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1937年1月26日午後1時14分―同日午後1時48分

 「挙国内閣の実績に満足すべきものがあるとはいえない、それは挙国内閣の構成と運用とについて深く考慮しなければならぬものがあるからである。同じ政党の中にも種々の考えがあり、同じ官僚や軍部といっても必ずしも同一の考えが支配しているわけではない。従って、各方面を通じて猛省一番しなければならぬのはわが国の当面している時局の認識である。この認識に異るものがあれば、いかにその構成が挙国的であってもその実績は挙国的支持の下に実現されない」


 ――近衛文麿


 1937年1月26日午後1時14分

 東京府麹町区永田町二丁目(赤坂見附) 料亭『幸楽』


 このままではいつまで経っても誰も料理に手を付けないので、一旦話を区切って、食べながら話すこととした。

 本来であれば酌を継ぐのは、新参である今朝吾けさご君の役目ではあるが、話の主軸を握っているのも今朝吾君であるため、それをさせるとてんてこ舞いとなってしまう。

 決まり切った形式は重要だが、それに固執するあまり本質が疎かになっては本末転倒である。無論、必要なときに決まったことが出来ない者に腹を割って話すことなど出来るはずもないので、一概に形式が不要という訳ではない。


「……で、だ。

 西原さん。近衛公の動向は掴んでいるか?」


 ここで思いを馳せるは、私の他に首相候補として名が挙がっていた若き貴公子である。


「まず。近衛公は現時点では問題とならないかと。

 廣田さんの内閣を組閣する前に健康問題を事由に大命を拝辞しております。その廣田さんが潰えたからといって、すぐ出て来たら不興を買いかねないことは、近衛公自身が一番把握しているでしょう。故に、組閣の障害にはなり得ませぬ。

 が、宇垣大将の内閣が成立後の反宇垣の旗頭として担がれる可能性が高いです」


 まあ、近衛公が前回御出馬しなかったのは、二・二六事件の事後処理を任される内閣であったからだろう。西原さんの言に続けるように東京朝日新聞社常務取締役の美土路君が口を開く。


「……というか、近衛文麿公爵自身が皇道派の荒木・真崎両閣下と連携を取っておりましたからね。自身の政治的な盟友を切り捨てるのを嫌ったのでしょう。……それどころか、二・二六の以後は、むしろ積極的に皇道派の軍人の救済に動いている節がありますね。現在の陸軍へのカウンターパートナーとして毒を以て毒を制するお考えなのでしょう」


 政界・財界そして民間人気。その全てを兼ね備える近衛公の最大の武器は、何よりも若いインテリだということだ。弱冠46歳。この場に居る誰よりも若い……どころか、まだ大佐である石原氏よりも若い。

 しかし貴族院では議長を務め政治経験としては申し分無い。これに平安で権勢を誇った誰もが知っている藤原氏、その正統な血筋である五摂家の1つ、近衛家という血統、そして東京帝国大学から京都帝国大学へ転学し卒業するというエリート振りを見せつけられてしまっては、最早彼の者を推さずに誰に期待するという時流が形成されるのも仕方が無い。

 若さ・経歴・家柄・人気……そして彼を支えるスタッフ。その全てが日本のありとあらゆる政界人の最高水準で兼ね備えている近衛公は流石に人物である。


「近衛公のブレーンである『昭和研究会』には、確か大蔵君が常任委員として名を連ねていたよな?」


 私がそう尋ねれば、今井田君がこれに反応する。


「ええ。昭和研究会では、満鉄理事であった大蔵さんの知己を活かして満州問題を中心に携わっていると聞いております。また、彼の打ち立てた民間団体である『国策研究同志会』と昭和研究会のメンバーには大蔵さん以外にも二股している方はいらっしゃるようで……」


