4.あなたはひとりじゃない
一度我慢すると決めたら、金曜日は案外早く来るものだった。
父にはよく話して、デイサービスにお泊りに行ってもらった。ふだんから世話になり続けている手前、嫌だとは言われるわけもなく、案外サクサクと体制は整った。あとは自分自身の過去と、それを想起する顔の左半分をどうするかというだけの問題だった。
宗谷紫織は左の髪を手櫛で上げ、改めて鏡を見る。落ち窪んだかと思われるような左目と、一部が融けて変形してしまった耳。毛が生え揃わず、頭頂部からのワンレングスで誤魔化しているケロイド状の頭皮。などなど。
その多くは髪を下ろせばかなり隠れる。しかしそれは第一印象として隠せるというだけであって、ファミレスで四人席に座った途端に隣の人にバレてしまう程度の外装でしかなかった。
「どうしよう」
マキは紫織の現状をいちおう知っている。だから差別も同情もしないで振る舞ってはくれている。ただ、世の中のほとんどがマキのような物分かりの良い人たちだけではないのはよく知っていた。
それをわかっていて出かけると決めた。にもかかわらず、いざそうなると本当にこれで良かったのかとためらいが混ざる。
化粧品などで隠せるものなら最初からそうしている。傷が剥き出しのままなのは、治す術かなかったからだ。いや、なかったわけではないが、間に合わなかった。あの時母親が喰い殺される傍らで、ひたすら息を殺して隠れざるを得なかったあの間に、オーブンレンジに閉じ込められたかのような火の手にひたすら耐え続けたせいで。
むしろあの時こそ、逃げるべきだったかもしれない。けれども瓦礫に足を挟まれていたから、どちらにしても無理な話だ。じっとその場にいて、耐える。それが彼女を生かしてもきた。
いくら生き残れたとはいえ、顔に怪我が残ったせいで素直に喜べない。
それはいわば、見たものを驚かす自分の醜い部分であると同時に、鏡を見るたびにトラウマを呼び起こす負の遺産だった。
もちろんどんな障害者手帳やヘルプマークよりも圧倒的にわかりやすく、人の憐憫を買うだろう。事実いまだに紫織のからだの左半分は運動能力が落ちたままで、腕に至っては伸ばし切ることができない。だから、たまに電車に乗る時は席を譲られたり、階段の手すりの側を通してもらったりする。
けれどもそうした親切心と、それを呼び起こす自分自身の傷の深さとは話が別だった。
「ほんとに、どうしよう」
せめて会って二、三時間はふつうの人として接したい。〝怪我をした可哀想な人〟ではなく、〝同じゲームで遊ぶ友達〟としてありたい。共通の趣味・共通の話題で気心知れるようになってから、そっと自分のバックグラウンドを知ってもらえれば、嫌がるなんてないはずだ。だって、マキは昔からの付き合いだったから、わたしの傷を受け入れてくれたんだもの……
ぐるぐると迷走する思考の果てに、紫織は壁に掛けられていたあるものに目を付けた。そしてハッと思い当たって、それを手に取ったのだった。
* * *
「……で、なんでお面なんか付けてるの?」
安代麻紀は困っていた。ひさびさに小学校時代の友人と再会したと思ったら、都心部の駅中で堂々とおかめのお面を被っていたからだった。
「だって……顔見られたら」
「あー、まあそうだけどサ」
もうちょっとどうにかならんかったのか、とは思う。
マキは、もともと宗谷紫織とは特別仲が良かったわけではない。どっちかというとクラスの端と端にバラけて座っていたぐらいで、月に一回同じ遊びに混ざるかどうかというぐらいの微妙な距離感だった。
しかしマキはある日、宗谷紫織の──なんといえばいいのか……そう、勘の良さというものを目の当たりにして、妙に印象に残ってしまったのだ。
