17.落ちて、墜ちて、堕ちて(3)
午後八時十二分。
同級生の男子に連れられて歩く。そんな経験なんて全くない紫織である。
薄暗い通路を進むと、ふたりはやがてバックヤードにたどりついた。クロークルームには大勢のおとなたちの服が掛けられている。
「ここでまってて」
「えっ、でも」
「そこに椅子あるから、座っててよ。大丈夫だって、すぐ戻るから」
「あ、うん」
あまり言い返すこともできず、ただぺたんと座る。
待っている間、紫織はかえってパーティールームの喧騒が恋しく感じられた。あれほど人の目が怖かったのにも関わらず、だった。いま、ここにいることの不安に比べればまだ憐れまれるほうがましかもしれないと思ってしまったのだ。
そもそも。わたしはなんでこんなところに来てしまったんだろう?
自問自答はぐるぐると渦を巻く。やっぱり。どうせ。またしても。そんな枕詞が頭をもたげ、否定形の述語にまとわりつく。
そこで、はたと思い返す。さっき寿くんは私に向かってなんて言った?
「……事実上一位?」
どういうことだろう?
「ねえ!」
声を出す。誰も返事をしない。
時計を確認する。八時二十分。待たせるにしてはちょっと遅すぎないか。
立ち上がって、部屋を点検する。バックヤードとはいえ、厨房のような無機質なものではなく、赤いカーテンと絨毯で飾られた、まるで客間のような部屋である。ここで給仕が休憩時間をすごすのだということを、紫織は知らない。そして、いまここに控えている給仕がひとりとしていないのは、パーティールームで催しが始まったからだということも、紫織は知らない。
「どうしよう」
ぎゅっ。まただ。また何かを間違えた。握る手に汗が滲む。
後悔するぐらいなら最初から何もしない方がましだった。しかし、もはや彼女にとっては後悔なんて言葉では足りないほどの傷痕でいっぱいだった。それは顔面についた傷ではない。もっと心の奥底に深々と流れる血の数々である。紫織はそこから逃れたくて、決死の想いで飛び出してきたはずだった。
だがいちいち傷が疼くのだ。
がんじがらめに心を縛るのだ。
ぎゅっ。ぎゅっ。ぎゅっ。
何かが締め付けられていく。息苦しくなっていく。
「もうだめだ」独りごちる。
立ち上がって、振り返る。やっぱり帰ろう。こんなところにいちゃいけない。なぜかそんな気がしてしまった。
寿くんには申し訳ないけれど……やっぱりわたしはこんなところにいちゃいけない。ここはわたしの場所なんかじゃ、ない。
そんなことを思って、ようやく決意した時のことである。
突然、電気が消えた。
不意打ちに奪われた視界。真っ黒な暗幕がひらりと四方を覆ったかのような閉塞感が、急速に波しぶきを立てて押し寄せた。
静寂が泡を立てて雪崩れ込む。
さっきの決意が一瞬で砕けた。
ぺたっと、椅子に座り直す。急に涙が出てきた。ああ、なんで。こんな。唐突に舞い戻ってくるフラッシュバック。それは、そう、あの日、あの時。のちに人が〈新宿百鬼夜行〉と名付けた怪獣災害のできごと……
それは、確か二〇一五年七月四日のことだった。
時計の針は十一を指していた。憶えているのは、あの時から家族の時計が止まったままだということだった。
その日、突如として新宿は無数の怪物が飛翔し、人を襲った。
すでに〈甲府の惨禍〉と呼ばれる事件で、怪獣の存在は世に知らしめられていた。
異形の怪鳥。いや、どちらかというと翼竜という方が正しい。のちに黒曜怪獣:ヤタガラスとして知られたその存在は、富士山麓から飛び来たり、甲府で人をむさぼり喰ったという。さながら恐竜時代の再来、食物連鎖の最上位を奪われた時の驚くべき瞬間を、人々は目撃していた。
この事実は動画になり、衝撃映像となり、ニュースとSNSを通じて拡散した。紫織のいた学校でも、物好きな人間がグロ画像と化した被害を検索し、パニックになったり、余計に不安なうわさをばら撒いたりした。
だから、いつか東京に出てきたら怖いね、と互いに言っていた。
それまで、過去に何度も都内で妖怪が事件になっていたことなんて、つゆ知らずに。
あの日。
紫織は期末試験を終わらせた気晴らしに、夜遅くまでカラオケをして、喉がガラガラになるほど熱唱して、二十一時に帰宅した。
