3.生きながらにして死ぬ
宗谷紫織が不登校になってから二ヶ月が経っていた。
最初はもう二度と行ってやるかという怒りの気持ちが強かったが、時間が経つにつれて敗北感が募っていった。
自分を過剰に守ろうとする煮えたぎるまでのこの気持ちは、結局どこにも行けないんじゃないかという疑問にすり替わる。その疑問に答えるものはいない。いるのは自分だけ。だから延々と自問自答を繰り返し、誰が責めるわけでもなく疲弊していくのだった。
最近の彼女の朝は、悪夢から始まる。
血糊かと錯覚するほどの不快な汗がパジャマを濡らし、その中で溺れるように目が覚める。まだ夢の名残りを引きずっている。
新宿の怪獣事件──この世に怪獣が認知された山梨の事件からわずか二ヶ月後、都内で多くの死と破壊をもたらした、その大災害のことがふっと蘇る。巻き込まれて死んだ数々の人の亡き骸と、おぞましい怪物たちの走馬灯を、振り払うためぎゅっと目をつぶった。
しかし追想にふける余裕は、彼女にはなかった。
「紫織……紫織ッ!」
ベッドから出る。おそるおそる素足を床に付けると、この部屋がリアルに感じる。
まるで水溜まりに靴ごと足を浸すみたいな、不気味な浮遊感。それが彼女にとって、〝現実にいる〟というリアリティだった。
現実にいる間、彼女の呼吸は浅くなる。息を殺し、気配を消し、それでいてなお丹念に周囲の気を窺っている。自分を虐めようと探してくる相手から、身を隠すために。
いま彼女のことを呼ぶ相手は、そうではない。しかしその悲痛なまでの叫びは、彼女にむざむざと辛い過去を結びつけようとする。
「お父さん」
彼女の父は、あの日両脚を使えないものにしてしまった。得体の知れない〝怪獣〟とやらに襲われ、大怪我をしたのが祟ったのだ。
いまは自宅で杖を突きながら、国からの補助金を受けて暮らしている。しかしだからと言って、その生活か安泰なわけではない。
紫織が目の当たりにしたのは、尿にまみれて床に倒れた父だった。
「すまん……まただ。また杖が滑ってなぁ」
ため息を吐きたくなるのを、グッと堪える。首を軽く振り、無理に微笑む。
「もう、お父さんったらそそっかしいんだから」
まずは臭いを構わず、父を抱き起こす。そして浴室に連れて行き、シャワーを付ける。給湯器のスイッチを付けたばかりだからお湯が出るまでの間、服を脱がせて座らせる。手すりがあるからあとはお湯が出次第、自分で身体を洗うだろう。
紫織はその間、臭いのついた衣服を大きなたらいに投げ捨て、ジャージとゴム手袋を付ける。そして父の不始末を片付ける。布類はたらいで洗ってから洗濯機に、汚れが取れないモノはさっさと捨てて明日の燃えるゴミに出してしまえば良い。
父のシャワーが終わると、今度は患部を含めてタオルで拭く。
最初は恥ずかしかったし、向こうもさんざん嫌だと喚いていた。しかしすでにこの生活を続けて長く、補助金だけではホームヘルパーさえも雇えないとあっては、怪我人が怪我人を看護するという体制を崩すわけにはいかなかった。
次第に現実を受け容れるようになると、父の口癖が「ごめんな」とか「すまないなあ」というふうになっていった。初めのうちはうんうんとか、そうだよね、とか適当に流していたがあまりに繰り返されると感覚が鈍磨した。そんなに申し訳ないと思うなら何かやったらどうなの、いつまで娘におんぶに抱っこのつもりなの、と思うこともあった。
ただ、本音を言ったところで何が改善するわけでもない。母は死んだ。身寄りもない。父の足の怪我は治らないし、お金はないし、紫織自身この状況を抜け出す力もない。そうでなくても、自身の左半分を冒したケロイドが酷くて、辛くて、外へ出るのも余計な注目を集めて一苦労だというのに。
こんな生活なのだから、学校なんて行く余裕はまるでない。むしろ不登校になるまでによく行けたものだと思うぐらいで、行くたびに洗えなかった制服のシワや臭いを小馬鹿にされ、煙たがられ、差別されてきたわけだ。