それはやはり遊びの中で見つかった。公園で缶蹴り鬼をしたときのことだ。次々とクラスメイトが鬼に見つかっていく中で、紫織だけが遊具と公園の柵の間に溶け込むように隠れ、鬼の盲点を突いて缶を蹴ったのだ。
いま思えば大したことはないかもしれない。しかしマキはその瞬間、なんとなくだが紫織の気づきの力の強さに驚いた。発想の転換──目の付け所が違うというか。自分にはまるでなかったものの見方が、彼女にはある。それは友情とか、愛情とかよりももっとずっとその人物への興味をそそった。
もっとも、その着眼点の良さは往々にしてヘンな方向に開花するのを、付き合いをしながら思い知るのではあったが。
「もーちょっと、なんかこう、可愛いのとか、探そう?」
「うちにはそういうのないからなあ」
「じゃあ今度いっしょに探してあげるから。もっとおしゃれで可愛いやつあるって」
揚げ足を取っても仕方ないから適当に話題を逸らす。正直言って超が付くほどダサい。ほんとにこれが中学受験をして都内の中高へ進学した〝頭の良い〟同級生なのかと、思わずにはいられない。
あたしと違って東京行ってんだから、もーちょっと見られる服とかセンスとか、あるでしょ。何やってんのさ。なんてこと、思ったって仕方ないのだけど。
「でも今日は紫織来てくれて助かったー。あたし新宿ってそんな来ないから、出口ひとつ探すのでホントにわかんなくてー」
「だよね。わたしもよく迷ったもん」
「あ、紫織でもそうだったんだ」
「いやいや、だれでも迷うでしょー」
けらけら笑う。こうして会話していると、ふつうの同い年なのだ。
「いちおう待ち合わせ場所ってここで良いんだよね?」
「え? ああ、この地下コンビニで合ってる……はず」
「わかんないよ。このコンビニ改札の中と外に二つあるから」
「えっ、嘘!」
「ほんとほんと。まあ、さすがに外側だと思うけどねー」
とはいえ、早く来すぎたせいか、待てど暮らせど、それらしき人物が現れない。
そのうち人混みが酷くなってきたから、コンビニで清涼飲料水を買って待ちぼうけ。互いに好き勝手に飲み散らかしては、むかし話に花を咲かせる。
「でさー、良太ったらいま佳苗と付き合ってんだよ! 信じられる? あんなにいがみ合ってた仲なのに!」
「喧嘩するほど仲がいいってやつじゃないの……?」
「まーそうだけどさー、紫織も知ってんじゃん。殴る、蹴るが当たり前のケンカばっかしてたのに……ほーんとびっくり」
と、他愛もない元クラスメイトの近況を話し合っているうちに、スマートフォンの通知が鳴る。ふと画面を見ると、「着いた」「いまどこ?」とある。
「あっ、来たみたい。いまどこって言われてもなァ」
「そのまま返せばいいんじゃない?」
とりあえずコンビニの名前を書く。
すると向こうも同じコンビニの名前を書いてきた。
「はっ? いないんだけど」
「……あー」
「なに? なんかわかったの?」
「たぶんその人たち改札の中だよ」
「えーっ」
その通りだった。ということで、ようやく彼らは一堂に会すこととなった。
顔の左半分を必死に髪で隠す紫織と、安代マキ。彼女たちが相対しているのは、図らずも自分と同い年ぐらいの男子である。片方は髪を金髪に染めたイケイケな風貌で、もう一方は小柄だが利発そうな黒縁メガネだ。
「初めまして、えーっと……」
「榎本。おれが榎本輝。アキラでいいよ。んで、こいつが友達の寿遼」
「よ、よろしく」
黒縁メガネが首を垂れる。
「じゃあ、わたしたちも。あたしがマキで、こっちが紫織。たぶん、あたしたちの中で一番ゲーム上手いよ、この子」
「へー! 何位なの?」
「あ、や、えっと、こないだのクエストのクリア時間七位でした……」
「嘘ッ! 早ッ!」
「見かけに寄らねーんだな。こういうの興味なさそうな感じなのに」
榎本アキラが感心して言った言葉が、なぜか詩織にはちくりと刺さった。見かけに寄らないって、何? どういうことなの?
