3.その女、危険につき
津島実次は焦っていた。ハンドルを握る手の汗がいつまで経っても引かない。二分に一回はバックミラーを覗く。奴らは執念深く尾行てきている──
「くそッ! 話がちがうじゃないか!」
身柄の安全は保障されている。そう聞いていたからこの仕事を請け負ったのだ。
もともと小遣い稼ぎのつもりで始めたのである。仕事の愚痴で紙が何枚も貰えるとあれば、最初は疑ってかかってみたが、あまりにもあっけなさすぎて、かえって罪悪感すら浮かばなかった。
なんて安い仕事なんだろう。ストレス発散も兼ねるうえ、聞き手が美人とあれば、この上ないアルバイトだった。
それが、まさかこんなことになるとは。
「大丈夫よ。ちゃんと前を見て」
後部座席に座るおんなの名は知らない。初対面時に望月サヤカと名乗っていたが、いまになって思えば、おそらく偽名だろう。
かく言う彼女は窓を見たままだ。まるでドライブに出かけて外の景色にかじりつく子供のように、楽しそうに対向車線を眺めている。まったく呑気なものだった。
「そもそもわたしが手助けしなきゃ、とっくのとうに捕まってたわよ」
「それはわかってる! おれだって術者のはしくれだ。あんたの力は凄い。けど、だからと言って──」
ふわっと風が盛り上がるような、緊張を緩和する花の匂いが車内に広がった。
「落ち着きなさいな。ほんとうにつまんないわよね、あなたってひとは」
香水瓶を一振りするだけで、津島の不安も怖れもすべてかき消えた。消しゴムで優しくなぞるかのように、その香りはおとこの気持ちを真っ白にしてしまった。
バックミラー越しに、おんなの顔を見る。ウェーブの効いた長い髪。微笑むとより一層深くなる垂れ目がおとこの視線をキャッチし、泣きぼくろを際立たせる。ゾッとするほどの美人だった。こんな女性に声を掛けられると、経験のない男性はみなことばを失う。自分の一挙手一投足が、関係を築きたいという無意識の欲求を暴いてしまうのではないかと恐怖するのだ。
そして、彼女は全身からみなぎるサインを読み取る天才だった。文字通り手玉に取るがごとく、彼女は相手の求めることばを、しぐさを、ふるまいをつくり出せた。
「でも、あなたの仕事ぶりは信じてる」
ごくり、と喉が鳴る。誰あろう、津島自身の生理的欲求に依るものだった。
おんなはその間、にこりともしない。彼女にとって笑顔は振りまくものではなかった。咲きこぼれる直前のつぼみこそが、未然の輝きを期待させうるものだと心得ていたのだ。
津島はすっかりとりこになっていた。もはや不安もよそに、アクセルを踏み抜く。
さて、おんなはというと──
折り紙を弄び始めた。どこからともなく紙を取り出し、素早く折り鶴を生産する。その手つきは手芸のそれにも似て、きめ細かい。
一〇〇。一一〇。一二〇。次第に速度が上がっていく。それに伴って前方の車が敬遠の車線変更を強いられる。見張りの側も必死に加速するが、しょせんは公僕。一般人を巻き込む事故の可能性には踏み切れない。
一四〇。一五〇。一六〇。さすがは国産メーカーの中でも、随一の速さと安定性を自負するだけはある。この国が世界に誇る自動車生産国として名を馳せたのは、もはやむかしのことだったが、それでも一度貼られた美名に酔いしれたいと、願わずにはいられなかったのだろう。そんな車が国益を損なう犯罪者たちを乗せて疾駆する──
おんなは皮肉な気持ちで満たされた。こういうとき、彼女は幸せと呟きたくなる。
ぴー、ぴー、ぴー
棒読みのような警告音が、高速道路に隠れた速度計測器の存在を指し示す。だがそれもつかの間、制限速度を六〇キロ以上のオーバーで、彼らの車はハッキリとその存在を世の中に開示した。
窓を開ける。突風が、容器からなみなみとあふれる水のように車内に流れ込んだ。足元から塵芥ともども、無数の折り鶴を掬い上げると、大きく開いた窓の外へと飛び去る。紙の鶴たちは、清冽な風に揉まれながらも、紛れもない意志を抱いて前後に進路を取ったのだった。
「さあ、茶番の始まりよ」
そのおんな、危険につき──御用心。