19.世界と向き合ってのエトセトラ
それからの紫織の日々は、面白いほどに変わっていった。
ただ単にゲームをしているだけだったのに、当月から銀行口座に振り込みがあった。それまで補助金でかろうじてやりくりしていた生活が驚くほど潤ったのだ。スーパーの安売り記事と睨めっこし、父親のデイサービスに苦労し、学校と切り離されて疎遠な気持ちになることもなくなった。というのも、日頃はゲームを通じて、PIROのハンターやいろんな人と繋がることができたからだった。
《シノブだ。よろしく》
紫織が担当するハンターは、大柄な槍使いのシノブという。この名前は仮の名らしいが、かえって良かった。かつて愛用していたキャラクターユニットと同じ名前・特徴であることで、かえって愛着すらあった。
「よろしくお願いします」
《さっそくだが、今日から事件があるらしい。頼めるかな?》
「大丈夫です。概要は大筋理解してるつもりです。資料からは新宿区南ブロックの辺りが怪しいと思います。場所は物陰、妖力はかなり抑え気味ですが、路地裏に入って人気のないところで強く出るはずです」
スラスラと出た分析用語に、通話越しの相手が絶句する。
近年の妖怪は、狩られることを自覚して賢くなっている。だからあえて都市で暴れるものについては妖力レーダーに探知されない工夫というものをするのだが、それがPIROの捜査が単に人手不足である以上に困難になっている背景でもある。望月サヤカの分析は、紫織をはじめとするオペレーターにはすっかり常識と化していた。
《……きみ、まさか本業?》
「はい? いえ」
《そうか、凄いな。さすが依頼されてきただけはある……》
仕事はあっけなく終わった。その成果報酬は、シノブと折半だ。
翌日からしばらくは事件の情報がなかったが、また三日ほどすると都内某所で失踪事件という話がチラホラ現れた。
情報は最初うわさ話や怪しい掲示板・不審なSNSのアカウントから予兆が出る。紫織はいつしかその法則性を掴んでいた。長くゲームで培ってきた勘というものがさいわいして、下手すると依頼がある前から検討が付いていることすらあった。
次から次へと、成果を上げる。
やればやるほど、評価も上がる。
そしてその分、生活が楽になる。
「またこんなに……」
給与明細の数字を見て、ひょっとしてこれは騙されているんじゃないかと疑ってしまう。しかしその疑念はインターネット検索で調べれば調べるほど無くなっていく。
皇重工という会社は、かつては戦前に創業したという会社で歴史も長い。しかし昭和後期から平成初期にかけて、バブル景気にかまけて常識はずれの経営危機に陥ったものらしい。そこで国の資金を投入して経営陣をすり替えると、あっという間に組織の建て直しが図られた。その過程で多くの解雇があり、その不満も少なくない。
ネット評価は白ければ良いというわけではない。何もかもが時間と共に白日の元にさらされるようなこの社会において、完全なシロはかえってウソだ。良品を偽装するレビューの嘘くささを見れば、紫織のような少女でも疑念は増す。
しかし主義が合わないこと、体制の変化についていけないこと、業務そのものに適正がなかったこと……そう言った退社レビューは紫織やその周辺にさほど影響を与えなかった。彼女たちは新しい思想と主義の元におり、変化の煽りを受けず、業務そのものに適正があったのだから。
怪獣時代の新しい働き方、そんな感じもどこかでしていた。
ニュースを見ると、芸能人の不倫や国会議員の不正と言った大小の話題に差し挟まって、正体不明の不審死が散見する。一時期は延々と青いフレームが画面の縁を切り取って本筋の報道を狭めていたのに対して、この平常感は気味が悪いほどだった。
そんな中に、怪獣被災者が働くシェアハウスという報道があった。