家族へ連絡なんてしていなかった。しなくてもいいと思ってたし、しないのが当たり前の遊び仲間である。成績はちゃんと取るから、親はわたしたちに干渉しない。させてるようではカッコ悪い。そんな暗黙の美学が身内では流行っていた。
両親は共働きである。当時、父はまだ健脚な営業職、毎日あちこち靴底をすり減らしては、三日に一度はアルコールとタバコの臭いをまとって帰宅した。
母は紫織のいない間に近所の飲食店でパートをしていた。朝起きて弁当を作り、夜には父と紫織の晩ごはんを作る。いわば兼業主婦、朝は誰よりも早く起き、夜は父が帰宅するまでは寝ない。
そんな毎日が楽なものではなかったはずだ。だからなのか、母は学校から帰宅した紫織に向かって職場や家庭の愚痴をさんざん聞かせたものだった。それを聞かされる側にもなってみると、たまったものではなかったが、紫織もこの家庭のいびつな構造には薄々どこかで気づいていたから、聞くのも仕事だと思って耐えていたところがある。
ところがその日、母はとびきり大きな不満を抱えていたらしい。紫織の帰宅が遅かったことと、それが無断だったことに、ひどく腹を立ててきた。今日テストで終わるの早かったんでしょ? なんで帰るのがこんなに遅いのよ? 連絡ぐらいしなさいよ! そんな口調だった。
言われていい気持ちのしない紫織である。だから口喧嘩になった。テスト終わって遊んでくるぐらい、なんだっていうの? わたしはお母さんのお人形さんじゃない! けっこうキツイ物言いで、互いに互いの八つ当たりを、理不尽を、研ぎ澄ませたナイフのような文句に変えて傷つけ合った。
怒りが、不満が、隠されたまま溜めてきたストレスが、割れたガラスの破片のように無惨に散らばった。うかつに歩けば血が出るほどに、空気はギスギスとして、近寄りがたいものを出している。紫織はそのまま風呂に入った。密室で歌い叫んだ時に出た汗を、さっさと流したかったからである。
ハッキリと憶えているのは、その時お母さんなんて死んでしまえと心のどこかで思ってしまっていた、ということだった。
あの時。紫織は風呂から上がった時、うかつなことに着替えを忘れたのだ。しまった、と思った。まさか喧嘩をした手前、服を取ってきてと頼むのも気が引けた。だから洗面所の戸を開けて、誰もいないことを確認して、さっさと着替えてしまおうと下品な根性が頭をもたげた。
しかしまさにその時、彼女は見たのだ。
玄関で、母が見たことのない怪物に喰われていた現場を。
のちに知ったが、陰摩羅鬼と言うらしい。禿鷹にも蝙蝠にも似たその妖怪は、すでに都内を複数飛翔し、マンションの高層階に突如飛来して、殺戮を始めていた。
紫織の母は、最初、ドアを乱暴に叩く音にヒステリーを起こしながら近寄った。また酒に酔った父が鍵を出すのを面倒くさがったかと勘違いして、玄関口に立つ。悪態を吐きながらドアを開けると、そこには首無しの人体を咥えた怪物がいたのだ。
紫織が見たのは、それから十秒後の瞬間である。
血がどくどくと玄関から続く廊下のフローリングの、板の溝を走って足指を浸す。さらさらした血液が、生暖かい感触とともに足裏を犯し、正常な判断力を失わせた。けれどもパニックで叫ぶことすら叶わなかった。遊び疲れた喉は、いかな逼迫した命の危機にあっても、その本能の期待には応えない。
とっさに身を翻して逃げようとするが、それすらも叶わない。まるで死に際に母が道連れにしようとしたかのように、血で足が滑って転んだ。下着姿の少女が、無惨に床に叩きつけられた。打撲の痛みなんて気にしている場合じゃなかった。彼女はそこから、化け物から、母の死から逃げた。
そのあとのことは、めくるめく事件の連続で、思い出すのも苦痛だった。
紫織はまず風呂場に逃げて、怪物が来ないように引きこもった。妖怪は人の気配に反応し、最初紫織のいる場所に向かってさんざん体当たりを試みたが、いつのまにかいなくなった。ほかに標的を見つけたのだろう。気がついたら居なくなっていた。
だが、そこからが問題だった。隣の部屋から火が上がったのだ。ガスの漏れなのか、理由は不明だった。とにかく、火災報知器が鳴って、煙が辺りに立ち込めた。しかし紫織はその閉じこもった風呂場から出ることができなかった。ドアが歪んで開かなかったからだ。
助けを呼ぶことも叶わなかった。またしても、遊んだことが裏目に出る。彼女は狂ったようにドアを叩いて、徐々に迫る熱気から逃れようとした。だが、それが叶う頃には、すでに身体の左半分が爛れるほどには、火の手の餌食になってしまったのだ。
