15.落ちて、墜ちて、堕ちて(1)
大国忍は大きくのびをすると、ため息を吐いた。可能な限りの連絡はした。これ以上の接触は勘付かれるからできなかった。頼りない後輩だったが、平田ならきちんと受け取ってくれるだろう。そう思っての判断だった。
場所は渋谷である。スクランブル交差点の雑踏と、ひっきりなしに抜けては生え変わる乳歯のようなビル群。怪獣がいてもいなくてもこの街の光景は常に変わり続ける。それは維新以来担わされ続けたこの国の宿命を十倍速でエンドレスリピートを掛けているみたいだった。
忠犬ハチ公。そのブロンズの眼は、過去のあらゆる変化をいまもなお記憶し続ける。
銅像が視ている視線の先──緑の車両の待合室に腰掛けて、大国はただただぼうっと雑踏を観察する。国民的な放送局の街頭インタビューのカメラマンや、ここ二、三年で目立って来た自撮り連中がうろつくこの頃、動画撮影でもあるのか、やたらとG-Proのカメラ持ちが気になる。彼らは世界的な動画サイトに自作の動画をアップロードして収益を上げているらしいが、大国のような隠れることを主とする仕事にとってはあまりにも危険な存在だった。
常に撮影される街。自意識過剰の街。その肥大化した自意識は、常に誰かのプライベートとプライバシーを喰らい合う。さながら自ら尾を喰む巨大な蛇のように、世界の輪郭を決定しつつも、この世の矛盾を露呈する。
ふと、緑の車両の端からコスプレをした若い女が入ってきた。獣人めいた、手足に肉球を付けて強調したものに、ウサギの長い耳を再現したカチューチャ。これでプロポーションを強調した服と網タイツを穿いていたら紛れもなくすすき野辺りの店に立つバニーガールだったが、あいにくそんな露出をこの街は好んでいない。
あくまで盛ったファッションとしてのコスプレ。見せ物でありながら本心素肌は見せない。ホンネとして加工されたメッセージ。通俗的親近感に根ざしたぶっちゃけのパフォーマンス。この骨肉相食む様相こそが渋谷の軽薄さの正体である。
「イベントやってますー。良かったらぜひ!」
下手くそな客寄せ文句でイベントカードを配っている。ときどき居酒屋でエナジードリンクやタバコを売り歩いている人がいるが、彼女はその類いのように見えた。
しかし女が大国の手前に立ったとき、少しだけ声のトーンが低くなった。
それで、うっかり注意を惹いた。
「ぜひ」
にこっと微笑む。その手元には色の違うカードがあった。
受け取ると、QRコードだけがある。
顔を上げる。すでに女は緑の車両を降りてどこかへ去っていた。相変わらず下手くそな客寄せ文句を繰り返しながら。
中途半端に目立とうとすること。そしてちっともウケないこと。これこそが現代的な隠遁の術なのだった。
スマートフォンで指定された場所を読み込む。そしてそこへ移動すると、今度は顔の見えない男がいた。
グレイのパーカーをフードから被り、サングラスと黒マスクを着用している。
「ご無沙汰だな」と大国。
「……おれは認めないからな。雑面法師様はおれの方を信頼している」
「まぁ、そこは年の功ってことで」
「よく言う。どこの手先かはだいたい検討が付いているんだからな」
「おお怖い怖い」
大国は苦笑する。
「で、これはおそらく、その法師様のお話らしいけども、どうなの?」
「察しが良い。頭もよく回る。ああ、くそ。だからきさまは気に食わない」
「好きにしてくれ。いちおう弊社は実力・成果主義を採択しておられるわけだからな」
「なるほど。ではここでおれがきさまを殺せば、その座はおれのもの、というわけだが」
「やめてくれよ。ちょっとしたブラックジョークだって」
「まあそうだな。別にきさまが〝巫女〟の指示受けになったのは、運が良かっただけではあるが」
「上司ガチャってやつ? やだね、最近の若いのはなんでも運とか巡り合わせで片付けちゃって」
キッと、サングラスの奥で疼く憎悪の炎が、うっすら漏れた。しかし軽い舌打ちをして、男はその感情を引っ込めた。
歩きながら話そう、と提案する。大国はそれを断る理由がなかった。
