13.パーフェクトキル
「大丈夫?」
山崎ひかりは庚のほうを振り返った。寝癖だらけのショートヘアに、メガネのその横顔は、不思議と気高く美しく見えた。
庚は思わず感極まった声をあげて、ひかりに抱きついた。それにいやがるそぶりも見せず、ひかりは左腕で受け入れると、素早く上に合図を送る。
とたん、ぐいっとからだが上に引っ張りあげられる。よく見るとひかりの腰にロープが巻いてあった。おそらく石室とほか何名かが上で引っ張り役をしているのだろう。
ふたりは海坊主が暴れて、左右に大きく揺れ動くさなかを、壁を蹴りながら登った。途中何度も鉄がひしゃげた音が反響し、彼女たちの神経を揺さぶったりものの、辛うじて歯を食いしばりながら、それでも前に進む。
ようやっとふたりがハッチから身を乗り出したかと思うと、海坊主が片手を目に当てながら、ギロリとにらみつけた。
「早くッ!」と石室の声がする。
案の定、ロープを引っ張っていたのは石室と横山だった。術者でもないのになぜ、と思わずにはいられなかったのだが、その疑問については甲板に出てようやく理解できた。
雲の切れ間から、陽の光がところどころ差し込んでいたのだ。
そのスポットライトが当たったかのような場所の一角に、吉田とほかの隊員がいた。もう彼らの仕事は終わったようなものだった。あとは救命ボートに乗って、海自に助けられるのを待つばかりとなる。
はずなのだが──
海坊主のこぶしが、こちらに向かって振り上げられた。みなの注意がそっちに向き、あわてて散り散りになる。振り落とされたこぶしは、甲板にへこみを作らんばかりに、強く船を揺さぶる。
もはや船酔いしない人間でも、平衡感覚が壊れてしまいそうだった。
「やっぱり海坊主は寝ぼけ眼とはいえ、バカにならないわよ。このまま脱出していいの?」
吉田が即答した。
「そこについては、少し考えたことがあります」
「なに?」
「竜角海域の側に落としましょう」
「──できるのか?」と石室。
吉田は渋い顔をした。
「五分五分でしょうか。生存率と考えれば高い方ですよ」
今度は石室が渋い顔をするときだった。とはいえ、そうしないという選択肢はない。絶対に成功させるということで、全員の理解を得た。
まず石室、横山、ほか合流した隊員二名は吉田の先導で、救命ボートへ移動。庚とひかりとで海坊主と狗龍の注意を逸らし、あわよくば海坊主を異界の海へと叩き落とす。
概略はこうだった。だが実行するとなると、とたんに難易度は増す。
「ほんとに大丈夫なんですか? 岐先輩の擬神器って……」
「つべこべ言うな。やるしかないだろ」
そう言って、右のこぶしを左のてのひらに収める。肩に入った力が、おのずと沸き上がる緊張を物語っている。
ひかりはそれを一瞥して、口角だけを軽くあげた。
「いくよ」
こうして一同は散開した。
まとまって動く吉田たちを尻目に、ひかりが水曜刀を振りかぶると、その鋒から猛々しい水しぶきが噴き出す。それは彼女の妖力を水の気に変換し、今一度豪雨の再現とも言えるほどの降水を演出する。
それは一見悪手だった。そもそも海より生まれ出た海坊主に対して、庚の金、ひかりの水では基本的な効果は期待できない。むしろかの物ノ怪の力を強め、撃ち倒すことすら不可能になりかねないのだ。
ところがある瞬間を過ぎたとたん、造られた雨は細切れに散りばめられ、白い水煙へと変化した。外から徐々に差し込む陽の光を受けて乱反射し、まばゆいばかりの虹の輝きを帯びて、おんなふたりを包んだのである。
海坊主はまだ開ききっていないまなこを、グイと擦る。しかしその眼は他の怪異と同様に、闇のスペクトルを収めるための水晶体を有していた。
ために、光を受けて輝く水煙をまえに、その視界はまったく機能しなかった。むしろ視界の中央にさながら大きな穴でも空いたかのごとき不自由を感じずにはいられない。
