5.幻に濡れそぼつ
「この世でもっとも強力な幻術って何だと思う?」
おんなは問うた。すでに彼らは中央道を突破し、甲府市を迂回して、富士山麓へと足を踏み入れている。車を乗り捨てた津島は、唯々諾々と操り人形のように歩いていた。
その面持ちは思案に耽っている。
青木ヶ原の樹海に乱立するさまざまな看板を尻目に、ふたりは奥へと進んでいく。どれも自殺を止めるための内容だったが、そも彼らはこの世に絶望しているわけではない。
憂いているのだ。
「正義、かな。おれたちは正しいことをしている、てのはどんな麻薬よりも痛快だ。だからおれは組織に手を貸した。でも、そこにはおれ以上に酔ってる奴らでいっぱいで、目が醒めちまったよ」
学歴は決して低くない。勤勉さについても申し分ない。そんな自分が生きるのに苦労するこの世はどこかまちがっている。そう思ったからいろんなことを調べて、首を突っ込んでみたつもりだった。
しかし行けばどこもかしこも狂気の沙汰だった。デモに参加すれば個人は烏合の衆となり、ネットの言説は常に陰謀論と紙一重。匿名アカウントと不毛な言い争いを繰り広げ、もっともらしい証拠は素早く加工された演出へと早変わりする。かくしていつのまに同志だと思っていた相手から疑いのまなざしを向けられ、些細なふるまいが裏切り者のレッテルへと結びついていく。
こっけいだった。それがたとえ世界的に活動を展開する環境保護団体であってさえも、結局のところ人間どもの盛り場にほかならないと悟らざるを得なかった。
だから津島は、儲け話にうかつに乗るようになったのだ。この世に正義などはない。しかし正義に酔いしれたい奴ばらはうんざりするほどごまんといた。だとすれば、正義を上回る原理は、数字しかない。少なくとも現代においては資本主義に則るべきものだ。虚妄に溺れるくらいなら、金に塗れたほうがずっとましだった。
「おもしろいわね。すこし見直した」
意外だったらしい。おんなはそれから、しばらく沈黙してから、会話をつないだ。
「わたしの答えとしては、優越感なの。自分が狩る側だと信じてるとき、そこに油断が生まれる」
「ああ、それで……」
オービスを振り切ることで、相手に付け入る隙を与えたわけか。
「そう。まあそれも時間の問題かな。もうじきこっちに追いつくと思う。どうする? 監視カメラその他もろもろ、全部あなたの顔しか映ってないんだけど」
「どうしたもんかな」
不思議と冷静だった。香水の余韻がまだ残っているならまだしも、ここまで逃げ場がないとむしろ清々しい気持ちになっていた。
ここは樹海だ。行方をくらまして、自殺したことにでもすれば、全てを藪の中にできるかもしれない。
しかし、津島の安っぽい干からびたプライドがそれを許そうとはしなかった。
「あんた、おれをここまで連れてきて、ほんとうはどうするつもりだったんだ?」
「うん? べつに。あそこで捕まって、つまんないこと吐かれたら嫌だったから」
「大丈夫だ。あんたのことは喋らない」
おんなは立ち止まった。無表情のまま、半身になって振り返る。
「おれはここに残る。奴らの目を惹いておくから、あんたは自分の任務をすればいい」
「それ……カッコつけ?」
「まさか。捨て鉢になったんだよ」
「ふうん」
どうでもよさそうだった。もちろん、おんなにとって津島自身の内面がどうあろうと無関心なのは仕方あるまい。
津島は裏地のポケットからUSBメモリを取り出し、おんなに投げた。受け取った瞬間、彼女はきょとんとする。
「それが、例のタンパク質の設計図だ」
「──ありがと」
彼女は初めて、心の底から微笑んだ。力の抜けた笑み。津島はその笑顔で自分の存在が許されたような気がした。
きっとこれも、彼女の幻術なのだろう。津島は最後の最後で、現実よりも幻想におぼれる悦びを知ってしまったのだ。
おんなはそのまま、怪獣の飼育施設に向かって進む。そこには《HOUNDS》グループに賛同し、施設を付け狙う〝同志たち〟が集いつつあるだろう。
津島はその全員の名前は知らない。しかし彼らに情報を流し、今日という日に向けてあらゆる活動の支度をこしらえた。初めて自分が役に立てたような気がした。
「あーあ、死にたくなかったなあ」
おんなに背を向けて、言う。返事はない。というより、もう彼女は遠くに行ってしまった。当たり前だった。つかの間話した。ほんの少しだけ心を通わせた。それだけが、おとこの不満に満ちた生涯を救ったのだった。