災害に見舞われ、手足を損失し、心身ともに立ち直れなくなってもなお、人は働かなくてはならない。この現実に対処して、協力しあって生き延びる擬似家族の有り様が、そこにあった。
やっぱり苦労なされているんですか、という現地リポーターの質問に対して、回答者はさりげなく、国が助けてくれないから自分たちで肩を寄せ合うしかないんですよ、と淋しく微笑んでいた。その微笑みがやけに紫織の印象に深く刻み込まれた。
ところがその当事者の回答を差し置いて、報道そのものはあくまで立ち直る人間をテーマにしていた。片腕だけの女性が朝、台所で頑張って料理をする。電子レンジと片手鍋を駆使して作る朝食に、表情がこわばったまま治らない初老の男が受け取る。車椅子の女性と知的障がい者の男性とが我慢強く待っていただきますをする。
その光景は、テレビであることを忘れるほどの強いインパクトがあった。
とたんに場面が切り替わって、このシェアハウスを成り立たせている宗教法人の説明に移った。宗教法人あたらくしあ。紫織はこの名前を初めて目にした。
いいなあ。
そんな言葉が、口を衝いて出た。背後から父のうめく声が聞こえたので、紫織はそれでテレビから離れた。
テレビの中ではその後も宗教法人の貢献によって互いに支え合う人々を映していた。
※
「紫織、変わったよねー」
ある日、安代マキとふたりで遊びに出かけた時のことである。
すでに生活が変わってから三ヶ月が経っていた。世界は秋の色を迎え、残暑を拭い去ってほのぼのとした日差しを湛えている。
あれから何度もオフ会があり、クエストがあり、そしてPIROのミーティングがあった。
そのたびに寿遼とは出会い、榎本アキラと安代マキの手前で秘密を秘密のままにした。最初は友達なんだし言ったらどうかなとも思ったのだけど、あまりにも嘘くさくて自分から言うのはどこか気が引けたのだった。
マキとは月に二回程度は会っていた。
服を買ってから、女子会と称してそれっぽいコーデ選びやカフェご飯を連れ回されている。さいわい仕事を始めた後だったから金銭的に戸惑うことはなくなった。それが暗にマキに知れたのだろうか。
彼女はほうじ茶ラテをストローで飲み干してから、続けて言った。
「余裕が出てきたというか、すごいしっかりしてきた」
「そ、そう?」
「大丈夫ー? なんか悪いバイトとかしてないよね?」
「大丈夫だよ、たぶん」
「ふーん」
頬杖を突く。それからマキはちょっとだけためらいがちに周囲へ二度、視線を往復させると、何かを飲み込んだように前のめりになった。
「実はここだけの話なんだけどさー」
と、言ってからわずかに間を置く。
それからマキはおもむろに口を開いた。
「わたしパパ活してんだよね」
「えっ」
「将来の夢の話、したでしょ。服とか、そういうの知りたいって。そのために勉強するのも、知るのもお金かかるの。でもその辺のバイトじゃぜんぜん長続きしないし、学校にバレると面倒臭いし。で、結局そういうのがむしゃらにやってたら稼いでるクラスメイトが教えてくれたのよ」
「そ、そうなんだ」
「紫織もそうなんでしょ? 急に羽振り良くなったもんね。ちょっと気になってた。アンタむかしはそういう子じゃなかったよ」
知らなかった。安代マキのこと。彼女の想いの強さと、その行動力。そして洞察力。
紫織はそうと知って、むしろ軽蔑の念を浮かべる自分に驚いた。
「ち、ちがうよ」
あわてて取り消す。二重の意味で。
ぎゅっ。まただ。何かが拗れる音がした。
「そう。でも、親切心から言うけど、一見そういうふうでなくても、気がついたらやばいバイトだってこともあるからね。後戻りできなくなる前に、わたしでよければ聞くからさ。ホントに」
「うん、ありがとう」
ぎゅっ。ぎゅっ。ぎゅっ。
