1.岐庚という女
カーテンを開けると、眩しい日差しが顔面に降り注いだ。
これだから安い賃貸はいけない。岐庚は寝癖にまみれた髪を手櫛で梳かしながら、ベッドから身を起こした。
洗面台で歯を磨き、シャワーを浴びる。ついでに洗顔も済ませてから、洗面台でメイクを整える。その間、事前にセットした電子レンジはピーッと音を立てたまま、しばらく待ちぼうけを喰らっていた。
鏡台の前でほつれ毛を気にしながら、そろそろ美容院に行ったほうがいいかと考えながらも、とりあえず電子レンジから程よく冷めたオートミールを取り出した。
そして冷蔵庫から二、三。茹でたニンジンやブロッコリーの和え物、プチトマト、茹でたササミをひとつの皿によそって、肉にごまだれを掛ける。それらを味わう暇もなく一気に食べると、再度歯磨きをした。
もう一度ほつれ毛のことを気にしていると、壁掛け時計が出勤を急かすように時報を鳴らした。
「あ、いけね」
慌ててカバンを携えて、家を出る。最寄りの駅から約三十分。都内の地下鉄を乗り継いで、たどり着いた先は霞ヶ関だった。
その地下。日当たりなんて言葉が辞書から切り捨てられたかのような暗鬱たる空間に、血の気の引きそうなほどの真っ白な蛍光灯が明るんでいるその場所こそが、庚のいまの職場なのだった。
「おはようございます」
事務デスクを寄せ集めたような一角の、その奥に彼女があいさつした相手がいる。
切り揃った短髪に、きりりと締まったまなざし。それとは対照的な、陰影をきざむような目の下のクマと、無精髭。
平田啓介。庚にとって、彼は上司だ。
「おう」としゃがれた声。
「……また徹夜ですか?」
「そうだが、何か?」
「臭います。シャワーぐらい入ったらいかがですか……」
「それ、わたしも、言った」
ちょうど斜向かいに座っていた山崎ひかりも同調する。
庚にとって先輩格に当たるこの女性は、口数は少ないが、ハッキリとものを言う。話しながらもまなざしは眼前の端末を見たまま、キーボードは高速のブラインドタッチだ。
「勘弁してくれよ。ここんところ例の組織の調べ物が行き詰まってるんだって」
言いながら、フケを撒き散らかす。ゴリゴリと爪から音を立てて頭を引っ掻くところは、この上司の尊敬できない数多くのひとつであった。
しかし一方でお茶汲みをしろとは一度も言ったことはない。飲み物は自分の好きなタイミングで好きなものを飲んでいるし、逆にお茶とかコーヒーの差し入れをすると怒るタイプでもあった。
その時の言い分は、「上司の顔色をうかがう仕事は、うちの業務管轄外だ」である。
おまけにかしこまった礼儀作法も嫌う。礼儀はほどほどにしろ。うちうちには用件だけ話せ。上座とか下座とか気にすんじゃねえ。そう言って本来公安警察ってこういうものだろうというモノを、徹底的に私物化してしまったいきさつがある。
なぜそこまでのことがこの男に可能なのかは、庚は知らない。
ともかく世間の常識とはかけ離れたこの感覚は、ぶっきらぼうな庚の性に合った。だからいままで仕事が続いている。
公安十一課。
またの名を、〈特殊霊障捜査班〉。霊能犯罪者の取り締まりや怪異を利用した犯罪組織を調査・逮捕するための特設部門だ。
「例の組織って、先日から話題にもなってる宗教法人の……?」
「そうそう。なんだっけ、アトラクションみたいな名前──」
「あた、らく、しあ」
「それだ、それ」
ギッ、と音を立てて仰向けになる。
そこに追い打ちをかけるように、山崎ひかりは言葉を重ねる。
「ちなみに。あたらくしあは、ギリシャ哲学で言うところの、〝心の平穏〟って意味」
「へぇー。詳しいんだな」
「いちおう。名前の由来は、気になるから」
「なるほどなー」
平田はそのまま両手を後ろ手に組んだ。その間に庚は自分の作業デスクについて、自分宛の報告資料を封切りし始めた。
三年前の怪獣事件以来、続々と発覚した霊能犯罪者の存在を取り締まるには、それまでの警察の知識と技術はあまりにも通じないものになっていた。そのため、公安十一課には一流の調査員からの情報からではなく、インターネットでまことしやかにささやかれる陰謀論サイトや掲示板への書き込みも情報としてやってくる。
すでに起こった事件、特に現場の任務では怪異と対決する実力行使が多いが、彼らの本来の業務はこれらの情報の精査と影響力の調査にあるのだ。
「ヤツら、そんな仰々しいお題目を名前の由来に据えてるわりには、穏やかならぬ雰囲気だがな」
「ただ、尻尾が、掴めない」
「ああ。まったくだ。オンラインサークルでコソコソ何かやってんのはわかるんだが、公にはボランティアってことになっちまっててよくわからない。ふつうもっとボロが出るはずなんだがなぁ」
会話を耳にしながら、庚は資料を読む。その多くは根も葉もない、発信者の素性すらもわからない。ただ時間と場所が一致しただけで報告対象となったような、平田いわく〝便所の落書き〟に相当するものだった。
何時何分誰それを呪った。○○死ね。怨霊出現情報、未確認生物目撃のフェイク画像、どの民俗資料を漁っても名前すら出てこない謎の神様への信仰告白……国内外の神格・情報問わず、とにかく集まったそれらは、他部署の専門的な調査結果と照合したとき、なんらかのサインを示すことがある。
平田が調査対象とする〝例の組織〟というのも、そうした符牒が重なった結果、要調査となったひとつだった。それも、このところ緊急度が高まってすらいる。