むろん、救急搬送。手術してようやく取り留めた生命。しかし、その回復のために全身の皮という皮を万力で引き伸ばされるかのような激痛と闘った。
そのたびにあの暗がりを、夜の闇の中、火明かりに脅かされながら閉じ込められたあの惨めでおぞましい夜を思い出す。
ああ、これは罰だったんだ、と。
過去を悔いることで生まれるものは何ひとつとしてない。しかし、過去を悔いることでしか振り返ることのできない心の傷というものは存在する。
それはほんらい時間と共に癒えるべきものだった。しかし、彼女の場合、それを忘れることを許されない、身体への傷がある。朝起きて傷口が張るたびに、鏡を見るたびに、そして父の世話をするたびに、この罪悪感は巻き戻しと再生を繰り返す。
それは、この暗がりによってついにピークを迎えたのだった。
紫織は絶叫した。悲鳴よりも激しい、喉が張り裂けるような声である。呼吸が荒くなり、姿勢を正す力もなくなり、崩れ落ちるように椅子から床へと倒れ込んだ。全身が痙攣し、目を開けることも、喋ることも許そうとしない。パニックが脳を占領し、心身を蹂躙した。何もかもがあの時の再現に思えた。
しかし、悲鳴を聞いたからか、靴音がやってきた。慌てたような、急いだような、素早い歩調で、やってきて、迷うことなく紫織の肩を──右の肩を叩いて、そっと抱きかかえてくれた。
「大丈夫。大丈夫だから」
優しい女性の声。慈愛に満ちた、深みのある言葉遣いである。
声の主はそっと痙攣する手脚に触れ、さすり、震えが止まるまで辛抱強く味方でいてくれた。それで初めて、ようやく、紫織は自分が過去に囚われていたことを自覚できた。
我に返る。その目は闇に人影を見た。
「……誰?」
紫織の声は、闇に溶けた。
そこで彼女が見たものは──
※
孤立した。いや、孤立させられたと見るべきなのか。
庚はバックヤードに来たことを早くも悔やみ始めていた。
時刻は午後八時二十七分。バックヤードの空間は突如として暗転し、闇に慣れるまで余計な動きはするまいと物陰に潜んでいた。
パーティールームを離れた判断は悪くなかった。あのままその場を動かなかったら、いずれは省庁の妙な連中と鉢合わせてさぞかし気まずかったことだろう。
移動しながら、平田にも状況を共有する。平田はその判断を支持した。
《わかった。まずいと思ったら早くサインを出してくれ。いちおう別働隊として吉田の式神がいるはずだが、どうもそのビル全体がある種の結界を張ってるらしい。式神の様子が分からんときた》
「了解。やっぱりクサいですね」
《頼むぞ。最悪どんな手荒な手を使っても構わん。生きて帰れ》
「言われなくても」
庚は脳裏にビルを取り囲む布陣を思い描く。潜入捜査する庚、スパイする吉田の式神、ほか何名かはパーティールームに潜入し様子を伺う。
一方、証拠を掴み次第乗り込む部隊が、山崎ひかりを筆頭に、特駆群のメンバーとの共同で展開中。司令塔は平田と同じ本部から、椹木信彦三佐が担当する。
ほか、外部の警備として遊撃部隊として東海林飛鳥をはじめとするPIROメンバー。
ビルで何をするかはさておき、怪獣出現を含むあらゆるシナリオを想定してこの布陣は決定された。最悪庚が内部で帰還不可能となったとしても、布陣に揺らぎはない。
とはいえ、潜入してすぐにこの展開は想像しきれなかった。電気が消える。まさか。ブレーカーを落とす判断はシミュレーションには入ってなかった。あるとしても、それはFBIの古い教科書に書かれた内容だ。
庚は状況を分析する。これが当局の判断でないならば、少なくとも事故という線は難しい。アクシデントとして捉えたとしても、つぎの行動への判断に繋がらない。
敵組織の意図だとしたら? その目的は何のために? いや、なぜその判断が相手に可能なのかを考えるべきだ。
冷や汗が出る。いや。まさか。
「……計画がもれてる?」
しかし、考えつく合理的な結論はこれしかない。相手はこの催しに公安が入ることを予期している。そして、案の定入ってきた公安に対して、罠を仕掛けている。これはその第一弾だ。庚はそう、理解した。
であれば、相手が次にとるべきは何か。そして庚はその先を見越して何をするべきなのか?
