20.そして彼女はいなくなった
「元気なさそうね」と望月サヤカは言った。
宗谷紫織は実際元気がなかった。
月一回のミーティング、成果報告と競争心を焚きつけるような言葉のやりとりに、いまいち乗り切れていない自分がいる。それをどこから察したのか、突如知らない電話番号から望月サヤカの連絡があった。
彼女は近いうちに会えるかと聞いた。それでこの面談が成り立っている。冬の昼下がり、日陰の喫茶店を指定して、だ。
「何かまずいことでもあったの?」
「いえ、別に……」
「そう? わたしはそうは思わないけど」
つと、彼女は紫織と目線を合わせた。泣きぼくろが視界の端で強調される。その残像は飛蚊症の痕跡のようにどこまでも視野に追い縋って離れない。
気まずくなって目を逸らす。この間から目が腫れぼったくて、まともに光を視ることも苦しくなっていた。仕事の時以外、基本的にディスプレイとライトには目を向けない。定期的に目薬を差す。あと可能であれば寝る。それでかろうじて持たせてきた視界である。
その視界の中に、望月サヤカはあえて乗り込んできた。
「もしかして、何か物足りないと、思ってるんじゃないかしら」
どきりとした。無言。それが紛れもない回答である。
「だとしたら、あなたがいるべきなのはここではないわ」
「そんな……! 困ります! 働いてかないと生活しなくちゃだし」
「落ち着いて」
背筋を正した紫織を、手で制しながら、望月サヤカはゆっくり言葉を選んだ。
「別にあなたが去るべきだとは言ってない。むしろ、あなたが必要なのはカウンセリングよ。心のケア、と言った方が良いかしらね」
望月サヤカは神妙な顔になった。
「心の問題は難しいのよ。たとえいま、あなたが外側から見て何も変わってないように見えていても、その内側ではもっとすさんでいるかもしれない。けれども人の心なんてふつうわかりっこないの。少なくとも、そういう専門家とかでない限り、憶測で心の話をしたら、余計なお節介にしかならないでしょ?」
「……」
「あなたは間違いなく苦しんでいる。いいえ、わたしにはそう見えるというだけなのかもしれない。ちょっと専門家を紹介するから、行ってきなさいな。大丈夫よ。ちょっとした心の風邪だと思えば。結果が大したことではなくても、わたしの勘違いで済むだけなんだから、気にしないで」
「……はい」
項垂れるように、頷いた。
三日後、紫織は予約の取れたカウンセラーのオフィスに向かった。
東京駅八重洲口から人混みに揉まれるようにして路上に放り出された彼女は、スマートフォンと睨めっこしながら、街頭のビルへと向かう。京橋付近の整然とした街並みに、すっかり浮き上がったような私服の少女。平日の午前にツカツカ行き来する青年壮年のビジネスパーソンが、何か異形の催し物でも見るみたいに紫織のことを一瞥して去っていく。
彼女はそのまち針のような視線にチクチク刺されながら、すがるようにオフィスの住所への道を辿った。GPSの座標を間違えて信号を往復し、コンビニで水を買い、それに口をつけながらようやくたどり着いたオフィスは、もちろんのことれっきとした事務所で、受付の格式ばった物々しさに紫織はすっかり怖気付いてしまった。
これでまちがいだったらどうしよう。やっぱりひとりでこんなところに来るべきではなかったかもしれない。後悔が、またしても彼女の心をくじかせる。なぜこうもネガティブな気持ちが自分の意志に立ちはだかるのか。彼女はひたすらおのれを呪っていた。動けない自分に。正しく判断できない自分に。それらすべては、自分がまた間違えるのではないかという、大きなおそれのもとに成り立っていた。
受付の女性が、紫織を見つけた。
「ご予約の方ですか?」
この一声で彼女は戻れなくなった。
公安警察第十一課・平田啓介があとから調査資料を整理したとき、もしこの呼び止めがなかったとしたら、いったいどうなっていただろうと考えることがあった。おそらく宗谷紫織は本来あるべき日常に帰還し、他の子供たちと同様にオペレーターとして働き、自分達の所属する組織が何者であるかを知らないまま過ごす「トカゲの尻尾」のひとつになっていたかもしれない。
あるいは、彼女自身が心理的負荷を感じていたあらゆる環境についに嫌気が差して、自殺という選択を試みたかもわからない。統計資料によると二〇一七年の自殺者は二万一三二一人で、前年比で減少の傾向が見られ、男女比率では男性の方が多数を占めていたが、女性かつ学生・生徒の年齢での自殺者がゼロではなかった。おまけに当時の診断結果の資料によると、かなり心理的に追い込まれていたという客観的な診断が下されており、同年の自殺動機の三大要因である家庭問題、健康問題、経済・生活問題の三つを抱え込んでいることも示唆されていた。