「──本題だが。例の会合がどこかから漏洩したらしい」
「なるほどなあ」
「しらばっくれるな。しかし、この件についてはきさまは関係ないのはわかってる。内閣調査室の連中だ。猫井という名前だったか……あの犬神憑きがコソコソ動いてたのが、ようやく網に引っかかったのさ」
「その件ならおれも知ってる。残念ながらもうひとりの手練れの介入を受けて、逃げられたとか」
「そうさ。しかし、おかげで内通者を潰した。こっちはまだ見つかってないからな。奴ら作戦が筒抜けだとも知らないよ」
クックックッと、押し殺した笑い。
「しかし、筒抜けならわざわざ出番が回るかね。セレモニーより重要なことはいくらでもあるじゃないか」
「あいにく法師様はそうお考えではない」
「というと?」
「おっと、それ以上は言わせるな。きさまの実力は信用しているが、心まで預けたつもりはないからな」
「それはお世話様」
しかし本当は言いたくてたまらないのが見て取れる。実力主義など、しょせんは手柄の取り合いと、相手に心を明かさない隠蔽工作の横行しか招かないのだ。
これで下克上が起こらないのは、ただひたすら〝雑面法師様〟の持っている圧倒的な頭脳と行動力によるものだった。高度な実力主義とは、突き詰めれば圧倒的覇者による独裁制に他ならない。
「それで?」若干苛々した声で尋ねる。
「ああ、そうだな。要するに、だ。次のセレモニーで、ついに魔家四将を集める、とのことだ」
「……マジ?」
『リマインズ・アイ』のハンターとして実働するメンバーのうち、もっとも実績の高い不動の上位四名がいる。その人物を、うちうちで「魔家四将」と呼んでいる。
世界の影の四方位を守護し、暗黒の秩序を司ると言う、いわば闇の四天王──
その順位とは、
魔礼青。
魔礼紅。
魔礼海。
魔礼寿。
もちろん上から順番に、である。
「ほんとうだよ。法師様はセレモニーのテーマを変更されたのだ。きさまも来てもらわないと困るな。なにせ、巫女の指示受けなんだからね」
「いやいや、わたくしめは天下次席の魔礼紅どのには敵いませんや」
「謙遜を。やはりきさまは気に入らん」
「仕事に私情を挟むのはNGだろ。とにかく指示はわかった。おれも行けば良いんだな?」
「ああ、そう言うことだよ」
「わかった。わかった。じゃ、当日またな」
大国はそう言ってさっさと次の信号で別れ、代々木公園の方へ去っていった。
その背中を見ながら、男──土師清巳は歯ぎしりする。
「よく言うよ、魔礼青どの」
※
「えらいわよねえ、紫織ちゃん。まだ高校生だっていうのに」
「いえ、べつに……」
「でも、ほんとにしんどかったらいつでも言って良いのよ? お姉さんいつでも紫織ちゃんの味方だからね」
「ありがとうございます」
デイサービスの係員との世間話を終え、父が無事バスに乗るのを見届けると、紫織の顔は翳った。
これからやることを思い起こすと、げんなりする。
まずはずっと洗ってないベッドのシーツを洗濯して、常備菜を作って、ああ、部屋の隅に掃除機を掛けて、それから、それから……ああ、そうこうしているうちに日が暮れて、一日が終わる。
わたしの時間が無くなっていく。
宗谷紫織はまたしても己の不遇を呪いたい気分になっていた。掃除、洗濯、ご飯……デイサービスの送り迎えといった繰り返しの中で、ふと我に返ることがある。
なんでわたしがこんなことをしなきゃなんないんだろう──と。
それまではごくごく普通の女子学生だったはずだった。その生活はどこで軌道が逸れたんだろう? そして元の道に戻る道はいったいどこにあるんだろう?
全ての家事がその場しのぎだった。大きな穴のあいた船に、せっせと蓋をするような重労働──応急手当ての連続のような日々。たまの外出も、帰ってきてはただの思い出。せっかくのおしゃれも、お披露目する場がないまま塵埃を被っていく。
もっとしなければならないことがあるはずだった。
学校──いや、あそこは誰も味方じゃない。
勉強──そんなことをしてどうなるんだろう?
