6.孤独なアリスたちへと献げる手紙
「ただいま」
その言葉は誰もいない部屋に響いた。静寂が谺のように跳ね返ってくると、宗谷紫織は急に自分が一人であったことを痛感する。
父は、いない。その事実に、どこかホッとしている自分に気づいて、紫織はさらに慄いてしまった。
ぶるっと身を強張らせる。
そんなこと、しなくていいのに。
結局あのあと夜九時ぐらいまでワイワイとファミレスにたむろして、さすがに明日休みと言ってもヤバいよねって話をして、夜十時ぐらいには解散した。
帰りの電車では、いつにもなく興奮した気持ちが、腹の底でくすぶっていた。こんなに話したのは久しぶりだった。笑って、しゃべって、自分の見かけが気にならなくなるぐらいまではしゃいで……
そういえば、あの時持って行ったお面はどこにやってしまったのだろう?
紫織は忘れ物をしていたことすら忘れていた。もしかしたらあのアトラクションに置いて行ったのか……それとも、カラオケか、ファミレスか……いや、あの時にはもうなかったような気がする。あれこれ思い返してみるが、いつのまにかすっかり手放してしまっていたことに驚いた。
あのお面は──そもそも、どこかの縁日で買ってもらったものだった。
小さい頃よくお正月に詣でに行った神社で、夏休みの時期に開かれる縁日……赤い提灯明かりに照らされた参道に、居並ぶ電気灯と屋台、焼きもの粉物ソースの匂いが香る中を、背伸び心で着付けた浴衣。綿あめとリンゴ飴の両方が欲しくて、でもどっちか選びなさいと言われて泣いたあの夜に、父が申し訳なさそうに指差したのがお面屋さんだった。
母は苦笑していた。まだ、家族が紫織の目から見ても天真爛漫で、美しく丸く収まっていたように見えたあの頃のことだった。
なぜその時〝おかめ〟を選んだのかは、いま思い出しても理解不能だった。
もっともあの頃何を思って何が好きだったかなんて、根拠のない、デタラメなものだったようにも思える。ただ丸っこいからとか毛むくじゃらでフワフワしてそうだとか、そういう輪郭から雰囲気に至るまでの、いわゆる表面から五ミリメートルぐらい離れたところにあるものだけで人の気持ちは判断する。幼い頃は特にそれが顕著だった。だから、たぶん紫織もその例外に漏れない。
ただ、紫織は特に〝そういうもの〟を判断する感覚が人一倍強かった。
よく言われたものだった。小学生の頃から、「紫織ちゃんはほかの人とは違うものが見えているようです」と、通信簿の備考欄に。これは言葉のあやでしかない。担任の先生にとっては、独自の感性と独自の視点を褒めているだけのことで、脱ゆとりから独自の創造性を鍛えると称した一連の教育の変化にとってはむしろ歓迎すべきものだった。
ところがそれは、本人にとっては──同級生にとっては、言葉のあや以上のものがあった。現に紫織が既視感を覚えること、逆に未視感に移り変わっていくことは、周知の事実でもある。だから普段怯えなくて済むことに新鮮な恐怖感を覚えるし、みんなが驚くようなことを知っているかのように落ち着きをはらって受け入れてしまえる。
この錯綜が、果たしてほんとうに〝良いもの〟なのかどうか、紫織にはわからない。
おかめを探すのは諦めた。汗がじっとり付いた服を仰ぎながら、スマートフォンを見やると、作ったばかりのグループにたくさんの通知が来ていた。「おつかれー!」「楽しかったー!」とか「アルバムが作成されました」とか、そういうのがたくさん。
その中に安代麻紀からの個人宛のものが混じっていた。
《ねー、》
《今度服買いに行こうよ》
《アルバム見て思った。紫織もっと可愛い服あるって!》
ふふっと顔がほころぶ。少し左側かひきつったような気がしたが、喜びが勝った。
《ありがとう》
《じゃあ今度教えて》
返信する。既読がつく。
《おっけー!!》
《じゃ、来週の日曜で!》
今度は日曜なんだ、と思った。ただ、これでマキが学校サボらなくて良かったな、とも思った。そんなこと当たり前といえば、当たり前なのだけど。
ひと通りのやりとりを終えて、またSNSを確認する。かつて学校に行っていた時は鳴り止まなくてノイローゼになりそうだった通知も、人付き合いがなくなって、孤独になるにつれて、消えた。不登校になるのに併せて通知設定を切っていたこともあるから、気がついた時にまとめてやって来る余計な企業広告や、悪意のあるメッセージとか、逆に参加できもしないのにやけに賑わって見る気も失せるグループの通知で目がいっぱいになって、疲れてしまうことも少なくない。
それでも紫織は、なんとなくまめな気持ちから、定期的に通知の整理をする。マキなんか赤いバッジ通知に876件もの未読を溜め込んでいて、「そろそろ四桁だわー」とか言ってへっちゃら笑っていたというのに、紫織は気にしないようにしながらもどこかで気にしているのが隠せないでいる。
その中に、ふと登録した覚えのないアカウントからのメッセージがあった。『リマインズ・アイ公式』。なぜそんなところから? と思ったが、アトラクション参加時にQRコードを読んだから、きっとその時なのかもしれない。
通知を切ってから、中身を見る。公式からの配布やイベントの告知だったら見てみようかな、そんな軽い気持ちで──
「スペシャルステージ……『兎狩り』……?」
思わず画面をタップする。少々の読み込み時間をもどかしく思いながら、ようやく開いたページを閲覧すると、やっぱり例のアトラクション参加組にのみ許された特設ステージだというのである。
「すごい。みんなもやってるのかな」
概要を読む。プロローグでは現実に退屈している女の子が、小学校のウサギ小屋から動物を逃すという悪戯から始まる。しかしそのウサギは人知れず公園や林に逃げ込んで、行方をくらますのだ。すでに女の子には責任を取ることはできない。
しかも同時期に夜な夜な大人たちの不自然死が多発する。事件は決まって夜起こる。時に首切り、時に失踪、そして時には意識不明の重体に。うわさはうわさを呼び、女の子の事件に絡んで多くの人を困惑に陥れる。たかがウサギ。されどウサギ。果たしてその怪異の正体やいかに?