家庭問題については父親との関係性、健康問題については長時間家庭労働と昼夜を問わないデスクワークによる心身の不安定、経済・生活問題については金銭的に解決しているように見えていたが、怪獣災害に伴う親子の医療費が膨大な借金によって賄われていたものだということが判明している。彼女はこの事実をカウンセラーに向かって堰切ったようにしゃべり、涙を流して錯乱状態に近い様子を表したという。
別の聞き込み調査では、宗谷紫織の家庭状況、経済状況についてそこまで過酷なものであることを知らなかったと答えた人間がほぼ全員だった。特に同年代の回答は絶望的なまでに無知だった。例外は先のカウンセラーと彼女の父方の親戚数名のみだったが、親戚は親戚で紫織が皇重工と関係を持ち出したあたりから音信不通になったとしてその後の行く末を正確に追跡していない。二〇一〇年の後半において、特に都民とその周辺の核家族化が極限まで進んだ結果、親戚付き合いや近所相互の連帯関係は驚くほど希薄となっていた。これが結果として宗谷紫織の、かの悲劇的な結末へのレールを敷いていたのではないかと平田は判断せざるを得なかった。
いずれにせよ、カウンセラーは宗教法人あたらくしあとの接点はなかったし、いたってまともなカウンセリングを執行した。彼女は最初はたどたどしく質問に答え、次第に熱っぽくなって押し殺していた自分を解放し、ぐちゃぐちゃになるまで話し込んだ。このカウンセリングの結果、自主的な過度の心理的抑圧が見受けられたとのことだった。
俗に言う、アダルトチルドレン、またはヤングケアラーの問題である。
最終的な試みとして、カウンセラーはまず紫織に自分が自分を抑圧していることを自覚するべきだと推奨した。心理的な問題のある部類において、自覚することがその治療の第一段階に達する。ある種の気付きが世界の新しい地平を開くように、彼女自身があえて見ないでいた側面をゆっくり見据えること。そこから始めるのが、ほんとうの解決には重要なことだと説いたのだ。
報告資料に基づく紫織の反応は、あまり腑に落ちた様子ではなかったと言う。しかし何かしらのヒントになっていたのは間違いなかった。のちに彼女は自分の抑圧を解放し、その最も深奥に隠されていた残酷な本性を曝け出すことになったからだ。
そのきっかけになった事件は、帰りの電車の中で起こった。
報告は、全く無関係な妖怪事件に基づく。
その日の正午ごろ、JR中央線の快速電車に猩猩と呼ばれる妖怪が乗り込んだ。目撃者の証言を集合すると、次のような情景となる。
まず、四ツ谷駅から身長二メートル弱の大男がホームから乗ってきたと言う。その毛は金髪のロン毛で、サングラスを掛けていた。彼は一見すると人間のような見かけをしていて、黒のロングコートに両手を突っ込みながら、三十センチメートルを超えた大きな靴を履いていたという。
しかし乗車時とともに暖房の効いた車輌に悪臭が走った。あとから判明したのだが、かの妖怪はすでに人をひとり殺めており、その臭いが落とせなかったものと見える。とにかく乗客はみな眉をひそめ、一部の人はこそこそ話をしながら車輌を移動した。
宗谷紫織はその車内にいた。その気もなく、座席に座りながらぼーっと窓の外から流れていく景色を眺めていたらしい。彼女は悪臭には気づいていたが、席を離れるほどの気力はなく、どうせあと一駅だからと大して気にせず腰掛けたままだった。
猩猩はガムを噛むようにくちゃくちゃ音を鳴らしながら、ロングコートのポケットから人の二倍もあるような大きな手を引っ張り出した。片手には血糊のついたスマートフォンが握られている。彼はその端末を繁々と見つめ、さまざまな操作を試みていた。その様子がある種滑稽でもあったのか、悪臭に物怖じしない乗客のひとりが、プッと吹き出した。
それを、猩猩は聞き逃さなかった。
「アんダヨ、ヒトのえすえぬえすノゾイテんジャネーよ」
カタコトだが、はっきりそう言ったと事情聴取資料には残っている。猩猩はくちゃくちゃ悪臭を口から撒き散らしながら、車輌を歩き進み、笑った乗客に近寄った。乗客はにやけた顔を引っ込めて、すぐに謝ったが、猩猩は引かなかった。
「ごメンで済ンだらケーサツいらねーだろ! けンか売っテルのカ!」
手を出す。乗客がグラリと糸の切れた人形みたいに弾き飛ばされた。あまりの衝撃に場の空気が凍った。
「アんダヨ、文句アんノか?!」
ぐるりと周囲を見回すその目はもはや人間の正気を宿してなかった。
すでに四ツ谷から新宿まで、快速電車では四分の移動時間を要する。乗客はこの乗り合わせた怪物とありえないほど長い四分を生き延びなければならない。そんな状況であることを察した乗客は、スゴスゴと車輌を移動するか、目を逸らして頼むから自分に火の粉が降り掛かりませんようにと項垂れるしかなかった。