お金──お金はたぶん必要だけど、いまさらどこからどうやって稼げばいいんだろう。
だからと言ってゲームに逃げ続けていいわけでは、決してなかった。
辛いことがあったら逃げても良いんだよ。嫌なことがあったら辞めても良いんだよ。苦しいことがあったら違う場所に去れば良いんだよ。そこで心機一転できるはずだから。まずは自分を大切にしなさい。いろいろな優しい言説が、すでに世の中に出回っている。紫織もそうした答えをたくさんネットで見かけた。近所付き合いで悩みを相談して、同じような言葉をもらった。
ところが、そんな明快な答えは決してその背中を押してはくれない。
違う。答えなんて最初からわかっていたのだ。行動規範における正解。ところがそんなものはまるで道徳の教科書みたいに退屈で、ちっとも心を動かしはしない。紫織はそんな小学生でも答えられるような回答を求めていなかった。
だから、何度も愚かな疑問符を所構わず貼り付ける。回答者はさまざまだった。ネットの誰か、友人とか、マンションの人とか。
Q.死にたいです。
A.死んではダメです。生命はあなた一人の所有物ではありません。
Q.学校に行きたくないです。
A.学校に意味はありませんが、学校に行かないと社会人への道は狭まります。この国はなんやかんやで学歴社会なので。
Q.やりたいことが見つかりません。
A.いつかきっと見つかります。それまではなんでもやってみなさい。
どいつもこいつも、浅い人生観をひけらかして、人の役に立ったつもりでいる。
この世には悩みの数だけ人を救いたいという欲がある。むしろ、自分が何者でもないということに対する渇望がある。イギリスの政治経済学者が「見えざる手」と名づけた他者への無意識の配慮は、この渇望の裏返しに他ならない。それはインターネットという不特定多数と同時接続するデバイスを通じて、所構わず漏水する廃屋のような文明の様相を示してしまった。
人生相談とか、助言とか。そんな利他的な振る舞いは、突き詰めればせめて隣人や友人に対しては自分が何者かでありたいという、最もくだらない欲求不満のぶつけ合いではないのか。
じゃあ──と自問自答する。私はいったいどんなふうになりたいの?
ぎゅっ。この質問は自分でしておきながら、すればするほど苦しくなる。小さい頃ねがったさまざまなものが、いまとなっては叶わないことばかり。あるのはただ一家族分の苦しみと孤独。それをひとりで引き受けるという現実が重苦しく、背中にのしかかる。
考えて、考えて、考えすぎて、結局目の前の問題を処理するだけでまた一日が終わった。
帰宅した父を迎える。介助しながら部屋で寝かせると、他愛もない雑談をして、散らかった部屋を片付けて、おやすみを言った。
ばたん、と扉を閉じる。なぜか意味もなく涙を流した。
どうして。誰も悪くない。誰もが優しい。けれどもそれがかえって息苦しい。まるでゆっくり真綿で首を締め付けるみたいに、優しくて将来を見据えた、それでいてどこか薄っぺらい言葉で埋もれていって……わたしはどんどん透明になっていく。
せめて誰かを徹底的に憎めれば、まだ良かったのに。
空は夜でも曇りがちだった。しかしこの時ばかりは月明かりが、そっと彼女の傍らにたたずんでいた。
ひとしきり泣いた後、ズキズキ痛む左顔を押さえて立ち上がる。
見えない左眼。しかしそれは絶えず光を探し求めている。
ふと、充血した右眼がテーブルの上に放り出したチラシの山を捉えた。
ポストに入っていたものだった。どうせ近所のスーパーの安売りや不動産投資を薦める見当違いのチラシだろう。ゴミ捨て用の包み紙にしかならないのがわかっていながら、テーブルの上から取り除けようと試みた。
とたんにするっと、隙間から落ちた紙切れがある。
視界が霞んでよくわからない。足を止め、拾う。古典的な手紙。宛先のない書面である。表と裏を交互に見返し、とりあえず真鍮のペーパーナイフで中を開いた。
封筒から出たのは、なんてことのない三つ折りの用紙である。開くと、明朝体で印刷された祝賀会の案内状がそこにはあった。
しかも、宛先は宗谷紫織本人である。
「人違いじゃ……」
思わず目を擦る。しかし、紛れもない。誤植でもない。
おまけに場所も場所だった。皇重工と言えば、この国でも指折りの歴史を持って君臨する大企業グループではないか。そんな支社ビルの一角でのパーティーに、紫織が──つまりなんてことのない女子高生が招かれるいわくなんて──
あった。
「『リマインズ・アイ』選抜イベント……」
書類にはこうある。ゲームの上位十名で、かつ特別なミッションをこなした人間だけがこの会場への招待状を受け取ることができるのだ、と。
ぎゅっ。紫織は書類を握る手が、強くなったのを自覚した。