あの時、我慢しきれずに反吐を吐いて、むしろせいせいとした自分がいる。なんだ、最初から行けませんと言えばよかった。もちろんその結果自分が社会から切り離されて独りになっていく感覚に囚われて仕方がないのだけれど、一方で無理してあそこに戻る必要はないじゃないかと割り切る自分もいる。
あそこは自分を歓迎してはくれなかった。むしろイジって、笑いものにして、サッカーボールのようにあちこちに放り出された。
別にチヤホヤもしなくて良いし、褒めてくれなくたって構わない。けれども無頓着に人の傷を突いて笑う人たちを、いくら理屈の上で仲間意識を訴えられても彼女は信頼することができなかった。毎日胃が痛んだし生理も止まった。それでも学校に行かないと未来がないと思っていたから、登校していた。それだけだった。
あの時どうやって父の介護と自分の生活を両立させていたのか、もう記憶がない。
とはいえ、いま学校に行かなくなったからと言って決して楽になったわけではない。むしろ向き合いたくなかった現実と対面するようなものだった。デイケアを打ち切られ、夜中にうめく父を看護し、部屋を掃除し、痛む身体を引きずって家事をこなし……
当時は激しいストレスに苛まれ、毎日意味もなくスーパーでお菓子を買い込んだり、つまらないことで感情的になったりした。
それも、ひと月前までの話だ。
「はい。そろそろ杖替える?」
「かもしれない」
「わかった。探しておくから」
着装を手伝って、ようやくひとりの時間が戻ってくる。まずは今朝のようなことかまた起きないように、杖の石突部分のゴムの摩耗具合を確認し、たしかに買い替えるべきだと判断する。それから通販で新品を購入すると、カーテンを閉めたままの窓を見た。
立ち上がる。カーテンを開ける。しかしそこには期待していたような青空はなく、徐々に雲行きの怪しくなる怯えた蒼天だった。
「もうダメかもしれない」
独りごちる。なぜそんなことを思ったのか自分でもわからない。ただ、どん詰まりだという焦りだけがあった。
こんな自分の生活が順調だと断言できるとするなら、それはよっぽど現実が見えていないか、あり得ないぐらいポジティブな精神の持ち主だろう。紫織はそのどっちでもない。だから元気だよのひと言も言えず、現実を蔑ろにできるほどの奔放な遊びもできない。
ただできたのは、辛いことから逃げることだけだった。
辛い過去から。どうしようもなく壊れた家庭から。学校から。意地悪な同級生から。
逃げて。逃げて。逃げてきた。
それでもわたしはまだ自分の居場所を見つけられない。
紫織は思わず窓にひたいを押し当てた。薄皮一枚のガラス板が、彼女の皮膚から熱を奪うと同時に、どうしようもなく隔絶された現実というものを実感させる。こんなに近くにあるはずなのに、現実は遠い。
バクバクと心臓の拍動が強くなる。ダメだ。これ以上悪いことを考えてはいけない。自分で自分を責めるのはもう終わりにしないと……ただ、それはまだ止血が完了していない傷痕を庇おうとして、むしろ流血を激しくしているような矛盾があった。
ぎゅっ。拳を握る。ぎゅっ。ぎゅっ。
手のひらに血流の拍動を自覚すると、首を振ってそれを意識から落とそうとした。考えちゃいけない。考え込んだらキリがない。明日の不安。昨日と同じ今日なんてない。それはあの災害の経験が、曲がった鉄板を折り目のように、いくら延ばしても消えようとしないものと成り果てているからだ。
紫織は自身の生活空間をもう一度点検すると、スマートフォンを取り出した。そしていつも開いているゲームアプリを開始する。
『リマインズ・アイ』。それがこのゲームの名前だった。
ジャンルはパズルの形式を取った戦略シミュレーションゲームで、もともと紫織が好みとするようなものではなかった。
しかしスキマ時間を埋めるように始めてみると、意外とハマる。片手間にできる上に結構やりがいのあるパズルなのである。