各プレイヤーは現実世界の位置情報を重ね合わせ、スクロールで擬似的に移動しながら、ストリートビューとカメラ機能を借りたVR視覚を通じて〝ウサギ〟を見つける。それだけではなく、孤立に追い込まれた少女を手助けし、彼女を日常に帰すように努力せよとのお達しだった。
紫織はさっそくこのミッションに飛びついた。地図アプリと連動し、スクロールとズームを使い分けながら、自分のチーム・キャラクターをあちこちに配置する。指示を出してから達成するまでの移動時間中、通知を切ったばかりのグループにいまやってるシナリオについて報告する。
しかし既読は一件だけだった。
マキは寝ちゃったか、それともお風呂入っちゃったのかな。アキラくんと寿くんは仲良さげにしてたし、あのあと二人きりで夜遊びでもしてるのかもしれないけど──
とにかく返事はないままだった。仕方なく紫織はゲームに戻る。
モデルとなった小学校は練馬区にあった。しかし事件は時系列に沿って次第に範囲を広げており、いつしか西東京と副都心へと軸を移しつつあった。ふたつの地域で同時多発する無差別殺人……この流れの中に、紫織はめいっぱいの思考をめぐらす。
地図に広がる無数の点、点、点……それがまず時系列に沿って線としてなぞられ、複雑怪奇な図形を作る。全体としては練馬区から端を発した三角形の斜辺にも見えなくもないが、それだけでは〝ウサギ〟の行動に法則性は見えない。
しかし拡大すると、余計に線は複雑化し、より状況が見えづらくなる。
だから紫織としては、すぐに判断を下すのは良くないと思った。
ふと、自分のチーム・キャラクターの報告を確認する。この世界観ではプレイヤーはオペレーターであり、自分が指示を出して配置させているのはハンターに当たる。彼らは現地に行って、事件がないかを確認する、という設定だった。
つまりキャラクターを配置すればその地域の、リアルタイムの情報が取得できるということでもある。
特に紫織が当てにしているのが『シノブ』という名前のベテラン・ハンターで、レベルもスペックも高い槍使いでもある。
プレイヤーは常にガチャと呼ばれる仕組みで、時に課金し、概ねは運任せで、自分の従えるハンターを揃える。紫織はその当初に全く思いがけずに『シノブ』に当たり、そのことによって他の人よりも遥かに攻略が容易くなった。
このことを話すと、マキやアキラが心底羨ましそうにしていた。しかし聞くところによると、この『セレクター』という仕組みには、一定のレベル以上のハンターに関しては各プレイヤー間では決して重複しないといううわさがある。
現に『シノブ』は二人といない。類似したスペックやレベルのハンターはたくさんいたが必ずどこか異なるし、移動範囲に独自の制約がある。だから『リマインズ・アイ』というゲームは、全てのプレイヤーにとってオリジナルなプレイ体験になる、という仕様なのだった。
ぴこん、とゲーム内での通知が鳴る。
《現在新宿方面には、〝ウサギ〟はいないようだ──》
『シノブ』からの報告があがった。探索スキルが最高レベルのこのキャラクターでもその程度だった。
これ以上探しても埒があかないと判断した紫織は、今日のゲームを諦めた。解散を指示して、スマートフォンを充電器につなぐと、はあとため息を吐く。さすがはスペシャルステージ。難易度も、自由度も、これまでとは断トツに違う。
ぎゅっ、とこぶしを握る。
今日の楽しみは終わった。でも、明日の楽しみがある。
それがわかるだけでも、紫織はまだ希望を持って寝る支度ができたのだった。