16.落ちて、墜ちて、堕ちて(2)
皇重工第四支社ビル。
西新宿の清潔な街並みに沿って、堂々と建つそれは、東新宿および歌舞伎町の喧騒を冷ややかに見下すように屹立する。
歌舞伎町をはじめとする繁華街を中枢とする東新宿と異なって、その西側は都庁をシンボルにオフィス街の様相を示す。昼間はエリート然とした社会人と下級の公務員とが、満員電車の人熱に気息奄々としたさまを露呈しながら往来を闊歩し、夜は残業の灯火を除いては、わずかに東側の喧騒に見下す以外の楽しみがない。
ビジネスに誇りを持つものと、ビジネスから逃避してくだを巻いているもの。
その悍ましいまでの対比に、欲望がコーヒーフレッシュのようにかき混ぜられた、苦々しいまでの人間味を飲み干すための容器が、ある種新宿という街の特色だった。
夜である。
岐庚は所定の位置についていた。高層階エレベーターが発着するエリアの手前、エントランスホールの豪奢な調度のうち一角を陣取るソファーがある。
庚はその席にパーティードレスを着たまま腰掛けていた。ふだんは動きやすい服の方が好みだったが、今回の任務においてはドレスコードというものがある。ほかの参加者の格を鑑みた時、このコードを突破できる立ち振る舞いが可能なのは庚だけだというのは、やや滑稽な話ではあったが。
「だってよぉ」とあの時──作戦行動説明中に平田が言っていたことを振り返る。「おれはああいう格式のある場所に向かないのは分かりきってるだろ? 山崎はああ見えて化粧っ気がゼロで、吉田は論外。てなると消去法でこうなっちまうんだよな」
「平田さん、けっこうわたしに無茶振りしてません? こう見えても元不良ですよ」
「不良は自称だろ。家格と育ちは履歴書見ればわかる。とにかく、やれ」
「ウワッ、サイテー」
しかし平田の見込みはあながち間違いではない。過去に庚は父のもと、政財界の重鎮からの挨拶回りを受けていた側でもあった。
現代人にとってはほとんど形骸化し、サブカルチャーの中にしかなくなったような年中行事──ひな祭りや追儺の儀式も格式高く体験し、幼少期はそれで浮世離れしていたところもある。
つまりありえないほどの名家。生まれと育ちは人生に生涯ついて回る亡霊だった。
九十年代──いわばこの国の経済が大暴落を起こし、落日へと傾くその過程において生を得た庚だったが、彼女は後に響く数々の不景気の影響を全く受けずに育った。それどころか自宅は常に裕福で、この世の不幸というものが世に蔓延っていることを特に痛感することもなく幾つもののニュースをつまらない、くだらないものとして見過ごしてきた。
その果てに目の当たりにしたのが、二〇一五年、いわゆる〈甲府の惨禍〉──怪獣災害だ。それまで見えない災害として大衆に振るわれていた経済危機という名の暴力に比べ、怪獣はあまりにも目に見えてわかりやすく、誤解のしようがなかった。
だからなのだ。庚もその例外に漏れず、自分のいる社会について不安を覚えずにはいられなかったのだ。
庚はまだ、公安警察の任務に就いたこの選択が正しかったのか、迷っている。
この仕事が世の中を良くするというのは、結局のところ建前に過ぎない。それを、日々勤めを果たすたびに痛感せざるを得ない。
《聞こえるか?》
平田の声が、イヤリングの形をした骨伝導イヤフォンから聞こえた。時刻は午後七時四十五分。ちょうど予定通り。
「ええ。大丈夫」
《では動くぞ。お前さんの両眼のカラーコンタクトは視覚情報を録画できるようになっている。可能なら参加者のリストとその顔ぶれ、全員撮れ》
「了解です」
どんな信念や迷いを抱えようとも、しょせん彼女も社会の歯車にすぎない。
「行きます」
《ン、頼んだ》
