4.E20 中央道の決闘
遅かった。あらゆる判断が後手に回った。尾行は一般車に阻まれ、先回りしていた道路封鎖は完了前に突破された。むしろ中途半端な出来栄えのせいで、余計な渋滞を生んでしまったと言っていい。
かろうじてそれらを通り抜け、不要な一般人が割り込む隙も無くなった頃には、けっこうな差があっただろう。その差はいま、吉田の運転技術で取り返そうと足掻いている。
「さすがにこれはわたしたちの責任には問われませんよね?」
《そうだな。しかしわれわれ全体の責任問題として、減俸にはなるかもしれん》
「世知辛いっすね」
《まったくだ。津島というヤツ、そうとう切れるか、じゃなければもっと強力なバックグラウンドを持ってるかのどちらかじゃないのか?》
「──後者に今月の給与を賭けても良い気分ですよ、もう」
《奇遇だな。おれも同じほうなんだ。これじゃあ賭けは成立しないな》
皮肉のつもりだったのだが、平田はどこ吹く風だった。これ以上イヤミを返したところで虚しくなるので、そろそろ舌鋒を納めることにした。上司に対しては。
「大丈夫ですよ。吉田が反対側に四倍張るって言ってますから」
「へ? なに? なんですか?」
「良いから黙って運転してな!」
スマートフォン越しにため息が聞こえる。
《やれやれ、悲しい部下を持っちまったようだな。おれは上司として、きみにパワハラの忠告をしなくちゃならないんだが》
まじでなんなんだこのひと。
そう呆れているのも、いまのうちだった。
「なんか来ます!」
吉田が叫ぶや否や、フロントガラスに何かが飛び込んだ。
こぶし大の雹でもぶつけられたかと思うような、凄絶な衝撃が襲ってくる。脳の思考が掻き乱される。ドラム缶の中に閉じ込められて、周囲からばんばんと叩かれているような、絶え間ない音の連鎖が起こった。悲鳴と奇声が交互に繰り返す波状攻撃だった。
「ハンドルそのまま! ブレんじゃねえぞ!」
とっさに助手席の窓を開けて、上半身を乗り出した。すると、折り鶴が恐ろしい速度でフロントガラスに集中していくのを目の当たりにしたのだった。
その一体一体が車の直前で一枚の紙に戻り、正面を覆い隠している。
「吉田! 窓を洗え! コイツら紙だ!」
「了解です!」
庚が身を戻すのと、洗浄液が噴き出すのがほぼ同時だった。吉田はワイパーを高速にして、フロントを覆う存在を拭った。
どうした、という音声に対して、庚は早口で報告する。
「攻撃です。奴ら仕掛けてきやがった」
《わかった。きみを呼んだおれの判断は正しかったみたいだな》
「えらそーに。せめて傷害手当と残業代ぐらいは出してくださいよ」
返事を聞かずに通話を切る。
いよいよ正念場だ。
庚はこのとき、初めて私服でデニムパンツを着ておいて良かったと感じる。これでスカートだったら目も当てられないザマだっただろうに、しかしかと言ってあまり嬉しいわけでもなかった。
諦めの境地で、バッグから直し用の口紅を取り出す。最初にそれを自分のくちびるに当ててから、自分の手のひらとスニーカーの底に押し当てた。かんたんな呪文を書き込む。
もう一度、窓を開けた。吉田が叫んだ。
「また来ます!」
「わかってる!」
まさに秒読みで、雲霞のごとき折り鶴の群れがやって来ているのだ。
庚はその類いまれなる運動神経を発揮して、車両の上部に這いあがった。ふたたび紙の群れがワイパーのもがくさなかに飛び込むが、今度はその針の動きにからんでいく。庚が読んだのはこの展開だった。相手はただの紙じゃない。彼女の目に狂いがなければ、呪符を折ってつくった式神に相違ないのだ。
猛烈な風に煽られながら、彼女は車体の上部に腹這いになった。さきほど描いた呪文「引力自在」の力のおかげで、車体にからだが吸い寄せられ、空気抵抗にからだが持っていかれないようになっている。
だから、式神どもが状況を理解するよりも早く、車体を呪詛から守る結界を作らなければならなかった。
描くのは、降三世明王の力。
「ウン──!」
描いてすぐ、手を合わせる。ぱんと鳴った途端に風の音が一瞬だけ、止んだ。
しぶきのようにばらばらと紙が飛び散る。その向こう側に、ようやく自分たちが追いかけている車を見いだした。
吉田の声は聞こえなかったが、さらに加速するのはわかった。庚は身をかがめ、腹の底からみなぎる自身の妖力にあらためて想いを馳せた。
猿神の力。一説には猿田彦。神の使いである動物の権能を分け与えられた彼女の異能は、身体能力の圧倒的な強化に分類される。
それはいままさに時速一六〇キロメートルにも及ぶ高速の車上に立ち、強風の煽りもものともしない体幹と脚力にも影響した。
庚は運転席の窓を小突いた。
「吉田、目標まであとどれくらい?」
「二十秒ください! あとは飛び乗るなりなんなり、好きにしてくれればッ!」
十九。十八。うなずいた。十七。十六。
十五。身を起こす。十四。右脚を低くする。十三。遠目だが前方車両のバックナンバーがはっきりと見える。十二。左脚のバネをたわめる。十一。間合いを見計らう。
現在の中央道には、自分と相手の二台しかいないはずだった。風が強いせいで、ほかの存在に気づけないことが惜しい。せめて擬神器を持ってくるあいつがいれば──しかし、いないものをアテにしたところで仕方ない。
七。六。五。四。三。二……一。
飛んだ。力の限り、まっすぐ。
前方の車両に張り付くがごとく着地するなり、即座に運転席のドアを無理やり開く。この状況で相手を黙らせるには、力づくしかないと踏んだのだ。
ところがその目論見は外れる。運転席に座っていた人影は、マネキンにすり替わっていたのだった。
「なッ──!」
目が合ったとたん、マネキンはハンドルを手放し、庚のほうに飛び込んだ。
とっさに避ける。マネキンは路上に叩きつけられ、バラバラになった。車内には誰もいない。コントロールを失った車は速度を緩める間もなく暴走し、対向車線のガードレールに向かって飛び込もうとする。庚を張り付けたまま。
庚は激しい危険を覚えた。
とっさに身を剥がし、車体から飛びすさった。おかげで燃えクズのスクラップになることは避けられたものの、アスファルトに受け身を取る余裕はもう、ない。
猿神の力で致命傷にはならないかもしれない。しかし、絶対に痛い。つかの間庚は傷害手当がいくらになるかを勘定していた。
だがそれも取らぬ狸の皮算用だった。
バイクの音が、彼女の背中を受け止めたのである。
「オマタセ、シマシタ、庚サマ」
もとがバイクだったであろう、等身大ヒト型ロボットが庚をキャッチしていた。だがその外見はカマキリにも似ている。緑色のボディをベースとしたその存在は、鎧侠霊と呼ばれる付喪神の一種だ。
「虎落丸……」
そう呼ばれたそれは、きっと人間だったらしたり顔をしただろう、かくのたまった。
「ひーろーハ、遅レテヤッテクル!」
しかし庚はお姫様抱っこに甘んじるような人間ではなかった。さっさと立ち上がり、虎落丸をはたき倒したのだった。




