8.繭の中の記憶
「絶体絶命ってやつ?」
庚が冗談まじりにそううそぶくと、ようやく凍った時間が動き出した。
闇の中に蠢く影は、幻ではない。その数は記憶の許す限りで彼女たちの人数よりも多く見えた。これが自在に陰の中を動き回り、気配もなく襲いかかるというのだから、落ち着いてことに当たるのは難しいだろう。
すでにハッチカバーは開き始めている。風の雄叫びに掠れながらも、重厚な機械音を伴って徐々に船倉部がその中身を見せていた。しかし視線をそちらに移すことができない。うっかり目を動かしたが最後、敵のすがたを見失いそうなのだ。
しかし、ここで雷獣の動きが素早かった。
どこで隙を突いたのか、突如身を乗り出したかと思うと、狗龍たちの一体の喉笛を一閃する。黒板に爪を立てたかと思うような悲鳴が一瞬だけ過ぎり、影が失せる。
それが戦闘開始の合図になったのだ。
狗龍たちは雷獣の存在に怯え、陰に隠れるのがほんのわずか遅れた。その隙を山崎ひかりは見逃さなかった。水曜刀をひらりと抜き払い、眼前の間合いに迫ってから、その鋒に水を迸らせる。
豪雨に荒れ狂った河川のごとく、濁ったしぶきをあげて噴き出したその水流は、次第に針金の太さにまで収斂し、狗龍の首を貫いた。通常の太刀筋では断ち切ることのできない狗龍の皮膚も、ウォーターカッターと化した水曜刀の前には敵わない。
そのまま立て続けに二、三の狗龍を捌いたところで、物ノ怪の気配が消え去る。
「──まだ、油断しないで」
雷獣の様子は依然緊張したままだ。ということは、狗龍は自身のからだを霊子に還元しただけで、この場を離れたわけではない。
しかしその間にハッチカバーが大きく開いていた。コーミングの部分に梯子を立て、三人で支えると、石室がその中を覗いた。
「……なんだ、あれは」
見開いたそのひとみが捉えたのは、十メートルの船倉内部の高さギリギリまで満たすような大きな肉塊だった。
巨人の心臓を切り取って持ってきたと言えば、容易に信じられただろう。それほどの巨大さと、凶々しいほどの赤黒い塊が、小刻みに震えながら、君臨している。
そのことを石室が周囲に伝えると、庚は険しい表情になる。梯子に登るのを代わってもらい、ネズミの式神を上に乗せると、吉田に連絡を取る。
「吉田、視える?」
《見てます見てます。これ、詳細はわからないですけどすごい雑な考察で良いんだったら、巨大生物の繭みたいに見えますよ》
「やっぱりあなたもそう思う?」
《データがないんで。ほら、ここまできたら誰だって怪獣だってわかりますよ。だいたいぼくらの任務っていつもこういうのばっかじゃないですか》
「それ、言われたら元も子もないわね」
《まあでもいま分析できました。質量に反して妖気の比率が微妙ですけど、並の生物ではないのは確かです。怪獣認定しちゃいましょう。あとの展開はもうわかりきってます。力づくでお帰りいただくだけですよ!》
「……あなたときどき乱暴よね」
《ここんところ出張任務が続いてるんです》
「そう、ご愁傷様」
さてさて、と庚は顔をあげる。
「なんだってこんなものを運んでるんだか」
言われるまでもない。おそらくは海上プラント〈多々良〉で採掘してるときに見つかったものだろう。
レアアース泥の鉱床は、近年の研究で三四五〇万年前にできたものだと判明している。地質学的には新生代に位置し、恐竜も魚竜も絶滅したあとの、比較的新しい時代である。しかもこの頃は地球の寒冷化が進み、多くの生命が死に至ったという。
そんな時代にこれほどの巨体を有した生物が生存できたとは思えない。
しかし怪獣の由来がそこにあるならば、まさしく氷漬けで見つかったマンモスのように時間を超えてきたと考えるのが妥当だろう。
さらに恐ろしいのは、生きているということである。怪獣と呼ぶべき存在は、まさにこうした地球のタイムカプセルから送られてきた。それは果たして何を意味しうるのか。古生物学者のみならず、多くの学者がそこに仮説以上のものを提出できずにいる。
驕った人類の文明に対する天罰だ、と言うものもいれば、惑星単位の災厄の時代を乗り越える生命の福音だと捉えるものもいる。どちらにせよ宗教的な見方だった。
現実に生きる人間にとって、大切なのはその折り合いの付け方だ。巨大生物の寝ぐらを刺激しないように開発を進めるのは理想論であり、いっぽうで天然資源を抜きにした生活を復興することも極論だった。
重要なのは程度の問題なのだ。しかしその次元に問題を進めると、とたんにあいまいさがすべてを台無しにする。二択だけがすべてではない。にもかかわらず、判断は常に二択であるほど刺激的なものになる。
生きるか、死ぬか。
食うか、食われるか。
勝つか、負けるか。
それ以外の選択肢はまだ用意されていない。
このゲームはまだ真っ盛りだった。雑兵たちに取り囲まれ、生きてこの盤上を出られるかもわからない。しかし叶うことなら、さっさと上がりたかった。ゲームを仕組んだ人物を憎まずにはいられなかった。
庚は見えない差し手をにらむように、宙に鋭いまなざしを向けた。それがきっかけになったかのように、稲妻がぴしゃりと曇天を駆け回ったのだった。