だが、歯車にも人情がある。受け答えの中にわずかばかり交わされる気持ちが、感情が、人間同士の信頼と連帯を築くのだった。
エレベーターを登り、パーティー会場へと入る。招待状ともう一部の書類を手渡し、「代理のものです」と伝えると、案外かんたんに通してくれた。他の参加者も案内された当人だとは限らないらしい。
もっともリストを確保したわけではないのだが、考えられる参加者の候補を鑑みると、本人がわざわざ足を運ぶことそのものがリスクだと言わざるを得ないのだ。
庚が潜入捜査員となったのも、こうした背景を見込んだからに他ならない。
赤い絨毯を敷かれたフロアと、純白のシーツで丸テーブルが乱立する。バイキング形式の立食パーティー。ウェイターとウェイトレスがシャンパンを載せながら、グラスはいかがと丁寧に尋ねて回る。
背景には、夜空に輝く摩天楼が、宝石を散りばめたアクセサリを展示するためのトルソーさながら、優雅な肢体を影に差し出す。そな艶かしいプロポーションは、遠景に広がる歌舞伎町のネオン灯とは甚だしい距離を取ったまま、まるで天井桟敷にたむろする野次馬へと高尚な芸術を説こうとする無謀な劇作家のようないびつなイメージを描いていた。
そこには風土も無ければ矜持もない。ただ己れの無体を嘆き、それでいながら他国の文化を無批判に取り入れたものの末路がある。
鹿鳴館以来、上流階級を自称するものは常に西洋にかぶれてばかりいる。
庚は緋色のパーティードレスを翻し、会場内をしずしずと歩いた。
場を一瞥しても望月サヤカらしき人物はいない。ほかにも要注意人物と思しきリストを思い起こす──皇晴人、ほか皇重工取締役複数名、そして雑面法師なる存在。どれもいない。よく見ると、皇重工以外の大企業の重役クラスや関連企業の社長などが談笑しているのがわかった。
企業人だけではない。官公庁の──復興庁、総務省、厚生労働省、環境省、それに防衛省の関係者がチラホラと目に付く。一部のメンバーについては顔なじみの可能性が懸念されたので、庚の脚は慎重になった。
ただでさえ男の比率が多い会場だった。庚はその中ではやや目立つ。状況があまり味方してくれないことを察した彼女は、とっさに作戦を変更した。あくまで今回の任務は偵察であり、望月サヤカを含むマルタイ(※対象者のこと)の動向を捉える目的がある。
だとすればこの場に長居することや周囲の参加者とコンタクトを取ることは決して上策とは言い難い。彼らはしょせんは招待された側であり、誰が何を取り仕切っているかなどまるで検討も付いていないのだから。
庚はなにげなく、ウェイターのひとりに声を掛け御手洗いの場所を尋ねた。
言われた場所は、会場から外に出た廊下側──フロアでいうところのバックヤードに近い。ふと、これはしめたと思い、気配を消しながら、フェードアウトするように会場を忍び出たのだった。
その時、時刻は午後八時九分。
※
皇重工第四支社ビル。
新宿という街は、宗谷紫織のような少女にとっては、若者が背伸びをするための場所であった。それにしたってふだんは渋谷や原宿と言った場所があるため、よほどの用事がないか、それともそこに住んでいるかしない限りは所詮はませた人の遊び場、と言ったところである。
その中でも西側は、若者にとっても縁のない場所だった。
専門学校の校舎がある地区に関しては、または都の催しに参加したことのあるものについては、多少の縁があるかもしれない。
しかし紫織の人生において、そのどちらも無縁のものである。
「ほんとにここで合ってるの……」
前回は歌舞伎町だった。だから気軽に行けると思っていたのだが、アクセスマップを確認すると、やはりこちら側で合っている。
不安と予測が入り混じりながら、紫織はついにエレベーターに載る。
