0.ある被害者の日常
剥き出しになった消しゴムが、教室の後ろの席から放物線を描いた。
それは黒板に近い最前列の席に座る女子生徒の後頭部に向かって、すとんと落ちる。静寂に響く命中音。クラス中にくすくすと忍び笑いが拡がった。
「──この事件が現在まで盛んにニュースになっている〝怪獣〟事件の発端となったものであることは、まあみんなも知ってるとは思う。ただこのできごとは世界的にもかなりショッキングなものだった……」
現代社会の教師がしゃべりながら板書する背後を、サッとささやき声が横切る。それは教師が振り向いたとたん、そよ風の名残りのように、波風を立てて揺らいでいた。
この空気感をひと言で表すなら、〝悪意〟と言って良かったかもしれない。
指差す手。口に浮き出る話題の対象。みなの視線は見て見ぬふりをしながらも、その座席の位置ゆえに目を離さずにはいられない、その人に向かって注がれている。
彼女はやや猫背で、からだの左半分を庇うように座っていた。
首下までのワンレングスで顔の側面をすっぽり隠すように髪を伸ばし、さながら座敷童子のように独特な、浮いた存在感──
「質問でもあるのか?」
教師が振り向く。教室が静まる。
「センセー、宗谷さんが訊きたいコト、あるみたいですよ」
「そうなのか?」
「……」
そっと俯く。崩れた前髪の隙間から、蒼ざめ黒ずんだ顔の左半分が、覗いた。
ケロイドで潰れた左目の名残が、見るものの肝を冷やした。
「どうした、宗谷。具合悪いのか?」
「……いえ」
「そうか。なら良いんだが」
「大丈夫です。構わないでください」
「ダイジョウブデス。カマワナイデクダサイ」
誰の声マネか、オウム返しが教室のそこここに反響する。
それでさらにドッと笑いが湧きあがった。
「うるさいぞ。なにがおかしい」
教師は声を荒げる。しかしそのまなざしは目の前の女子生徒の機嫌を伺うようにチラと一瞥を与えるのみで、教室の空気が落ち着くにつれて流れるように通り過ぎていった。
あとにはただ、身震いしたくなるほどの白々しい優しさだけが、針の筵のように覆いかぶさっていた。
まただ、と思う。女子生徒──宗谷紫織は、この空気感からいち早く逃げ出したい気持ちに駆られた。
ぎゅっと左腕の袖を握る。縮こまれば縮こまるほど下世話で残酷な視線がチクチクと少女をもてあそぶのはよくわかっていた。耳を塞いではいけない。いまやるべきなのは、毅然と胸を張り、ノートを取ることだった。
ところが、それができない。
かろうじて顔を上げようとする。さっきから教師が話しているのは、〝現代史〟だ。しかし紫織にとってはそれはまだ歴史ではない。自分のからだに深い傷痕を残した、紛れもない〝記憶〟なのだった。
喉元まで込み上げる想いを、必死にこらえて呑みくだす。首筋に冷たいものが当たったような蒼ざめた緊張が、全身に充ち満ちた。
ぎゅっ。内蔵が軋む音がした。
教師はそれから二、三話題を乗り換えながら授業を進めたが、それらはもはや生徒たちにとってはニュースで耳にタコができるほど聞いたことの繰り返しだった。夜遅くまで遊び歩かないこと、不審者に気をつけること、万が一に備えて食料や水の備蓄をすること。すなわち、ありきたりな自衛と防災程度。
いつ来るかわからないものを怯えながら過ごすのも、度を過ぎるとかえって楽観的になる。ホラ見ろ、何にも起こらなかったじゃないか。準備はしたからあとは好きにしていいでしょう? そもそも、そんな準備に割く余裕ってあったっけ? もっと大事なことがあるはずだよ。例えば、受験勉強とか。全くもう、当事者がいるからって教師もホンキになっちゃってさァ……
生徒たちがどことなく抱える侮蔑の空気は、いつしか紫織を敵視することにすり替わっていた。
しかし教師はそんな空気感を承知の上で、ハッキリと言う。それが自ら大人に課せられた使命であると言い聞かせるように。
「いいか。天災は忘れた頃にやってくる。お前らも、いつ明日怪獣が出てきてこの辺がガレキの山になるか、わかったもんじゃないだろう。都内だって新宿じゃ信じられないぐらいの被害者が──」
もうダメだ。紫織はその言葉を耳にしたとたん、まだ生々しい記憶が爪を立てて心を引き裂きに来ることを自覚した。
そんなことを言わないで。あたかも当事者がどこか遠くにいるかのようなよそごとのフリをして、わたしの話をしないで。
ぎゅっ。胸の内側にわずかに残った余裕が絞り取られた。ぎゅっ。ぎゅっ。
「起こってからじゃ遅いんだ。そうやってなんとなく過ごして、イザそれが起こったら取り返しがつかないんだぞ。だからな、」
ぎゅっ。おえっ。
ところが、その熱弁はただひと言で壊されてしまった。
ああ、とか、きゃっ、とかそんな悲鳴が最前列からさざめき立った。あれほど口酸っぱく注意した〝怪獣〟とやらが、ほんとうに目の前に現れたかのような、そんな嫌悪とどよめきが、クラスを支配する。
「静かに。静かにしろ!」
教師は場を押さえながら、保健委員の名前を呼ぶ。しかし誰も立ち上がらない。気味悪げなまなざしと、ソラ見ろと言わんばかりの嫌味な冷笑とが、行き交った。
仕方がないから、と教師は女子生徒のからだを支え、吐瀉物を迂回しながら外に連れ出す。
「誰でもいい。ゴム手袋あるから、掃除しておいてくれ。頼むぞ」
えーっ! やだーっ! そんな生徒たちの黄色い声に混じって当の教師が、まったくもう。ほんとにいい迷惑だよ。そう口が動いたのを、少女は見逃さない。
結局その日は早退した。明日は学校おいでね、と言ってくれた保健室の先生の好意は嬉しかったが、二度とあのクラスに戻りたいとは思わなかった。
だから、それが宗谷紫織にとっての学校の最後の思い出だった。




