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超常捜査官:岐庚 〜アサルト・オン・ヤオヨロズ外典〜  作者: 執筆・八雲 辰毘古/監修・金精亭交吉
File3:信じるものは掬われる
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23.月がきれいですね(Fly me to the moon)

 宗谷紫織は階段を登っていく。一段、一段過去を足蹴に昇り詰めるがごとく。

 屋上階は、ほんらい厳重なロックを掛けられていたが、いまはそれがない。望月サヤカと手を組んだ企業のお偉方が、このビルを丸ごと明け渡したようなものだったからだ。


 そのため彼女の行く手を阻むものは、誰もいない。


 淡々と登っていった先は、ヘリポートがある屋上階である。関係者以外立ち入り禁止の文字が、白々しく彼女に警鐘を鳴らすが目にも留まらない。

 ドアを開ける直前、彼女は雑面をふたたび取り付けた。〝雑面法師〟の出来上がりである。


「お待ちしておりました」


 屋上階では、法衣をまとった数々の霊能者が円座を組んだ。その中央には両界曼荼羅を編み込んだ絨毯が大きく敷かれており、さらにその周囲を取り囲むように護摩壇が五芒星の頂点を見立てるように組まれている。

 月は冷たく上弦を張っていた。風が強く吹いていて、すでに焚かれた護摩壇の炎が危ういほど揺れている。風にたなびく法衣のすそが乱れ狂いながら、宗谷紫織の到来を見守っていた。


 彼女を案内したのは、老爺:千柳斎(せんりゅうさい)東厳(とうげん)──宗教法人あたらくしあの教祖であり代表役員、そして魔家四将の第三位:魔礼海でもある。彼は紫の衣と白髯、白くなった長髪を垂らした仙人然とした外見を成しており、雑面法師と連れ立ってある種の導き手の風格を放っている。

 いまだ矍鑠(かくしゃく)たる堂々とした歩みっぷりが進む先には、若くて小柄な女が控えている。彼女の名前は弓削(ゆげ)倫子ともこ左右非対称(アシンメトリー)の白黒服を着た彼女は、あたらくしあの責任役員でありながら、魔家四将の末席:魔礼寿でもある。


「はじまりますか……」


 女の確認に、紫織はこくりと(うべな)う。

 それを見た千柳斎東厳は、同様に首肯いてあとに続くプロセスを促した。


 弓削は静かに一礼すると、くるりと身を翻して円座の外に出る。そこには大きな麻の袋が四つ、口を縛り付けられたまま鎮座する。

 そのひとつひとつがしっかり結えられていることをよく点検してから、彼女は彼女の独自の儀式に移行した。


 宗教法人あたらくしあ、はその命名の西洋感に対して、宗旨は仏教に由来する。涅槃寂滅を志す原始仏教の理念に加えて、西洋の自然哲学の理論を導入し複合的に研究することにその組織の独自性があった。その本質は西洋からもたらされた近代文明の根源的思想の探究、それに派生する現代現実のあまりに多すぎる煩悩の数々の批判・考察、そして数多の課題を克服するための東洋の知の再発見に他ならなかった。

 当初はスピリチュアルに傾倒し法人格を得られなかったが、〝研究室〟と名称された教団施設が拡大し、知識人・政財界の支持を得るに至っていよいよ公認を受ける。この時に前後して民族主義の政治結社との結びつきが増え、いよいよ国粋的な下部組織、政治と宗教の連結を担う一連の部類の末席にその名を置くに至った。


 しかし政財界の関係者には、彼らが宗教法人であることを知らない人間も少なくなかった。

 というのも、教団施設が〝研究室〟と銘打たれていたように、彼らは自身が宗教組織であることを公然と掲げては来なかったのだ。代わりにあったのは、西洋文明の支配の論理を知るという歴然とした学術活動──ある種の体制批判的な思想活動の一環として、宗教を研究するというお題目をともなって国内の支持者を増やしていったのである。


 現に、それらはバブル崩壊後の失われた時代の波において不条理に巻き込まれた人々の心を掴んだ。二十世紀末に宗教組織がテロ活動を起こしたあと、〝宗教〟という言葉へのアレルギー的な反応はかえって宗教研究に取り組む〈あたらくしあ〉への期待と情熱を生み出した。

 無知によって犯された誤ちは、知ることによってしか根治しない。だからこそ、一部の行動的で情熱的な人間ほど、この宗教法人の末端として組織に貢献したのだった。


 千柳斎東厳は、当初全くもって人々を騙すなどいうことを考えもしなかった。ただ仏門の家に生まれ育った身として、高度成長期以来のこの国の浮かれっぷりと不条理とを眺めてきた身として、何かするべきだと感じていたに過ぎない。それは、当初危険であることを承知しながらも自分自身の生まれと育ちである仏教によってしか得られないと考えていた。だからこそ宗教組織を設立し、同志を増やし、ゆくゆくは法人格へと上り詰めた。