彼女はそれほどゲームが得意なわけではないし、テレビゲームにのめり込むタイプでもなかった。
ところが小学生の頃、よく友達の家に遊びに行ったついでにゲームをすると、決まってレアアイテムが出たり、何かしら珍しいできごとが起こったりする。人の遊んでるのを観ながら、友達が悩んでる謎解きの解法を見つけたことだってある。
この勘の冴え方が幸いして、当時ゲーム好きの友人たちからチヤホヤされた。そのうちのひとりが、「紫織だったらきっと得意だって!」「わたしを助けると思ってさあ、お願い!」と言ってオススメしたのがこの『リマインズ・アイ』だったのだ。
最初はそれこそ、友達の難局を助けるつもりでやっていた。しかし行き詰まってるのが単に攻略だけでなく、単純に遊び相手が足りなかったのだとわかると、だんだん踏み込まざるを得なくなった。だがフレンド登録だったり、レアアイテムの交換だったりするうちに、すっかり紫織自身も積極的なプレイヤーと化していた。
少なくとも、現実がどん詰まりでも、ゲームは上手くクリアできる。
どんなに現実が不運にまみれていても、ゲームの幸運はわたしに微笑んでくれる。
今日のお題は、夜の街に出現した怪物を狩るためにハンターたちをどう配置するか、というもの。
『リマインズ・アイ』の世界観設定は、歪み切った現代そのものをモチーフにしている。つまり都市伝説や妖怪にまつわる怪談が実体化し、時に街を破壊し、人を陰で殺してしまう世界そのものである。
このゲームの中では巧妙に〝怪獣〟と呼ばれる言い回しを避けて表現しているが、紫織にはすぐにわかった。
これはこのメチャクチャになった現実と戦うためのゲームだ、と。
だからなのかもしれない。彼女はこのゲームをする時、弱かった自分を克服するような気持ちにさえ、駆られるのだった。
二、三の課題を見つめ、解きほぐす。今日のお題は虫のような形をした怪物を包囲し、体力を削りながら弱めて捕縛すること。いくら怪物を力づくで倒したところで、現象は繰り返されるだけだ。だから、いずれは誰かが調査しなければならない。これはそういうシナリオに基づいて組まれたミッションだ。
前までむやみに殺せばよかったのだが、今回は違う。紫織はうんと頭を悩ませた。だが難しく考えすぎていたようだ。彼女はそれまで火力に振り切っていたメンバーを切り替え、巨大な罠を構築することでお題を達成した。それまで育成したメンバーの実力で実行すれば、考え方の問題でしかなかった。
ここまでで五分。クリア時間の総合ランキングは七位と来た。
とたんにSNSから通知が来る。名前は安代マキ。紫織をゲームに誘った張本人だ。
《今度の金曜、空いてる?》
全く思いがけない誘いだった。
《頑張れば都合つくかも。でも、どうして?》
《今度『リマイ』のプレイヤー同士でオフ会イベするんだけど、知り合いいなくてさ》
ドキッとする。わたしはよそに見られるような見た目をしてない。それでも良いのだろうか。
強い不安があった。しかし、それと同時にここではないどこかに行けるなら、なんでも良いとも思った。このまま延々と親の介護をして、駅前のスーパーと自宅を往復するので精一杯な生活から抜け出したかった。
施設のチケットはまだ残っていたはずだ。だから事情を話して、父には一日外で泊まってもらおう。そうすれば、きっと──
《わかった。行く》
《ありがとう!!! 紫織ゲーム上手いから、きっとみんな話し弾むよ!》
《駅前で待ち合わせ、で良い?》
《うん。十二時ね!》
金曜の十二時……ヒトのことは言えないが、安代はちゃんと学校に行っているのだろうか。そんな疑問が浮かぶが、あえて言わずにしておいた。
時に日常生活を放り出してでも行きたいものがあるのだろう。そういうものは、得手して誰にでもあるのではないだろうか。
そう言い聞かせて、紫織は疑問を呑み下した。ぎゅっ。とりあえず今日はまだ頑張れると考えを改めながら。