「……であれば。『国策研究同志会』と大蔵君の伝手で近衛公の動向は掴めるな」


 そこまで言い切ると、美土路君が再び口を開く。


「昭和研究会であれば、朝日ウチの論説委員である佐々弘雄委員も常任で参加しておりますので、そちらからも探ってみますね」


 流石、全国紙を拵える新聞社である。手が広い。



「ああ、そうだ。今朝吾君は近衛公に対してどう考えているか?」


 この男の意見は、憲兵を使役しているからなのか異様に視野が広い。聞いておいて損は無いだろう。寺内君との話し合いの中では宮中筋の情報すらも掴んでいた。

 その見識が若き貴公子の周囲にも及ぶのか見定める意図もある。


「……難しい質問ですね。

 まず1つ分かりやすい所から。陸軍部内は近衛公の人気を正しく理解しておりますが、同時に皇道派に同情的なことも知っています。

 時流に逆らってまで近衛公に反旗を翻すことはないでしょうが、宇垣閣下以外の陸軍内閣を作れるのであれば、そちらを優先するでしょう」


 これは、越境将軍の林銑十郎君が首相候補として囁かれていることに関係する話だろう。つまり、私が組閣をしている今この瞬間に限って言えば陸軍の推す首相候補は林君であり近衛公ではない。だから近衛公の陣営に陸軍が参画する可能性は今だけはやや薄くなるということとなる。


「……次に。近衛公本人とその一派ですが。

 陸軍関係では皇道派、海軍の伝手は末次信正さんで艦隊派の中心人物。議会では第4党の社会大衆党と連携しつつあり、ここに御学友の革新華族や、革新官僚やら平沼騏一郎議長との係わり……。挙げればキリが無いのですが、先程美土路さんの言葉にあった『毒を以て毒を制す』という原則に近衛公は徹頭徹尾従っているのですよね。

 ――端的に言えば、国粋主義者から社会主義者まで幅広く集めているわけですが」


「何が言いたいのかな、今朝吾君?」


「……近衛公と関わりがあるのは、現状打破勢力ばかりです。

 政治信条も出自もバラバラ。だから足並みは確実に揃わない。近衛公自身はそれらの調停者として主流派に立ち向かうという考えなのでしょうが、手勢ですら政治的な纏まりに欠ける。

 なれば、近衛公の取れる政治公約は――現状の打開、と私は考えます。

 そして現状の打開とは、外交政策によって……」


「皆まで言うな。

 ワシントン体制の打破――即ち英米との決別で、あろう?」


 極東アジアにおいて、日本を盟主とする新体制の再構築。

 おそらく、それしか掲げられるものが無い。それは即ち、反日的な政策を取る中華民国国民政府並びに諸軍閥。そして中国に権益を有する英米を始めとする先進諸国との関係を再定義するということに他ならない。


 そして、今。陸軍の手元には北支地域での戦闘計画と戦闘後の占領地統治計画がある。


 ……だから、今朝吾君は私に付いたのか。ようやく合点がいった。彼は最初から一貫して対中戦を避けようとしていた。

 しかし次期後継首相候補は、現状打破勢力の希望の星である近衛公。陸軍のロボットにしかなり得ない越境将軍の林君。そして、観念右翼の総帥たる平沼議長。


 誰が就任したとしても対中戦争を躊躇しない、もしくは自身の後援者によって躊躇させない状況が作り出されるだろう。だから今朝吾君は私に対して、首相の長期就任を求めている。

 それが、美濃部さんまで呼び出して優諚の利用を伝えた理由か。仮に私が首相に就けても、それが短命内閣では意味が無いというわけか。


 ただ1つ気になるのは。私が何故戦争に否定的だと気が付いたか、である。

 ……それは彼に聞いてもおそらく「憲兵司令官だから」としか答えないだろうがね。




 1月26日午後1時31分

 東京府麹町区永田町二丁目(赤坂見附) 料亭『幸楽』


「対支、そして対ソ戦略を鑑みるに、アングロサクソン国家との協調は必須だと私は考えている。少なくとも国民政府や中国共産党を相手取る場合でも、英米と歩調を合わせねば話にならん。