仕方なく、海坊主は文字どおり闇雲に腕を振ってヒトを排除しようと試みる。しかしその攻撃に手応えはなく、虚しく空を切るばかり。と思ったところに、針が刺すような痛みが迸ると、霧の狭間から、チカ、と金属的な閃光が、指の水かきを引き裂くのだった。
何度もこれが繰り返されると、さすがに海坊主も怒りを覚えてくる。そんなさなかにサッと目の端を過ぎる影を見て、これはしたりと掌を叩きつける。
ぐわんと船が揺れ、衝撃すらも走るものの、離してみれば、影もかたちもない。ふしぎに思ったところに、背後から切り傷が増えていく。
一体どうなっているのか。
何を隠そう、これぞ水曜刀:霧幻朧長船の真髄だった。山崎ひかりの所有する擬神器から発する水の気は、傍らの岐庚の金の気の影響を受け、そのちからを遺憾なく発揮してみせたのである。
甲板にえんえんと立ち込める霧は、地上に差す光を散らし、狗龍の出る幕すら与えずについには海坊主の巨躯をも翻弄せしめる。それがようやく功を奏したとき、まったく思いがけずに、海坊主の眼前に迫る影の存在を許した。
それは庚がこぶしを握った瞬間の、ほんのわずかな映像だった。
「砕け散れッ!」
金剛鉄拳の三発目が、海坊主の顔面を思い切り張り飛ばす。並の生物ならきっと首から上が保たないであろう、その一撃は、怪獣の巨体の重心を思い切り崩し、海のほうへと叩きつけようとするのだ。
ところが、仰向けに倒れると思ったそのからだは、途中で静止する。
まぐれではない。その理由に、全身の筋肉が強ばり、足の爪先から腱にかけて、決して落ちまいと踏ん張っているのである。
「させない」
山崎ひかりは、すかさず剣尖からの水流を絞り込み、水曜刀の鋒をウォーターカッター同然の勢いで、切り裂いた。
そのとき綱が引き千切れる音がして、海坊主の巨体が、今度こそ宙を飛んだ。見事なまでの放物線を描いて、膝から下をだらしなくしつつ、背中から海に落ちる。
どう、と海水が噴き上がった。
嵐の海の波しぶきと見紛うばかりの激しい水と揺れが甲板に襲いかかる。
しかしそれも次第に収まると、山崎ひかりは周囲を見回した。そそくさと動くと、やがてワイシャツをずぶ濡れにした庚のすがたを見つけて、そっとからだを抱き上げた。見ると、ここ数日寝不足だったらしく、庚の目の下のクマが濃く浮き出ていた。
ふっと、微笑む。ところがその笑顔はすぐに溶けて流れていった。
その視線の先には雷獣が横たわっていた。ひかりは庚の腕を肩に回すと、ゆっくり、ゆっくりと歩を進める。そして光のなかで消えてしまいそうなほどに妖気を失った、哀れな物ノ怪の傍らに寄り添った。
「猫さん……」
そっと撫でる。あれほど喰らったはずの妖気がかけらも感じられなかった。もはや毛皮に包まれた骨が、痛々しいほどゴツゴツと指の腹を刺激する。それでもかろうじてまだ生きているのがわかるから、切なかった。
ふと、背後から人影が迫る。振り返ると、吉田と横山、そして石室率いる海上保安官たちだった。
「彼がいなかったらわれわれは生きて戻れなかった。せめて、海に還してやったらどうだろうか。海の底なら、光も届かない」
ひかりはうなずいた。
こうして一同は、日陰の側に雷獣のからだを移動させた。
長い沈黙があった。ようやく脱出できたというのに、決して口を開けないなんとも言えない気持ちだけが残っていた。それでもなんとか話そうとするも、ためらいが邪魔をする。
「……結局、わたしたちはこのゲームに勝てたのでしょうか?」
横山のそんな呟きが、静寂を破った。
「わからない。そもそも、勝ちとか負けとか言ってるのが、わたしたちの、エゴなのかもしれない」
俯きがちに言ったひかりの顔は暗かった。
ところで、そんな彼女の足もとから、徐々に狗龍の口がゆっくりと実体化しているのに気づいた人間は誰ひとりいなかった。