ボタンを押す。高層階への進む時に起こる耳を塞ぐような圧が、緊張と相まって重くのしかかる。スマホの時計は午後七時五十五分と表示されていた。
着いた。ドアが開いた。そこで広がる世界は、紫織のような子供にとっては未知の世界だった。
いちおう、この間の服選び以来、全く初めての場所に向かうにはきちんとコーデを決めてから出かけるようにしている。
黒のカットソー、サーモンピンクのワイドパンツ。そしてショルダーバッグと黒のキャップ帽。ふと通りがかった廊下の鏡を見ても、なんだか自分ではないみたいな、まるで夜の舞踏会に出かけるシンデレラの心地がするのだった。
だが、シンデレラにはなりきれない。
顔の左半分。どれだけ髪で隠しても、見え隠れするケロイドの醜い痕。
これまで買い物の時も、ここへの道中、電車の中から道行く人からも、通りがかりに二度振り向かれることがしばしばあった。酷い時はゲスの勘繰りのようなまなざしでジロジロと見つめてくる。気付かないと思っているのだろうか、わたしは見せ物じゃないのに……針のむしろを歩かされるような違和感と苦痛が、絶えず視線から感じてならない。
たったひとつ、アクシデントによって獲得した目立った負のシンボル。それがこんなにストレスの種になるなんて思いも寄らない。
ほっといてくれても良いのに。わたしは別に〝可哀想〟でもなければ、〝悲劇のヒロイン〟でもない。どこにでもいるふつうの人。傷付いて立ち直るのに苦しんでいる、けれどもそんなの誰にだってあるんじゃないの?
朝起きて、瘢痕を見るたびに憂うつな気分になる。これがいつか覚める悪夢だという考え方はとうの昔に消え去っていた。時間が物事を解決するだなんてまるっきりのウソなのだ。すべてがうやむやになることが何かの解決につながると思い込んでいる人間は、その問題の起爆装置が単に時限式に変化したことを察知しないだけだった。
先送り。放置。タイミングすらも測れなくなったさまざまな問題は、常に不測のトラブルとして連鎖反応を起こす。時効なんて決して起こり得ない。
それが誰の目にも明らかなのにも関わらず、見て欲しくないものだってある。むしろ問題の本質はその誤解のしようのない事実の奥や裏にあるものであったりするものだ。
にもかかわらず、人は傷痕しか見ない。それが塞げば何かが終わったと錯覚する。違うのだ。見えない系譜の中にこそ、どうどうと嵐の予兆が埋め込まれている。その種は勘違いと見当違いの優しさで黒々とした憎悪の芽を密かに育んでいるのだった。
「……宗谷さん?」
ふと、声を掛けられる。振り向くと、寿遼の姿があった。
「あれ、寿くん」
「きみも、手紙もらったの?」
手紙。この会場への招待状。
「うん……えっ、じゃあ寿くんも」
「あれから少し頑張って、上位に上がったんだよね」
「わあ、すごいね」
「いやあ、事実上一位の人に言われても説得力ないけどね」
他愛もない会話。
「というか、ここ凄いよね。なんか、正装の大人の人ばっかりで」
「うん。ぼくたちはあっちじゃなくて、こっちなんだって」
指差す方は、廊下側。バックヤードと思われる影の入り口である。
「いいの? なんか変なのだったりしない?」
「表彰式みたいなもんなんだって。だから、いきなりどうこうというより、ゲストとして色々あるみたい」
「へえ」
上の空。まだ自分が夢の一部なのではないかと錯覚する。
ぎゅっ。服の裾を握る。思わず髪をいじる。見られたくないものを覆い隠すように、左側を庇う癖がついている。
寿はそれに気づいていたが、あえて何も言わなかった。
「ホラ、行こうよ。運営の人と話せば少しは緊張もほぐれるって」
さりげなく、手首を取る。抵抗のないことを確認し、彼はそのままエスコートして行った。
時に、午後八時十分のことであった。