 故に、そこらを念頭に置かず北支を切り取ろうとするなど、私が政権を担ったら容認する積もりは無い」


 近衛公の話から国際関係への見直しや秩序構築の話が出たので、一度ここで私の立場を改めて鮮明にしておく。

 そもそも、戦争そのものも反対なのだ。今、この瞬間にも我が国の産業は興隆しているのにわざわざ戦争などで水を差すこともあるまいて。


「……ですが、先の廣田さんの内閣の折に、対独関係の強化に既に舵を切ってしまいましたが。

 この情勢下で、再度親米・親英路線となりますと反発の声はあるでしょうな……」


 そう話すのは溝口君。これに美土路君が反論する。


「いやいや、意外とその声は小さいやもしれませぬよ溝口さん。

 かつての主流派である英米派は外務省内部に未だ健在ですし、何より廣田さん自身もドイツとの交渉は英米への関係改善の叩き台と考えていた節がありますし」


「だが長らく停滞していた日独防共協定の交渉が再開し、締結されたのは記憶に新しい。廣田前首相は親独派ではないだろうか」


 この言葉に即座に返したのは案の定今朝吾君だ。


「いえ。廣田前首相は先の協定を、加盟国を増やして有名無実にして、見かけは対ソ包囲網、実質は九か国条約のような形に変質させることを目論んでいたようで。確認出来る限りですと、ベルギーやオランダ、ギリシャ辺りまで訓示を飛ばしていたようです。……無論、駐英大使にも。

 まあ駐英大使の『吉田茂』さんは、外交の柔軟性を損う防共協定にそもそも反対で、イギリスにとてもでないがドイツ主導の条約など取り次げないと突き返したようですが」


 よくもまあ、このような情報を仕入れてくるものだ。

 しかし、廣田さんの考えも理解できないことは無い。あくまで陸軍の動きと協調しながらも英米との関係を改善しようと考えれば、取り得る手段は、そのくらいしかない。

 だが一方で吉田大使とやらの言も的を射ている。ただ一つの単独の政党の党大会が国家のアイデンティティと指針を策定する場となっている今のドイツは異常だ。ましてや、指導者の個人的なキャラクターが国家の行く末を左右するなどというのは凡そ近代国家と在り方としても逸脱している。

 孤独であり逸脱。だから『独逸』なのかもしれないが。


 そこまで、話を黙って聞いていた西原さんが口を開く。


「……まあ、廣田さんの政治信条はこの際重要ではないですがね。

 肝要なのは結果である。無力で非力であったとはいえ国際連盟を脱退した我々には多国間協議する場は限られている。

 そして防共と銘打っているとはいえ、我々はドイツと組んだと国際社会にみられている。これに対する考えは如何に?」


「――まあそうですね。国際連盟を抜けている以上打てる手立ては限られているでしょう。

 まずは、奇策の類ですが。幸い1940年に夏季東京オリンピックと、冬季札幌オリンピックを控えております。

 スポーツの祭典ですが、やはり参加可否などは政治的な情勢に左右されます故に、逆手に取るというのはどうでしょうか。


 そして、もう1つ。非政府組織ではありますが――太平洋問題調査会。国際連盟を抜けた今、主要国の参加する多国間会議に日本の席があるのは、此処くらいです。

 そして何より、日本支部の日本太平洋問題調査会には、鶴見祐輔さんが所属しているので宇垣閣下であれば最大限に活かせることでしょう」



 試すような西原さんの問いに対して現実的方策かはともかくとして、鋭い切り返しをみせる今朝吾君。口八丁ではあるが、ここまで確たる返答が出来れば彼は陸軍部内で職を失っても代議士としてもやっていけそうである。

 オリンピックに関しては見せ札で本命は太平洋問題会議なのだろう。鶴見君のネットワークを掴んでそれを利用しろと本人の居ぬ場で言っているのだから、私が言うのも何だがどす黒い。今更だがね。