 そのときである。政治結社の使節として望月サヤカが来訪したのは。


「あなたたちの宗旨はすばらしいわ」


 最初は軽いあいさつのつもりだった。教団の真の意志に気づかずに組織を礼賛する有象無象の政治家は山ほどいる。そんな人間の追従(ついしょう)に耳を貸すほど東厳は愚かではなかった。

 しかし望月サヤカは例外だった。彼女は追従でもなんでもなく、〈あたらくしあ〉が巧みに隠してきた本質を指摘し、いまのままの活動では弱いことを断言したのだった。


「現代文明が腐敗しているのは分かりきっている。そのために外から理屈を持ってくるのも正しい。けれどもそれはすでに失敗された道よ。あなたは先人の過ちを見落としている。過去は受け入れなければならないのよ」


 彼女は自身の結社のネットワークから皇重工を紹介し、浮ついた支持者を点在させていた政財界に強い基盤を作らせた。

 地球温暖化、環境政策、持続可能な開発、人新世──いろんな言葉で飾り立てられた自然と人類との共生に際して、歴史的な知恵と称して教団由来のシンポジウムやシンクタンクを設立した。

 そして、やがて来たった天災と怪獣災害によって社会構造に亀裂が入ると、ここぞとばかりに〈あたらくしあ〉にボランティア活動を展開させた。


 人助けをすること、この世の不条理の本質を共に知ること、そしてその正体を暴いて平静たる心の平穏を取り戻すこと。

 人無くしては人の世は成り立たず、良く築かれた人の世こそが深き(えにし)となって縁起のネットワークを成立させうる。その上でおのれを律し、同輩とともに戒律を守り合う。その果てには大乗仏教が志した《大衆の救済》という最も難しいテーゼを達成するだろう。理想的な世界は理想的な人間によってのみ成立する。すなわち巨大な宗教的事業の幕開けだった。


 この試みはバベルの塔の建造にも似ていた。誰もが歴史的に不可能だと察知していた。しかしだからこそ、その不可能性に一縷(いちる)の望みを賭けたいとねがう人々の希望は大きくはてしないものだった。

 そして、その事業も本日をもって佳境を迎える──


 千柳斎東厳は、雑面法師が円座の中央に座るのを見届けると、すっくと背筋を正して一同を見回した。


「月天子の諸君、われら〈あたらくしあ〉の試みは本日をもってその最大の難所を迎える。ここにおられる雑面法師さまは、われら一同の願掛けを一心不乱に受け止めてこの世に御光来(こうらい)なさったのだ。

 この効験こそは巫女どののお力添えの賜物である。かようにわれらの生にあって他者の力は欠かすべからざるものである。しかしながら、この恩恵をただわれらのものとなすべきや否や? われらは他者から受け継がれたる善意をおのれのほしいままとすることをよしとするか?」


「否!」と円座の術者が応答する。


「われら縁起に基づいて生まれ、縁起に因りて生きとし生けるものへの愛着を育みしものども、その恩恵のなんたるやを知り、ともに理解を深め、知恵を知らざるものへと知恵の温かみを与えるものとなること──さようなことこそ人の道理であること、まさかお忘れになったわけではあるまいな?」


「否! 否!」


「知恵のあるべき姿を志すものたちよ、日々そのための修法(ずほう)を身につけ、来たる日の到来に向けて努力を惜しまないものよ、われらは日輪(にちりん)の名の下にあるべき道を見いだせず夜の暗がりにおいて底知れぬ慄きに顫える(ともがら)を見捨てることができようか? たとえ太陽の光の元に自由を見出せず、隷属を強いられながらも希望を求める哀れなる衆生(しゅじょう)に、せめてもの慰めとしての月の光を掲げる力すらも持たざる者か?」


「否! 否! 否!」


 ぱん、と乾いた手のひらの音が、千柳斎の両の手から響いた。その音は空を裂き、虚しい風の鳴き声にかき消された。


「自惚れてはならぬ。われらはいま鳴らした手のどちらが鳴ったのかもわからぬ愚かな生き物である。暗愚なるものよ。われらはしょせんは(くら)き三千世界に生き、その力は限られている。われらが手をこまぬいているあいだに世は誤ちを重ね、暗き夜に一向に光は差さぬ。しかし衆生はいまなお救済を求めてやまない哀れなるさまよい人である。彼らはおのれの無知と恥を自覚せぬまま、いずれは良きことと目指して日々誤った勤めを果たす悪魔界の奉公人である。今宵われらはついにその真実を暴かなければならない。それがたとえ、どれだけの血と涙を流そうとも……」