そのあとの時間、紫織は自分が何を話していたのか憶えていることができなかった。
※
《やっぱり宗谷さんはすごいよ。この道の天才だったとしか言いようがないって》
あるミーティングの折り、寿遼やその他メンバーからの忌憚のない賛辞が紫織の耳を素通りする。エリアの成績トップだよ。過去類を見ないほどの実績だって。
嘘偽りない褒め言葉が、いまの彼女にはちっとも嬉しくない。結果を出したのは出さないと生活しなければならないからであって、別に成果をだれかと競うつもりではない。しかしそんなことを口にしたって仕方ないから、愛想笑いでてきとうに誤魔化す。しょせん彼らはネットを通じて協業する知り合い──同僚に過ぎないのである。
最初、彼ら彼女らは紫織と同様、怪獣災害によってトラウマと近親者の死を直近で体験したことを知って安心した。自分の仲間がここにいる。そんな気がした。けれどもその期待は簡単に裏切られた。ひと口に言っても被害者・被災者にはいろいろな人間のタイプがあって、自分が酷い目に遭ったからこそ、他人にはそうあってほしくないとか、怪獣や妖怪はこの世にいてはいけないとか、わりときれいごとに近いことを恥ずかしげもなく言ってのける。
この同僚たちに、紫織はなんとも言えない嫌悪感すら覚えたのだった。
ミーティングが終わると、紫織はデスクから離れて伸びをした。からだの方はリハビリが功を奏して、顔以外はだいぶ動きやすくなっていた。傷病者が身体障害者を介護するというようなホームケアも、決して負担は軽くならないもののなんとかやっている。毎日ご飯を作り、洗濯を行いながら、仕事をする。ほぼ完璧と言っていいほどの生活だ。
けれども、ときどき何かの節目にやってくる虚しさがある。紫織はその空虚な気持ちの正体がなんであるのか、まだ知らない。
物事に真面目に取り組めば取り組むほど、何か大事なものを削っている気がする。かと言って人と会って話したり、遊んだりすることが心の救いには決してならなかった。むしろ人と会うほど──それも友達だと思っている人間と接すれば接するほど、心身ともに消耗していく。擂り粉木で丁寧に押しつぶされていくかのように、何か形のあったものが吹けば飛ぶほど脆く粉々に砕かれていく。
ぎゅっ。また何かが潰れた。
右の目頭を押さえる。最近目が痛い。画面の見過ぎなのだろうか。ここのところ、仕事と称してスマホやパソコンの画面ばかり見ている。大人たちもデスクワークで肩が凝るとかドライアイになるというけれど、わたしもそれになりかかっているんだろうかと不安にもなる。
ぼやけた視界、疲弊した目を覚ますために、冷たい水で顔を洗う。ぱしゃっ。水が跳ねるたびにくたびれてもう戻りようがない何かを誤魔化して、無理やり叩き起こしているような後ろめたさが迸った。
鏡を見る。変わったはずの生活に、ただひとり取り残されたわたし。その有り様は、玉手箱を開け損ねた浦島太郎のように、周囲が過ごす時間の流れからかけ離れたところに生きている感じがする。
お母さん、わたしはここにいるよ。わたしはもう今年で十七歳になるよ。でも、ほかの子と違ってもう一生懸命働いてて、お母さんのパートの代金よりもたくさんのお金もらって、お父さんの世話をしているよ。
そんなことを心の中で呟いた。
そしてその言葉をすべて心の中に仕舞い込んだ。決して開けてはならない、大切な思い出の玉手箱、もしくはパンドラの箱。開けたら最後、何か自分の中で我慢していたありとあらゆることが、圧縮した時間と共に噴き出てしまいそうで怖いのだ。けれどもそれを押さえつけるので日々が精いっぱいで、その分紫織は周囲の同級生と比べて二倍も三倍も歳を取ってしまったような錯覚を覚えた。
ふと、思う。わたし、何してんだろ?




