月サヤカのすがたが映っていたからだった。