 悲壮たる憐憫が、あたりを覆った。


「現代文明の失敗は、その果てに千年王国を用意したことだ。アウグスティヌスの逃避的幻想はいまここで打ち砕かれなければならぬ。ゆえにわれらは衆愚の果てに生み出された暗黒の帝国を立証しなくてはならない。人が他者を顧みず、その苦しみを悦び、悲しみを放置するのは想像力がないからだ。おのれのいま・ここの行いが将来において何を意味するかを知らないからだ。なればこそ、われらが知りうる最悪の結末の一端をここに示さなければ、われらの悲願は叶わぬ!」


「然り! 然り! 然り!」


 術者の叫びは、ここに感極まる。千柳斎東厳は昂った面持ちで、ついに叫んだ。


「悪魔の名前を呼びたまえ! われらが苦しみを喜び、阿頼耶(あらや)(しき)に諸悪を刻み込む悍ましきものどもの、そのわずかなる名前を!」

「その名を問う! いずこの悪魔なりや?」

積陰(しょくいん)月霊(げつれい)大王(だいおう)!」


 かつて天地開闢のおり──それこそイザナギ・イザナミよりもはるか昔のこと、この世の陽の気と陰の気が互いに混ざり合い、三千世界の発端が兆したころのことである。

 その底に煮凝ったような、陰の気があった。しかもその中でも悪の力が凝り固まった第一の存在が、造物大女王と言う。第二の存在を無底海大陰女王と言い、第三にようやく積陰月霊大王はその名をあらわす。悪魔の名前はさらに後に十ほど続くと宮地水位の『異境備忘録』に記載がある。かの書籍は神仙の霊能者にとっては奥義書であり、二十世紀に入ってようやく紐解くことを許された神霊世界見聞のドキュメンタリーだった。


 この世の悪とこの世の闇、全ての悪鬼羅刹を呼び覚ますに足る力を秘めたかの魔王たちは、近代になってようやくその名を、わずかばかりの書物と共に広め得た。逆にいえば、それまで知られずにいたのは人々が悪のなしうる先を自覚しなかったからである。東厳はかの稀覯(きこう)本を入手し、その他あまたの奥義書を読みふけると、ついに真理の一端を得たように確信の基礎を築いたのだった。

 その内容を望月サヤカに聞かせたところ、彼女はいまさら何を、というごとく冷静な口調で次のような助言を与えた。


「なら次に読むのはこれだわ」


 彼女が差し出したのは、一冊の名もなき本。羽根ペンで書かれた思しき横文字が、あまたの怪獣の図像とともに綴られている。その書物の示した文字は、東厳にとっては未知の書体によって書かれていた。

 これは? と東厳が問う。望月サヤカの回答は次のとおりである。


「名前はないのよ。でも私たちの調査では、ある種の聖書みたいものね。だから、『怪獣聖書』と呼んでるわ」


 彼女は翻訳チームが作成したPDFファイルを連携した。そこには、ついに東厳が探し求めた世界の真実が刻まれていたのだった。


 ゆえに行動は決められた。すべての知識がこの場に通じている。

 東厳がその名を呼んだとたん、風が止んだ。まるで大気の流れを司る精霊が、その名を聞いて息吹く口をつぐんだようだった。


 護摩壇の炎がごうごうと燃えて爆ぜる。その火は次第に色を変え、青くなると、周囲から血の気も引くような寒気が襲いかかった。

 時は七月十四日──夏の盛りも近付いてきたおりに、風もない熱帯夜が極寒に転落したのである。そこでついに、東厳は術者たちに魔王の降臨をうながす文言の詠唱と、儀式に入るように指示を出した。


 遠くで怪獣の鳴き声が聞こえる。弓削倫子の儀式が完了し、捕らえられた怪獣たちが包囲網を突き崩しているのだろう。彼女は妖怪や怪獣を自在に召喚し、使役する類まれな霊能者だった。

 空を見る。まだ月は半分に差し掛かったばかりだ。しかしこれから時間をかけてゆっくりとその満ちる瞬間を待ち焦がれるだろう。たとえその闇が深く暗く苦しくとも、夜の光こそが生者を照らし出すのだから。


 長い間、東厳が研究を通じて確信したものがある。

 それは取るに足らない、ある文学者の一言だった。つまり──すべての言葉の中にただひとつ、記憶から再生すべきものがある。それは〝月〟という言葉に他ならない、と。

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