ふと、庚は暗闇の中を切り裂くような悲鳴を聞いた。その悲鳴は絶叫という方が的確で、喉を引き絞るような、耳を覆いたくなるような声だった。
女性、しかも年若いティーンエイジャーの声である。
反射的に体が動いた。焦りにも似た、早歩き。せかせかと歩きながら、庚は頭に叩き込んだビルの内部構造を思い出す。その一角をいまの声の反響具合から逆算すると、周囲に漂う物の気配を避けながらたどり着く。
見れば、うずくまっている人影がある。椅子から崩れ落ちて、倒れたような、そしてパニックすれすれの喘鳴に似た呼吸で、立ち上がることすら困難なほどに小刻みに身体が震えている。
庚は素早く近寄って、その背中をさすった。抱き寄せて、左の肩を叩いた。
びくっ、とそれは動いた。最初はうずくまっている様子だったそれは、徐々に鎌首をもたげ、むくむくと身を起こした。
襲い掛かる。目を見開く。
とっさに身を引いた庚は、体術を駆使してこれを退けた。背負い投げで床に叩きつけた時、しまったと思ったが、ガシャン、という音で我に返った。
ふと、近場にカーテンを見つけ、それを開いた。上弦の月が嘲るような艶かしい微笑を浮かべている。その光の差す先に、徐々に目が慣れていくと、庚は、ついにコト切れたマネキンのすがたを認めたのだった。
同じだ。あの時と。
E20──中央道を走る車を力づくで停めた時も、後部座席にこれと同じ術が掛けられていた。望月サヤカはあの事件から関与している疑いが掛けられている。だとすれば、いまここにいるのは間違いがないと言って良いのではないのか。
とっさに平田に連絡を取る。しかし、ついにその通信は繋がらなかった。
クスクス、と嗤う声が聞こえた。
振り返ると、雑面を付けた姿がたたずむ。長い黒髪、神子衣装を着こなしたたたずまいは、成人女性の背丈のように見えた。
どくんと、緊張が走る。雑面法師。どこかでそんなワードがあったはずだ。
それは、今回の事件でかなり重要な言葉ではなかったか。
「望月サヤカか?」問う。
だが、雑面法師は答えない。
ふらりと身をひるがして、そのまま足早に立ち去ろうとした。
「待て!」
後を追う。その速度は法師よりも早く、あっけなく追い付いた。
行手を塞ぐ。それで雑面法師は立ち止まった。
しかし、それでなお、何ひとつ言葉を発しない。試すように首を傾げるのみだった。
庚は恐る恐る近寄る。
その時、ふと何か不穏な気配がした。なぜそう思ったのかはわからない。雑面法師の背後から身の毛のよだつような気配が一瞬だけ発せられたような気がしたのだ。それは手前の存在の持っている妖力がわずかに漏れ出たものかもしれない。それとも背後に控えている伏兵の出したものかもしれない。とにかく、その気配は庚に束の間の迷いを生んだ。
だが、それはあくまで一瞬のことだった。庚はついに意を決する。
ヴェールをついに剥がした。
そこには──澄んだ右眼と、左眼から咲き溢れる彼岸花。
「ッ!」
とたんにめまいがした。全身から骨を引き抜かれたかのような脱力感が、庚のからだを地面に叩きつけようと目論む。しかしそれは一瞬のことで、すかさずみなぎる妖力を回復させて、体勢を整えた。
ふと、顔を上げる。その視線の先で、うら若き少女が、残念そうに見下した微笑みを浮かべていた。