そのような極限状況がもたらされた中、宗谷紫織はまたしてもパニックに近い心理状況に見舞われた。例のトラウマの再来である。自分の不幸のきっかけにして、現状まで尾を引くあらゆる呪いの根源と全く同類の事態が当時再現されてしまったのだ。
彼女の取った方法は、目を逸らす、この一択だった。急きょ席を立つことは、かえって目立つためにこの判断に誤りはない。しかし彼女の心理は異なる緊張を催していた。怪物、妖怪、怪獣……人間社会と敵対するモンスターたちが、またしても現実に人を傷付けているのだ。彼女は恐怖に襲われ、じっとしていたはずの手脚がガクガク震えるのを抑えることができなかった。
やがて、それが周囲の目からも目立つほどになった時、ついに猩猩の注意を惹いた。時はわずかに二分である。猩猩は興味深く観察するようなしぐさで紫織のいる席に近づいて、その顔を覗き込んだ。
「オイ、女ァ、何笑ッてんダヨ」
あの時、周囲に居合わせた青年ビジネスパーソンや主婦は、自分が何もできなかったことを悔やんでいると同時に、怪物が自分に近寄ってこなかったことにホッとしたと答えた。紫織付近の座席はその対角線上にひとり、二十代男性を除いてガラ空きの状態だったのだ。猩猩は、だからかなり荒々しく、ふてぶてしいほどの大声で紫織のことを威嚇していた。
「オ前、おれのコト嗤ッてんダロ? ハッキリしろヨ! ふザケんジャねえ! オラ! コッチミロよ!」
大きな手が肩を掴んだ。そして前後に揺らされ、紫織はついに顔を上げた。その時に、例の対角線上に座っていた男性は、自分が身代わりになってでも助けなければならないと身構えたと言う。そして同時に上がった顔の左半分が恐ろしいほど醜く歪んでいたことも印象的であったと答えたことから、のちに公安警察が調査を進めたとき、当人を宗谷紫織だと同定する根拠になったのだ。
さて、顔を上げたときのことである。宗谷紫織は当時紛れもなくパニック障害に近い状態に追い込まれていたと言って良い。ところがどの時点ではわからないが、彼女の中でスイッチが切り替わった瞬間があった。彼女はふと、眼前の恐ろしい状況をあらためて、自分のトラウマを生み出したあの過去と結びつけていることをついに自覚したのである。
そして思った。怖いのは、殺されることではない、と。
彼女は面と向かった猩猩の顔面に、全く違う光景を重ね合わせた。それはかつて彼女が目撃した陰摩羅鬼の血に塗れた牙と、食い殺された母親の見開かれた眼だった。その眼の示す先に自分の視線が噛み合った時、彼女は初めてあの時母親の目が自分に向けて訴えかけたメッセージを汲み取ったのだ。
しおり、にげて、と。
その残響が無意識の奥にこびりついて、延々と彼女を呪っていたのだ。紫織はただひたすら逃げていた。何が怖いのかもわからずに、目を逸らし、背を向けて、ただ走っていた。やみくもに、激しく、拒絶を試みていた。だがようやくわかった。自分が何から逃れようとしたのか。なぜ逃げようとしたのか──
カウンセラーが、紫織に向かってハッキリ言ったことを思い出す。あなたは自分で自分を呪っているんだわ。悲しい過去は、とても悲しいことだけれども、それは今のあなたを傷付ける原因ではない。ゆっくり冷静になって、過去を解きほぐすのよ。そうすれば、あなたはようやくいまの人生を取り戻せるんだからね。
その通りだった。彼女は自らにまとわりついていた過去の亡霊の正体を悟ったのだ。自覚することが心理的回復の第一段階であるとするならば、それを客観視することは第二段階に相当する。宗谷紫織はその点恐ろしく聡明な少女であった。たちまちにして過去との距離の置き方を覚え、目の前で起こっている現象を、冷静に捉えなおすことができた。
フッと、侮蔑した笑みを浮かべる。その笑顔は緊迫した状況下に置かれたものが放つ愛想笑いではなかった、と目撃者は語っている。とにかく彼女は微笑んだ。そしてハッキリと猩猩の眼にあたる箇所を睨みつけたかと思ったとたん、怪物は前触れなくバタンと音を立てて崩れ落ちたのだった。
「そっか。そうだったんだ」
少女はそう、つぶやいたと言う。その内心で何を思ったのかは推測したところであまり意味がない。とにかく彼女は自分の持っている〝異能〟に気がついたのだった。
その後彼女は、全ての謎が解けてすっきりしたような表情で、眼前に倒れた猩猩の亡骸を無視すると、ようやく到着した新宿駅のホームに降りて人混みの中に消え去った。
後日警察が事情聴取のために顔に瘢痕のある少女を探したが、ようやく宗谷紫織という姓名を探りあてた時、彼女の住所から五十代半ばの男性の死体が見つかったほかは、何も見つからなかったという。
そう、その日以来、彼女の行方を知るものは誰もいなかったのである。