「そんなことないよ。榎本くんこそ、ゲーム好きなんだね。もっとサッカーとかしてそうに見えた」
「アキラで良いって。おれ、からだ動かすのも好きなんだけど、遼のゲーム好きが感染ってさあ。案外なんでも楽しめるんだよな」
「へえ。意外」
「そっちこそ、ゲームなんて全然しませんってふうだけど……?」
しどろもどろになる紫織を見て、マキが割り込んだ。
「ああ、それあたしが誘ったの。一緒に遊べる相手がほしくて」
「なるほど。それがいまや、自分より上手くなっちゃったってわけか」
「そうそう。ま、とりあえず立ち話もなんだから、さっさと行こうよ」
こうして四人は階段を登って初夏の新宿東口に出て行った。
慣れない都会の通りを進みながら、あれやこれやとお近づきの会話をする。基本はアキラとマキがよく喋り、ときどき遼と紫織が割り込むか、呼ばれるかして会話を混ぜ返す。それですっかりテンポが出来上がっていた。
歌舞伎町の看板が見えたあたりで、一同は地図アプリとにらめっこをする。
かつては不夜城とさえ言われたこの街も、過去の怪獣騒動でたびたび破壊されている。その復興のためにと当時は建設業界が〝怪獣バブル〟だと報道されていたぐらいだ。
だからなのか、ネットでは怪獣にまつわる国家的陰謀だとか、経団連の放った自作自演だとか、いろんな話題が出回っていた。マキのいる高校のクラスメイトには、そういうギロンが大好きなのが少なからずいて、絶えず話題になっては、「どーせウソだし」とか「面白いこと考えるヤツってたくさんいるんだなぁ」とか、そんなことを思っていた。
「えっ、なに聞こえない!」
ガコーン、ガコーン、と建材を運んだデカいトラックが通り過ぎたせいで、うっかり会話を聞き逃した。
マキがもう一度聞き返すと、アキラが手を招いて、進行方向を指差した。
「ホラ、あっちだよ。そこの横断歩道、渡って」
言いながら、一同はだんだんアキラ主導で歩いていく。
紫織がふと言った。
「そういえば、このオフ会って何やるの?」
「知らないの?」
遼が思わず訊き返す。その目線は暗に誘ったマキへの批判にもなっていた。教えてなくてスミマセンでしたね、とはさすがに言えなかった。
よせよ、とそこにアキラが割り込む。
「マァ見てりゃわかるよ。『リマイ』のアトラクションで、グループ参加しかできない仕掛けでさ。前々から行きたかったんだけど、フレンド登録してる範囲狭かったから、この際SNSで集めたんだ」
「そうねー。あたしもアキラくんとはネットつながりだし」
「えっ、じゃあ金曜日選んだのも……?」
「そう。だって、つまんねーじゃん。ガッコー」
この時、紫織が息を呑んだ。
そしてつぶやいた。だが、うっかり聞き逃しそうになった。
「……えっ。じゃあ、みんな学校行ってるんだ」
ちょうど物音が途切れた瞬間だった。信号が切り替わり、車の走る音が過ぎ去り、雑踏が踏み出す直前のことである。
折しも高層ビルに付いたデジタル・サイネージもCMの繰り返しが入る束の間に、その言葉は放り出された。まるで森の凪いだ湖畔に小石を放り投げたかのような、心理的な波動が一面に広がる。
「まあ、そういうのあるよね」
とっさに答えたのは遼だった。
「誰でも嫌なことのひとつやふたつ、ありますって。それから逃げることは間違ってないと思います」
彼はズレたメガネを直しながら、紫織の左の顔をきちんと見た。
「僕の兄貴も怪獣の被害に遭って、その後遺症が元でいじめられてました。たぶんあなたもそうなんでしょ? でも、兄貴は全部それを隠して隠して、それからジサツしました。そんなことになるぐらいだったら、弱音を吐いて逃げてくれれば良かったのにね。むしろ行かなくて正解ですよ、ガッコー」
「……寿くん」
紫織は恥ずかしそうに髪をいじった。それは左の顔を隠していたが、マキには決してそれが見栄とか虚栄心からきたものではないことだけはわかった。