3.竜角海域
「竜角海域?」と庚は訊き返す。
吉田はうなずいた。
「魔の三角地帯はご存知ですか?」
「船とか飛行機が遭難するっていう、あれでしょ?」
「そうです。竜角海域はその日本近海バージョンだと思ってもらえればわかりやすいかと思います」
遭難が多発する原因については、まことしやかな説から突拍子もない説まで、諸説入り乱れている。しかし吉田を始めとする呪術関連の識者の見解はほぼ一致していた。
常世。この世ならざるものの居場所であり、あの世とも、幽世とも、呼ばれている。その異界との接点があるのが、この海域の底だと言うのだ。
「浦島太郎とか、向こうだとリップ・ヴァン・ウィンクルとか、そういう昔話でよく聞くやつです。時間の流れが違う世界なんですよ、常世って。だからそういうのが近いと、いろんな怪現象も起こりやすいんです」
「ああ……なるほどね」
庚には何か腑に落ちることがあったらしい。吉田がむしろ驚いた。
「先輩って、ふしぎなところで呑み込み早いですよね」
「ん、そう? まあ学生時代に時空の歪んだところに飛ばされたことがあってさ」
「……まじっすか」
唖然とせざるを得ない。
「まあそんときはお台場で、なんか江戸時代っぽい街並みに飛んだんだけど。映画のセットみたいでさ。あんときも船があったなあ。空飛ぶ船だったけど。まあ、そんな感じ」
「ごめんなさい。まじでわかんないっす」
「わたしもわかんないんだよね。常世ってたぶん、それぐらいわけわかんないところなんだよきっと」
吉田は聞きながら、〈超常捜査班〉に常識人は自分以外いないんじゃないかという懸念を深くしていたのだった。
しかし庚はふと思い出したように、吉田の肩を叩いた。
「石室さんにこのこと、伝えなくていいの?」
「あ、そういえば──」
見れば、海上保安官六名が打ち合わせている真っ只中だった。
今回の作戦では、あくまで庚たちはサポートに徹することになっている。山崎ひかり女史の単独行動はあくまで例外で、庚たちは基本的に海上保安官の作戦行動に対するアドバイスや補佐を行うものだった。
吉田がそこに割って入ると、簡潔に状況を説明する。石室の表情が見る見るうちに変わった。
「なぜそれを早く言わないんだ」
「すみません。しかし対処法はあります」
彼が懐から取り出したのは、円形の方位磁針だった。その針は橙色に透けて見える金属でできており、荒れ狂う波しぶきに揺れる船内であってもなお微動だにせずに一点を差し続けている。
「竜角海域では通常のコンパスは意味を持ちません。しかしこれは特殊な力にのみ引き寄せられる仕掛けです。この指す方角に進路を向ければ、この海域からの脱出は可能です」
「有難い話だが──しかし、このようなものがあるならなぜ人類は怪異に怯えなければならないんだ?」
吉田は首を振った。
「残念ながら、この磁石の針は特製品です。独自の技術と知識を持った鍛冶師にのみ打つことが許される呪的なものと心得てください」
「ヒトが作れるものであれば機械にも作れるのではないのか?」
「あいにく呪術はそのようなものではないのです。それは、たぶんAIに心は宿るかどうかという問題に近いと思います。残念ながらまだ結論の出ていない話なんですよ」
「ふむ……」
煙に巻かれたような顔だった。
「まあ、いい。ご協力感謝します」
「いえいえ」
それから一同は二人一組で四つの班を組んだ。石室が率いる二組のペアは貨物エリアへ、庚は副長の麻宮徹と二人で機関室を再調査することになった。
吉田は操舵担当とブリッジに残り、式神を駆使した連絡網を管理する。それで話はまとまった。
「ちょっと待っててくださいね」
操舵室の隅で脚を組むと、何やら念仏のごとき文言を唱える。
とたんにどこからともなくちゅうちゅうと鳴き声が聞こえてきて、吉田の肩に、手のひらサイズのネズミが登ってきたのだ。
「なにこれ」と庚。
「今回の式神です。鳥とかにすると視線の高さを合わせるのが難しいんで、みなさんの肩をお借りして中継させていただきます」
「ん? ということは……」
「山崎先輩にもいちおう、つけさせてもらってますよ。だからその気になればいつでも連絡取れますね」
「やるね」
「いやあ、それほどです」
言うや否や、庚は山崎ひかりに連絡を取ろうとする。しかし何度話しかけても、応答がない。けげんに思った吉田が、式神の気配を丁寧に辿って、その視界を受信しようとした──
そのときだった。
吉田の肩から腰に掛けて、一直線に斜に切り傷が迸ったのは。
「吉田ッ!」
仰向けに倒れ掛けたからだを、とっさに庚が支える。ごふっと血の塊を吐いた吉田は、周囲の動揺を制して、上体を起こした。
「大丈夫です。式神の傷が返ってきただけですから」
「おい、てことは──」
「少なくとも式神はやられました。やっぱりこの船には何かがいます。そして、それは恐ろしく早く、気配を隠すのがうまい」
「──それは、術者なのか?」
石室の問いかけに、吉田は首を振った。
「わかりません。ただ、あれは人間離れした速度で襲ってきました。相当な身のこなしでなければ、怪獣の一種と考えたほうが良いかもしれないです」
「暗がりに潜む、敵か……」
石室が判断をためらっていると、庚は居ても立っても居られなくなって、立ち上がる。
「ザキヤマ先輩は?」
その問いに応えられる人間は、誰もいなかった。