宗教法人あたらくしあ。
その設立は怪獣出現よりもはるか以前──二〇〇六年に始まっている。当初はスピリチュアル志向の自己啓発セミナーであり、過剰労働に追い込まれる派遣社員や対人関係のストレスに打ちひしがれている新卒社員、不登校の学生など、若者の不安と恐怖を取り込んで勢力を拡大していた。
しかしその傾向は二〇一一年を境にいったん停滞期を迎える。信者数も減り、経営困難に陥っていたとさえ、判明している。
ところが二〇一五年の中頃から回復し、以前よりもより水面下の方向で勢力を拡大するようになる。
その行動の大半がSNSのクローズドサークルと呼ばれる仕組みを使用した、「外部が参照できない」活動だった。もちろん内部の人物も表側では生活がある。だから決して活動が不透明というわけではないのだが、一見すると慈善活動としてしか映らない。
例えば怪獣災害の被害者の心身のケアや、復興支援のボランティア。寄付金活動や、不登校者の復学支援用のオンライン教室の開設などなど。
ただ、こうした活動の陰で、なぜゆえか複数の掲示板や内部リークで次のようなことがささやかれているのだ。
宗教法人あたらくしあは、国家転覆を狙っている、と。
こうなると話が変わる。
当初は公安警察による調査が進められていた。しかし途中から調査員の〝蒸発〟が後を絶たなくなった。ひとり、ふたり、三人と〝神隠し〟に遭うにつれて、上層部はこれを霊能者による組織的な活動だと判断し、十一課に業務をシフトしたのだ。
結果、平田は執務室に泊まり込みとなり、他の調査と並行しながら常に〈あたらくしあ〉のことを考える羽目になっていた。
「ちーっす」
と、そこに吉田恂がやってくる。彼もまた公安十一課のメンバーであり、庚の後輩でもある。
彼は庚から見て斜向かいの席に鞄を置く。これで事務デスクは一人を除いて全部埋まったことになる。
「平田さん、前々から思ってたんですけど、この席って必要なんですか?」
「あン?」
「いやだって、この席ぼくが入ってから一度も座ってたことないじゃないですか。オークニさんって実在するんですか?」
「居るよ。アイツはいま長期間の単独行動中」
「へぇ」
「とにかくお前の汚い机の上をそっちに移動するのはナシだ、吉田。業務整理は怠るんじゃねえ」
「は、はい」
魂胆を見透かされて、吉田は肩をすくめる。庚はふと顔を上げた。
「そういえば、わたしも大国さんとは入ったばかりに一回会ったっきりなんですけど、大丈夫なんですか?」
「ああ。腹は立つが、便りがないうちはアイツの仕事がちゃんとしてるってことだからな」
「信頼されてるんですねぇ」
「ばか、そういうのじゃねえよ。マイペースすぎて諦めるしかないってヤツだ」
「ふーん」
ここで吉田は果敢にも割り込む。
「えっ、先輩オークニさんに会ったことあるんですか? どんな人なんですか?」
「どうって言われても……」
「身長、百八十二センチメートル。スポーツ刈り、三十代、やたらと距離が近い」
なぜか山崎ひかりが感情を込めて、解説する。
「わたし、あの人、苦手。毛深い」
「あー、わかります。腕毛やばいし。初めて会ったとき腕毛の中で蚊が死んでたんですよ! 信じられます?」
「わー、やばいっすね。オークニさん」
「…………」
平田が空咳をした。
「まあ、仕事はできるヤツだよ。ほんとうならおれよりもっと出世していいぐらいには」
「言い忘れてた。平田さん、大国さんと同期」
「えっ! まじっすか」と吉田。
「同い年なんですか!?」
庚も仰天する。彼女の記憶の中にいる大国忍という男は、非常に毛深くて貫禄があって、少なくとも平田と比較したら先輩格に当たると思っていたのだ。
平田は複雑な顔をしていた。
「まあ言ってやるな。ああ見えても既婚者だ。だった、かな」
「そりゃまあそうですよ。こんな仕事してれば家庭ホーカイしちゃいますって。平田さんだってプライベートゼロでしょ」
「まあ、な」
思うところがあるのか、反応がそっけない。庚は困って吉田と山崎とに視線を投げかけるが、ふたりともゆっくりと首を振るばかりだった。
「ホラ、各自担当業務に戻れ。さもないとおれと同じ穴のムジナだぞ。不潔人間になりたくなかったら仕事しろ仕事を」
「はーい」
「…………」
こうして各自が資料や端末に目を向け直そうとしたその時だった。
「失礼する」
突如、前触れもなく一人の男が執務室の入り口に立っていた。
もうじき夏というのにも関わらず、冬物のロングコートを着込み、内側を黒のタートルネックで固めている。この不気味な厚着に反して、本人の雰囲気はあまりにも涼しげを通り越して寒気すら覚えてしまう。その理由は、おそらく感情の籠らない切れ長の目が油断なく周囲を見つめているからだろう。
「岐庚に用があるんだが」
言われて初めて、彼女はその男を見た。そしてみるみるうちにその目が丸くなる。
「アレ……井氷鹿?」
ついでに言うと、庚の顔は驚くと同時に嫌そうな表情があふれかえっていた。立ち上がって近寄ると小声で「なんで」と言い募る。
しかし男はさほど気にしたふうもなく、無表情のまま応えた。
「いちおう霞ヶ関では内閣調査室の冬堂ということで通ってる。すまないが、しばらく時間を融通してもらえないだろうか」
ただし、小声のままだった。それがただならぬ用件を物語っていた。