 すると、ここでも美土路君が口を開いた。


「……ああ。

 太平洋問題調査会と言えば。先に話しました尾崎記者も所属しておりますね。こちらからもアプローチが可能ですよ。

 つまりは、尾崎君を危うい満鉄からは離して、調査会での業務に割り当てれば良いのですね、中島今朝吾君!」


「……そうでしたね。尾崎秀実……記者も、調査会との縁があるのであれば、こちらに注力するのもありでしょうね」


 おや。少し今朝吾君の口がくぐもったか? いや、まだ彼とは日が浅いから声の調子だけで判断するのは早計か。


 ……まあ、良い。

 それよりも今朝吾君にはより重要なことを問う必要がある。


「ふむ。君の外交判断は分かった。

 だが、らしくないな。大事な陸軍のことがすっぽりと抜けておるではないか。

 さて今の陸軍で、英米との協調を理解しており北支進出などという妄言を言わず、ソ連の現在の実力を正確に把握し、非戦に努めながらも対ソ戦略を練れる人材は居るか?」


 ……我ながら無茶を言っているとは思う。

 しかし陸軍の伝統的な仮想敵は英米でも中国でもなくロシアなのだ。対ソ戦略をまともに考えれられぬ者を引き立てるつもりはない。

 そして英米協調と中国に対しての戦争回避。これは我が内閣の既定路線になるが故、外せない。


 だが、これだけの注文を満たせる人材など……。


「……1人だけ居りますね。

 赤軍の戦力強化を目の当たりにして対ソ戦を10年絶対非戦を掲げて、対ソ集中の観点から中国に対する攻撃など言語道断だと考え、かつ産業資源輸入の観点から英米とは協調を唱える者が――」


「ほう。今の陸軍にも人物が居るではないか。

 名を覚えておこう。聞かせなさい」


 そこまでの見識と視野があれば、私の耳に届いても良いものだが。

 よもやそのような原石のような人物を陸軍部内は取りこぼしているのか、何と勿体ない。普通に考えれば、今の陸軍の中枢を左右するような人物になってもおかしくない程の有識者ではないか。



「はっ、宇垣閣下。

 ――その人は、石原さん。

 閣下の内閣を最も強硬に阻害せんとている石原莞爾大佐ですよ」

※用語解説

 本作に登場する用語をこちらで簡単に補足いたします。

 解説事項は作中時間軸である1937年までの事項を基本的には前提としています。



五摂家・近衛家

 五摂家は鎌倉時代に成立した藤原氏嫡流の5家(近衛家・九条家・二条家・一条家・鷹司家)。かつて藤原道長、頼道親子が内覧・摂政・関白を72年に渡り務めたことから藤原道長の嫡流による摂関世襲が慣例化され、時代を経るごとに、その藤原氏嫡流が分派し、この5家が主流となる。この五摂家以外が摂政・関白に就いた例は慣例化以後は豊臣秀吉・豊臣秀次のみで、明治期の太政官制施行(後に内閣制に移行)で律令制が終焉するまで五摂家が当職を独占した。その後も皇室嫡流の正室は、皇族もしくは五摂家の女子のみという慣習が残るなど宮中影響力は依然高い。

 そして、近衛家は平安末期の近衛基実を家祖として(藤原氏としての血筋で見ればより古い)、鎌倉・南北朝・戦国・江戸期に至るまで近衛家は常に貴種として朝廷政治と関わり続けた。またかつて近衛家の荘官であった関係から島津家との関係は良好であった。しかし近衛信尹の代に嫡子が居らず、皇室から養嗣子を招き入れている。

 そして明治期に華族令により公爵に就任したのが近衛篤麿。その篤麿が伝染病で死去した後に12歳で近衛家当主として就任したのが近衛文麿であった。


艦隊派

 ロンドン海軍軍縮条約(1930年)にて、当初の海軍の要求であった「主力艦・補助艦対米7割、潜水艦現有戦力保持」が満たされず「補助艦対米6割9分7厘5毛(69.75%)、主力艦対米6割(ワシントン海軍軍縮条約から変更なし)、潜水艦日米同量(2万t削減)」という妥協案で成立、その妥協案に賛成した海軍内部の勢力を『条約派』、反対派を『艦隊派』と呼んだ。

 但し先のワシントン海軍軍縮条約(1921年)にても同様の主力艦対米7割を主張してたが対米6割であったことを考えれば、補助艦の69.75%という比率はアメリカから譲歩を勝ち取ったとも言える。が、海軍で派閥が二分されるまで強硬に反対派が出た理由は、主力艦の代用となる大型の条約型巡洋艦が新たに主力艦として対米6割に組み込まれた上に、潜水艦保有に制限が加えられたためである。

