2.怪獣が出てきた日
あの日──〈甲府の惨禍〉が発生したときは、まだ庚は大学三年生だった。遊べる時間もそろそろ終わりが見え始め、自分の将来をまじめに考えている人間は、就活を意識してインターンなどを始める頃だ。
庚も人並みに自分の進路を考えてはいた。しかしどこかまじめになりきれず、このまま大学生のままでいられたら、と思わずにはいられない。結局のところ世の不景気や不安を苦い肴にして同級生と語らったり、相席式の居酒屋で大の大人をからかったり、そんなこっけいでどうでもいい日常に溺れていたと言ってもいい。
そんな中、あれは起こったのだった。
「このままじゃまずいって」
誰もがそう言っていた。当然だった。怪獣なんていまのいままで画面の向こう側の存在だったのだ。現実になるぐらいだったらまだフィクションとして許してやろうと言えるぐらいのできごとが、よもやほんとうになるなんて、いったい誰に予想できただろうか。
あまりのことに呆然としていると、それは次から次へと、東京、京都、札幌へと飛び火した。もっとほかにもたくさんの都市が被害に遭い、多くの死傷者と行方不明者を数え上げるに至った。庚自身、当事者だったこともある。平穏無事な日常とはかくもあっけない砂上の楼閣だったのだ。
「庚ももうちょっとまじめになったほうがいいかもよ」
当時付き合っていた彼女とは、それっきりで自然消滅してしまった。うわさに拠れば彼女はNGOのボランティア組織に入って、世界中の被災者・難民や開発途上国の支援活動をしているらしかった。
世の中の異変や不安に流されないところに互いの良さを見つけたはずだった。しかし突き詰めてしまえば、その頑ななところで、互いの道がずれてしまった。
しかし、だからと言ってすぐに何かが変わるわけでもない。
警察官という進路は──それも、異能の警察である公安第十一課、通称〈特殊霊障捜査班〉を選んだのは、それでも庚なりに真剣に考えた結果だった。
「毒をもって毒を制す。これがわれわれのモットーだ」
直属の上司である平田啓介は、着任早々のあいさつでそう言ってのけた。
「この世の中には、二種類の人間がいる。いつも通りにしか動けないやつと、いつも通りじゃ飽き足らないやつだ。前者は〝一般人〟と呼ばれる。われわれは後者のほうだ。平穏無事な世の中なら容赦なく鼻つまみものになる側に立っている。だから、われわれは結局のところ同胞狩りをしているということを、自覚しておくように」
そうなのだった。庚自身、友人には話してはいなかったが、いわゆる霊能者だった。
「われわれが扱う犯罪者は──基本的に一般人には視えないモノを扱っている。ひとはそれを〝妄想〟と呼ぶかもしれない。しかしほんとうになったら困るものだ。そのためわれわれはこれを阻止しなければならない。それをあえて〝犯罪〟だとレッテルを貼らねばならない。これがわれわれの仕事であり、任務である」
と、かくも生真面目に話したっきり、平田は毎日退屈そうに執務室でペン回しをしている。どうせいまもまたろくでもない思い付きで部下をこき使うのだろう。
スマートフォンがふたたび鳴った。うわさをすればなんとやら。
「はい。岐です」
《──隣りのバカに伝えろ。やつはわざとスピード違反したままオービスを突っ切りやがった。早いとこ捕まえないと、一般の警官を巻き込むハメになるってな》
「──だってさ」
「そんなこと言われましても」
《だいたいてめえはッ! 呑気に経費で高速走ってんじゃねえ!》
すでにスマートフォンは耳元から離して、スピーカーフォンにしている。吉田の顔は苦虫を噛み潰したまま奥歯に挟まったような表情だった。
「わかりましたよ。行きゃいいんでしょ? 行きゃ」
覆面パトカーがとたんにそのお面を剥がした。サイレンを鳴らしながら、アクセルを踏み込むと、シートにからだが押し込まれる。庚がふと閃いて、スマートフォンに話しかけた。
「あ、そうだ。平田さん、道路封鎖でもなんでもいいから、津島の行く手を塞いでおいてくださいよ。そうすればもっと早く追いつけると思うんですけど」
《すでに手配済みだよ。いまそれを連絡するところだったんだって》
どうなんだか。庚の眉間が狭くなる。
「あとついでに。非番のわたしに先鋒張らせるんだったら、擬神器の起動を許可してください。いま運ばせてるんで」
《わかった。始末書代はきみんとこのボーナスでツケとくわ》
このやろう。
「……平田さん、パワハラってことばご存知?」
《え、なに? 電波が悪くて聞こえないんだけど──!》
「あ、ちょっと、ふざけ……」
──ぷつん。
「……転職しようかな」
心の底から、そう思った。