この一連の戦いのなかで、すっかりなりを潜めていた狗龍は、その多くが日光のもとから逃げ出している。しかし一部はなお日陰物陰に潜み、獲物を狩る絶好の瞬間を狙っていたのだ。
いま、狗龍はみずからの同胞をもっとも傷つけたおんなを真っ先に屠らんとその牙を唾液で濡らしていた。そこにはゲームとしてのふざけはない。全身全霊の憎しみを込めて、一瞬でそのからだを食いちぎる。そのつもりで、動いている。
彼を構成する霊子の乱れは、決してヒトの目や感覚には触れることはない。だからその牙が紙一枚分の距離にあったとしても、実体化が完了するまでは、気付かれることはない。
そのはずだった。
ところが突然、雷鳴がとどろいたかと思うと、船の陰の部分が一気に光に染め上がる。そのあまりの唐突な輝きに、狗龍は悲鳴をあげて怯んでしまう。闇の中に生きるものにとって、光の下に引き摺り出されることは、鰓呼吸の生物を陸にあげることに等しい。すぐは死なないが、呼吸がうまくいかずに徐々に息が止まっていく心地なのだ。
図らずも実体化が完了する寸前だった。ゆえにその悲鳴は山崎ひかりの耳に届き、彼女の敏感な反射神経に意識の火花を散らした。
全員、息を呑む間もない。
大きく開いた口に向かって、喉まで貫かれた狗龍は、一瞬で糸の切れた人形のようにくずおれる。それが合図となり、付近から漂う妖気が引き潮のごとく退行した。
戦いはついに終わったのだった。
大きくため息を吐く。それから再度雷獣のほうを振り返るが、そこには何もなかった。
「……猫さん、は?」とひかり。
答えるものは誰もいない。一瞬の雷鳴が何を意味したのかも、その直後にいなくなった雷獣の行方も、同様に。
山崎ひかりは居ても立っても居られずに、走り出した。しかし物陰をいくら探したところで、かの妖怪の影もかたちも、妖気の波動も見つからない。
さんざん探して、諦めもつくかと思われたとき、ついに甲板に満遍なく太陽の光が差し込んだ。竜角海域を抜け出したのだ。それで彼女は自分の住んでいる世界と、ほんらいは交わるはずのない世界との間で起こった数々のできごとを実感するに至ったのだった。
遠くからヘリコプターの羽音が、かすかにだが、響いている。それが来たら全てが終わるだろう。現実に戻るのだろう。それはそれで良いのかもしれない。
しかしいま自分の中にぽっかりと空いた喪失感だけはほんものだった。みなそれぞれなにかを感じ、それを失ったのだ。それが何だったのかをことばにするのは難しいが、確実に何かであるという実感だけは、たとえ誰が何と言おうとも、揺るがせられない。だから彼女は祈らずにはいられなかったのだ。
願わくば、かの妖怪はあるべき場所に還らんことを、と。
──月夜に悪魔と踊る覚悟はあるか?
怪異。それは夜を舞う。夜な夜な起こる失踪と惨殺、事件の被害者はみな生命の抜け殻と化している。かくなる事件に動くはPIRO、そして公安警察第十一課。
彼らが狙うは或る新興宗教団体。その名も〝あたらくしあ〟なる、西洋魔術を基礎とするスピリチュアリズムの組織でもある。
またの名を、〝神聖怪獣教団〟とも。
怪獣災害、それは果たして現代において何を意味するだろう。太古の地球の復興か、それとも現代文明に起こった末法の世か。
あたらくしあ、は生命を謳う。弱肉強食と化したこの世において、ただ生命力の強きものこそが報われるとのたまひけり。
その中枢に立つ少女:宗谷紫織のまなざしは、来世に生くべきいのちを見定める。しかし彼女の魔眼は災渦の記憶に囚われ、救いを求めていた。
次回『信じる者は掬われる』。
この歪みきった世界、それでもお前は〝正義〟を信じようというのか?
※作者都合により、7月分の掲載はいったん延期とさせていただきます。
次回は2021年8月中旬〜下旬に公開予定です。