よく見れば、その顔面左側に火傷の痕がある。しかしそれはいつのまにか癒えており、小皺のない、病的なまでの肌の白さのすら浮かび上がっている。その中央に、さながら床の間の竹の容器に挿された生花のように、一本の彼岸花が咲いて垂れ下がっていた。
あまりにも異形。その威容に唖然とする庚だった。
それが仇となった。
即座に右肩に激痛が迸り、後方に吹き飛ばされる。背後の壁に叩きつけられ、肩を擂粉木ですりつぶされるような苦痛を受けた。
思わず上がる悲鳴は、あまりに激しすぎて自分ではない誰かのものかと思えたぐらいだった。見れば、白羽の矢が肩に深々と刺さっているではないか。
「やはり」
弓の構えを解く音がする。ツカツカと靴音とともに月明かりのもと、現れたのは、ウェーブの掛かった黒い長髪に、金色の眼差し。夢か幻かと見まごうほどの美麗なこの女こそは──
「望月、サヤカ……ッ!」
「ご名答。お父君はお元気かしら?」
「糞ッ!」
「下品な言葉を使わないでよ。せっかくの美人が台無しだわ」
言いながら、望月サヤカは庚の頬を触った。恐ろしいほど体温が低い。
庚は抵抗しようとしたものの、妖力が一向に回復しない。流血のせいかと思われたが、そうでなかった。ただひたすら力が出ない。まるで矢そのものが血を吸うかのように。
「な、ぜ……」
「夷羿の弓よ。やっぱりこの一撃の前ではさすがの猿女君でも形なしと見えるわね」
中国古代に九つの太陽を八つまで打ち砕いたという弓──その一撃を受けた庚には、望月サヤカの目論み通り、妖力そのものが根を絶たれたかのように枯れ果てている。
赤黒いものが視界を過ぎり、チカチカと明滅する。まずい。ほんとうに力が出てこない。まさか自分の能力を出す間もなく、ここまで追い詰められるとは。
望月サヤカは嬉しそうに振り返った。
「さすがね。雑面法師さま。あなたの見た予知通り、猿女君は綺麗に術にハマったわ」
雑面法師、と呼ばれた少女はこくりと頷いた。剥がされた雑面もそのままに、足音すら立てずに歩み寄る。月の妖しい光に照らされながらもなお、その青白い影向は衰えを見せない。
まるでその存在が影そのものになったかのような、いびつな、不安定な脆さが、輪郭のことごとくに秘められていた。
庚はイヤリングに手を掛けて、非常通知を出そうとした。しかしその左手の肩を、望月サヤカが弓の端で押さえつけた。
痛い。苦しい。庚は、相手の注意を逸らしたくて、思いついたことを口にする。
「おまえが雑面法師じゃなかったのか……?」
「やっぱりそう思ったの? わたしが顔を出さないからって、そんな単純なことってあると思って?」
つまらないわね、と冷淡に付け加える。
「冬堂井氷鹿からのせっかく漏洩も台無しね。がっかりされるわよ」
「余計な……お世話だ」
「そうだったわね。まあ、この際だから紹介しておくわ」
望月サヤカが半身を開いて、手のひらで少女を指し示した。
「彼女の名前は宗谷紫織。二年前、ちょうどここと同じ場所で教団に加入した、いわば秘蔵っ子ね」
宗谷紫織は小首を傾げながら、ふと、底を上げた靴を脱いだ。それからようやく裸足になると、ゆっくりと階段を降りるように段階を追ってその本来の背丈を晒す。
落ちて、墜ちて、堕ちて──こうして少女は不思議の国へと降り立った。
時に午後八時四十二分。二〇一八年七月十四日のことであった。