 前者(大型巡洋艦比率で反対した理由)は洋上で艦隊決戦を行う上の基本原則として『彼我の勢力比は、静止状態の勢力の2乗に正比例する』という理論があったからで、7割という数値は戦闘行動中においては戦力比100:49となり、ほぼ2:1となるが敵戦力差2倍であれば戦術的工夫(邀撃漸減)でもって対抗可能と考えられていた。しかし実際には主力艦比率は対米6割なのでその不足分を条約型巡洋艦で埋めるつもりであったが、それすらも対米6割となってしまったため作戦遂行に支障が出るとして条約調印に反対したのである。

 そして後者(潜水艦保有制限で反対した理由)は邀撃漸減作戦の要である潜水艦が作戦遂行に必要な数が揃えられないという問題が生じたためである。

 その後人事による両派の海軍内部での派閥抗争は繰り広げられるが、陸軍の皇道派・統制派のような流血や軍事クーデター計画が飛び交うものではなく、比較的穏やかに両派の中心人物がこぞって世代交代したことにより軟着陸することとなる。


ワシントン体制

 1921-1922年に行われたワシントン会議で締結された、四か国条約・九か国条約・ワシントン海軍軍縮条約により決定されたアジア・太平洋地域の国際秩序。ヨーロッパの秩序を示すヴェルサイユ体制の補完的性質も有する。

 ワシントン体制の成立により日英同盟は四か国条約(米・英・仏・日)に発展的解消。しかし、このワシントン体制の枠組みに無いソ連は条約に縛られずに中国での影響力を徐々に拡大、また満州事変や華北分離工作といった現状を打開する動きが日本でみられたこと、そして中華民国側でも抗日政策の一環として欧米各国との連携強化として現状打開勢力が拡大しつつあり、既に本体制は風前の灯火となっている。


観念右翼

 明治時代あるいは幕末に源流を置く日本精神主義的な諸団体を指す。主義主張はおろかどの団体を観念右翼にカテゴライズするかという定義自体に曖昧性があるものの、一貫しているのは天皇を不可侵として捉えていること(これは天皇親政支持である場合と、天皇を俗世に関わらせない神聖化の方向性のいずれの場合もある)と、旧態依然とした幕藩体制への批判が根底にある。

 なので『天皇に直接指名された単一の政治組織が国政を担う』という一党独裁制に対しては、その在り方そのものがそのまま江戸幕府であるため絶対反対の立場を取っている。


日独防共協定

 1936年11月25日に調印された共産インターナショナル(コミンテルン)に対しての共同防衛を確認した条約。正式名は『共産「インターナショナル」ニ対スル協定』。交渉そのものは1935年1月から断続的にお互いの(・・・・)外務省を通さずに日本側は軍部、ドイツ側は形式的な外交官権限しか有しないリッベントロップと彼の機関によって内密に進められた。

 結果的には実効性も中身も無い骨抜きの条約であるが、ドイツ側はこの協定をソ連に適用するのではなくヴェルサイユ体制の打破、すなわち対英戦略の一環と考えていた。


太平洋問題調査会【Institute of Pacific Relations:IPR】

 1925年に環太平洋地域内の民間レベルでの相互理解・文化交流の促進を目的として設立される。公的・非政府問わず環太平洋域における国際研究機関は唯一無二と言え、以後2~3年に一度のペースで断続的に開催地を変え国際会議が開かれる。

 直近では1936年8月にカリフォルニアのヨセミテで開かれ、参加国は日本、アメリカ、ソ連、イギリス、フランス、中国、オランダ、オーストラリア、ニュージーランド、フィリピン・コモンウェルス、オランダ領東インド(インドネシア)と錚々たる面子が揃った。

(現在では資料の公開によりアメリカの共産主義者や中国派によってアメリカ国内世論を誘導するために利用されていたことが明かされている上に、そもそも当時の日本IPRの会員もゾルゲ事件によって検挙されているソ連のスパイや情報提供者が含まれている。)

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