10.怪獣がまどろむ時
本栖湖は赤く染まっていた。夕暮れと怪獣の血との、このふたつによってである。
「やー、あんときゃさすがにどうなるかとおれは思ったよ。無事で良かったな、お前ら」
「ヨク言ウヨ……」
吉田はため息だけ吐いた。もう慣れているから、言っても無駄だと知ってるだけだ。
傍らではまだ無邪気な虎落丸が、人型のまま文句を垂れている。かく言う虎落丸とて、平田の前で歌って踊って自己紹介し、挙げ句の果てには「ダケド何ノ役ニモ立タナイー、ダッテワタシハタダノろぼっとー」とのたまったのである。吉田にとってはもはやどっちもどっちだった。
──時間をいったん巻き戻そう。
庚が上昇するのと同時進行で、ラガルの突進を食い止める特駆群の戦いは繰り広げられていた。
怪獣が世に現れてからはや三年。その期間に現れた怪獣・妖怪・怪異は数知れず、度に出動を繰り返しては、〝専門家〟の入れ知恵を伴ったがために、腕は慣れたものだった。
本栖湖に向かう途上、ラガルが遭遇したのは藍色の煙幕である。その名も妖力妨害煙幕。怪獣の生まれつき備わっている異能、それを支える妖力を削り取るための作用を持った装備だ。
怪獣という存在が、簡潔に言って通常の生物とは常軌を逸して〝怪〟なる語を冠するは、まさしく通常の力学や生物学の論理を超えたところにその生態を位置付けるからだ。その身にそぐわぬ飛行能力、熱光線。代謝機能に決して不釣り合いな巨体と食生活などなど。怪獣にはまだ不明な点が山ほどある。
過去の解剖と研究から判明したのは、妖力なる不可視の作用が存在し、それが怪獣を怪獣たらしめていることだった。
通常火器による攻撃にもそれなりの効果を示してはいた。が、それにしては明らかに怪獣側はよく持ち堪えていた。さながら一個の戦艦・空母であるかのごとく、圧倒的で不可解な体組織を備えているのだ。
それが生物学的には解明できなかった。したがって非科学的ではあるが、妖力および呪術の存在が自衛隊や学界、首脳陣にも認められるようになったのだ。
もちろん、極秘裏にではあるが。
本栖湖キャンプ場付近に居並ぶ戦車と、特殊呪術装備の群。その向こう側では藍色の煙幕に揉まれて消耗しつつあるラガルが、それでもなおと、水場を求めてのたくっている。
ラガル自身、すでにヤタガラスに重傷を負わされていた。活動停止まで時間の問題だったかもしれない。しかし生命の性か、両生類ゆえの本能か、水辺というすがる希望を見いだせば、止まらなくなるのがさだめというものだった。
おおおおおん、おおおおおおおん
泣き叫ぶような、掠れた蝦蟇の鳴き声のような、重くて悲痛な音が、樹々を押し倒しながらも迫ってくる。
ガスマスクを被った各部隊のおのおのが、これをどう感じていたかはここでは書くことができない。しかし彼らは見事にその任務を全うしていた。
煙幕からぬっと突き出した頭部から頸部に向かって何発もの麻酔弾が撃たれる。
その一発一発がヒトの腕ほどもあるダーツであり、巌のごとき表皮を貫く。当初は痛みにもがき、血走った眼がひとびとを睥睨していたが、それから白目を剥きつつも、前のめりに倒れ落ちた。
勢いづいて土煙があがり、視界を遮る。隊員が咳き込む音も聞こえる。しかし怪獣は活動を停止したのだった。
これがヒトのできる慈悲だった。
弱肉強食の競争に敗れたものの活力を奪い、麻酔を打って眠らせる。次に目覚めるときは、自由という名の監獄──さながら動物園のごとき〝飼い慣らされた自然〟の中に取り込むのが関の山だったのだ。
いっぽう、虎落丸の力を借りて上空にあがった庚が目の当たりにしたのは、いまにも熱戦を発さんばかりのヤタガラスの嘴だった。
「げッ」
とっさに「引力自在」の最後の呪力を振り絞る。スニーカーから大地に向けて力が逆転し、ふわりと一瞬だけその身を持ち上げる。途端、先ほどまであった場所に熱線が一直線に樹海に降りていった。
まさに好機だった。いま、庚はヤタガラスの頭上から、一気呵成にこぶしを振り下ろす位置を取っている。
こぶしに力を込め──そして。
「──まあ、いろいろあったが、怪獣はみんなぶっ飛ばしたわけだわな」
平田はそうやってこの二時間余りの苦労をひと言で要約する。
