6.老人と海
横山智。五十八歳。東京都在住の独身男性。皇重工社員であると同時に、いわふね丸の機関長でもある。
彼は、今日の朝食中に緊急事態のアラートが鳴ったと言う。
「……襲ってきた船は、民間の漁船を装っていました。だから最初は海難事故だと思っていたんです。ただ変な音が続いてから、だんだんとんでもないことが起こったとわかってきたんですよ」
横山は海上保安官たちに当時の一部始終を語っていた。
彼のからだは狗龍の粘液と膜に覆われていた。それを洗い流すために船内の風呂設備に運び込み、意識を取り戻したのちはふたたびブリッジへと戻って聴き取りを始めていたのだ。
ちなみに操舵室の外には見張りを立て、有事に備えるようにした。狗龍のごとき怪異に用心するに越したことはない。いっぽうで庚たち三人は、おのおので腕組んだり、雷獣の面倒を看たりしている。
雷獣の存在はまだ謎に包まれていた。狗龍の遺骸に盛んに牙を立て、何かの体液を吸い取ってはいたものの、ヒトに馴れてもいるらしく、現在は山崎ひかりの手に撫でられて、すっかり丸くなっていた。物陰に隠れているので全貌を把握するのは難しいが、豹にも似てネコ科の愛らしい印象を受ける。
嵐はいまなお続いていた。
ガンガンと窓を打つ雨音が、話に茶々を入れている。しかし一同はそれすらも押し黙らせるような緊張と真剣な面持ちとで、横山の物語に耳を傾けていた。
「あれはたぶん銃声だったんだと思います。ただ、すぐに止みました。思えばおかしい話で、載貨重量が八万二千トンにも相当する巨大な船に、そんじょそこらの漁船が殴り込むなんて正気の沙汰じゃない。
だけど、その漁船にいわふね丸が止められたんです。まるで海に巨人でもいて、力づくで止められたみたいな、すごい衝撃だった」
船が止められたあと、しばらくはああでもないこうでもないと船員たちのあいだで対抗手段を練っていたが、午前七時ごろに全員甲板に集まるように艦内放送があった。
到着すると、いったいどこから入ってきたかもわからない武装集団が、船員二十四人全員を横並びに座らせていた。横山は、その並び方に、往年の国家が実施した虐殺の光景を重ねて見たらしい。
干物ができるほどの晴天だった。
横山もまた、同様に座って、両手を後ろで組まされた。うかつに逆らえば殺されるだろうという勘だけが働いていた。
「──そこに、おんながやってきました」
銃を持って並ぶおとこたちのど真ん中に、黒い日傘を差したそのおんなの際立ち方は異常だった。静脈の色がうかがえるかと思うような、透き通るほど病的な白い肌と、泣きぼくろ。髪はストレートだったが、毛先にウェーブの名残りのような独自のクセがうかがえた。
おとこたちはサングラスや覆面をしていたから、国籍はわからなかった。日本語も流暢に話していたから、全員とは言わないが日本人が少なからずいた印象を受けた。しかし、彼らはおんなのことを「ユエ」と呼んでいた。中国語で「月」を意味する、人名としてはさほど珍しくはないことばだ。
おんなはスーパーに陳列した生鮮食品の鮮度や消費期限でも見るかのように、つぶさに各員の顔からつま先に掛けて眺める。
その眼差しの、あまりにも冷徹な鋭さに、横山は自分のいのちに値段が付けられることの恐怖を思い起こした。
やがて、おんなはこう言ったという。
ゲームをしましょう、と。
「いまから怪物があなたたちを追いかけるわ。どこから出てくるか、どうやってあなたたちを襲うのかはわからない。ルールは鬼ごっことおんなじ。日が暮れるまで逃げ続ければあなたたちの勝ち。だけど、それまでにみんな捕まったら負けになる」
説明していくそばから、船員を縛っていたロープがほどかれる。このままおんなに抵抗しても良かったのかもしれないが、依然として銃口がこちらを向いていた。うかつには動けなかった。
「さっき呼んだっぽい助っ人は、大いに使ってくれて構わないわよ。それまでに生き延びられれば、だけどね」
ぱん、ぱんと注目を集めるように手を鳴らす。
「じゃ、ゲームスタート。恨むならあなたたちの会社を憎むことね」
そこからあとの話は、語るだに恐ろしい。
武装集団が湯煙のごとく唐突に船上からいなくなったかと思うと、船員の背後からあの大型犬とイグアノドンの折衷のごときけだものが現れて、次々と襲い始めたのだ。
その口はワニのごとく大きく、人間一匹をきれいに挟んで文字通りの鵜呑みにした。その気になれば噛み砕いて殺すこともできただろうに、あえてそれをしないところを見ると、武装集団のほうで訓練されているのかもしれない。とにかく船員はみな一目散に逃げ出し、あるものは船室、あるものは食堂、あるものは……と隠れたのである。
「でも、ダメだったんですね」
横山は俯きながら、そう言った。好々爺にも見える顔のシワが、年齢以上に深く険しく刻まれていた。
「……どうしてこんなことになってしまったのか。わたしたちはただ、レアアース泥を運んでるだけだったのに」
おもむろに、石室が口を開いた。
「そのおんなや武装集団が誰だったのかは分かりかねますが、資源を巡って領土・領海でトラブルが起こるのは、ここ数年目立ってくるようになりました。
多くは怪獣退治のため、流通や交易が絶たれても国民の生活レベルを維持するためという大義名分とセットで語られます。けれどもそこにはいびつな国益が絡んでいる。今回の件は、巻き込まれたとはいえ、そうした背景も少なからずあると思います」
尖閣諸島や竹島などの領土問題はいまなお解決されていない。そもそも日本最東端の南鳥島それ自体が、海産物や海底資源を排他的経済水域に収める機能を果たしていることもあまり知られてなかったりする。
したがって他国の密漁や秘密採掘が割り込むと、事態はややこしくなる。レアアースのそれに至っては、世界最大級の鉱床であるからしてなおさらだ。近隣各国はあわよくば欲しいと思う。そこで非合法に行動を起こすものもいる。そうならないために皇重工は海上プラント〈多々良〉の計画を立て、早急に開発をするようアプローチを続けてきた。
その試みは完成されたものではない。資金不足や他国からの非合法な干渉で、あっけなく崩れるほどの脆いものだ。
だからこそ会社組織として何も知りませんでした、と言うわけにはいかないのである。
「でも、彼らはなにも持っていきませんでした。船も、その積み荷も」
「ほんとうに? お話を伺う限りでは、横山さん自身の目で確認されてはいないはず。武装集団はすでに目的を果たしたからこそ、この船を離れ、先ほどの小型怪獣がわれわれを待ち構えていたように思われます。彼らの真意をここで決めるのは早計です」
「しかし、わたしたちが見たのは〈多々良〉でレアアース泥を──」
と、言いかけて、横山は首をかしげる。
「──おっしゃる通りかもしれません」
「というと?」
「今日だけ特別に大きな塊を積んだのを思い出しました。やけに大きかったものだから、船員同士でうわさしあっていたんですよ」
「それはいったい──」
「わかりません。しかし確認する必要は感じますけど」
石室は数秒間沈黙し、うなずいた。
「船倉部のチェックを急ぐぞ」
威勢の良い返事とともに部屋を出ようとする一同だったが、庚は扉を開けた直後に違和感を覚えた。
「あれ、麻宮さんは?」
いない。空気が一変した。まだゲームは終わってなかったのだ。