そうなのだった。庚の最後の一撃は、ヤタガラスの巨躯を流星のごとく大地に叩きのめしてしまったのだ。その衝撃は破城槌を高速で脇腹に叩き込まれたようなもので、妖力を出し切った身には、もはや重力に任せて墜ちるしかできなかったのである。
ひとびとが見たのは、黄昏に向かって墜ちてゆく巨大な翼──その影だった。
そして、その落下先は本栖湖である。
あとはお察しだった。
「まあヤタガラスの属性は火で、五行的には水には弱いんだけどな。おかげで始末書書く枚数が増えちまったじゃねえかよ」
「まあまあ……」
この事態を引き起こした張本人は気を失って倒れている。
虎落丸によって怪我人を世話する天幕に運び込まれ、現在に至るまで、ずっと寝たままだった。
「あの擬神器、三回目使うと軽く二時間は意識が飛ぶからなぁ。おまけに反動もひどいのに、よくやるよな、あいつも」
「だったら明日代休にするべきですよ。結局のところ、先輩に全部やってもらっちゃったじゃないですか」
「まあ、そうしたいのは山々なんだが、明日も明日で仕事があるからな……」
吉田の目が細くなる。
「──やー、ほんとはおれたちの仕事がないほうが良いんだよ。そうじゃないのは、ホラ、世の中がまだ色々良くないことだらけってことでな」
「わかりました。ぼくも早いうちに転職先でも探しておきますんで」
「ちょっとお、吉田ァ……冗談きついよ」
「じゃあ、お先に失礼します」
さっさと帰宅ルートを取る吉田を追いかけようとするも、そんな平田の肩に椹木三佐こと椹木信彦が手を置いた。
「平田よ、さっきPIROのタカサゴってやつから緊急で連絡あったんだが、関東支部の局長からイロイロあんだってよ」
「エェ……どうせ本栖湖にも怪獣いるから刺激すんじゃねえとか、そういうことでしょ」
「わかってるならせめて説教ぐらいは受けるのが筋だな」
「ハァ、中間管理職はまじでつらいわ」
何をどう理屈を捏ねたところで、この世界に怪獣はまだまだ沢山いるのだ。その全てを人力で駆逐することは当面できそうもない。
もしできたとすれば──それはきっと、この世界から神話や伝説、民話の悉くが滅ぼされたときのことだろう。
平田はぼりぼりと頭を掻きながら、本栖湖畔から引き揚げられたヤタガラスの遺骸を見やる。特駆群はここからが忙しい。その巨躯の解剖、臓器の処理、最終処分場への輸送、事務仕事を含めたその他もろもろ。怪獣退治も楽じゃない。
そしてそれらの後始末を見届けるのも、今回の平田の仕事として追加されていた。少なくともテロリスト・グループが解き放った怪獣のうち、ラガルのほうを施設に戻さなくてはならないのだ。
そういえば──施設のほうだって後始末が面倒くさかった。
津島実次の死亡により、今回はテロリスト・グループにまんまと逃げられてしまったかたちとなる。その件でも始末書がさらにもう一枚。襲われた施設の警備員も記憶が消されており、《HOUNDS》の情報はまるで得られないままだった。この件でも始末書を書かなければならない。
この調子で数え上げていけば、きっと考えるより先に始末書執筆に取り掛かったほうが早いと気づく羽目になる。考えるのはとうに辞めていた。
「まったく今日も徹夜かなあ」
椹木が作業に戻るのを見届けながら、平田は独りごちる。
「現場の奴らはいいよな。呼ばれてひと暴れすりゃ仕事になんだから。こっちはこれからが大変だっつうのに、吉田は帰るわ、岐はグースカ寝やがってよ……」
ため息を吐いた。
怪獣が眠ると日常が戻ってくる。しかしヒトの日常では、まだ安眠は許されなかった。
【次回予告】
──月が盈ちる時、海は荒れる。
そこは竜角海域と呼ばれていた。バミューダ海域のそれに匹敵しうる、東洋の魔の三角地帯。消えた飛行機、船舶数知れず。
そんな最中を極秘の輸送船が波を切る。乗り合わせるは庚と吉田、そしてもうひとりの捜査班員。新登場のメンバーは、前回非番のおんなでもあった。
彼らはふとした瞬間、竜角海域の異界に取り込まれることになる。
そこで出会うは竜宮の御使いか、はたまたは海棲の怪獣か。彼らは荒れ狂う海で不条理のゲームに鉢合わせる。音もなく次々と消されていく人間を目の当たりにして、果たしてなすすべはあるのか?
次回『鼠と竜のパーフェクトゲーム』。
もっとも暴力的な番狂わせ。それは偶然のみがなしうる業。
※次回は2021年6月中旬〜下旬に公開予定です。




