1937年1月26日午後0時37分―同日午後1時2分
「(1936年2月)26日の午後には反乱軍がまた朝日(東京朝日新聞社)を襲撃する、という情報が入ってきた。実際にはこの情報は27日もそうであったし、28日になってもそれが続いていた。
(朝刊の発行による反乱軍の)再襲撃は覚悟のうえでのことであったが、実際に勇気を要することであった。
――来た時はこわいという感じは全然なかった。ワッと来た時は。その覚悟をしている時に来たから……。しかしあとから、今夜来るかもしれないとか、いまこれからもう一ぺん来るという協議をしているという情報が入ってくると、その時どういう具合に皆を(外に)出すか。今度入ってくれば相当暴れるだろうから、どういう具合に無事に出したらいいかということを考えると、その方に相当気をつかう」
――美土路昌一
1937年1月26日午後0時37分
東京府麹町区永田町二丁目(赤坂見附) 料亭『幸楽』
私の組閣本部がある麻布、あるいは此処――赤坂などは『陸軍の街』として知られる。明治の折に多大な功績を残した乃木希典大将とその妻・静子夫人が共に祀られる乃木神社は赤坂にあり、少し北に行けば陸軍大学校がある。
また兵の駐屯地で言えば、萩藩下屋敷のあった赤坂檜町には『歩兵第一連隊』、宇和島藩上屋敷のあった竜土町には『歩兵第三連隊』、広島藩中屋敷のあった赤坂一ツ木には『近衛歩兵第三連隊』が留め置かれていた。
そのような陸軍の街であったことから、陸軍軍人が接待をするための料亭やホテルなどがこの付近には点在していた。
特に戦前を代表するホテルである『山王ホテル』と、ここ料亭『幸楽』が赤坂近傍では一流どころとして持て囃されている。
ここに集まった面々は私を含めて7人。組閣本部で参謀長格を努める予備役中将の弥三吉君、同じく組閣参謀の西原さんに今井田君。これに加えて退役陸軍軍人で貴族院議員である溝口君――溝口直亮に、東京朝日新聞社常務取締役の美土路君。これに憲兵司令官の今朝吾君と連なる。それなりに大所帯である。
表向きは、組閣の中心グループに今朝吾君を正式に紹介する場だ。思えば、大命降下のため宮中へ向かう最中に車に乗り込んで以降、すっかり忘れてしまっていたが、紹介の場を設けていなかった。だからこそ、彼を『宇垣派』として取り込んだことを明示するために料亭の一室を貸し切った。これは記者らにもそう伝えてある。
だが、料亭というのは機密性が保持される場だ。組閣本部では記者が泊まり込み覚悟で設置したテントが取り囲んでいるため、真に秘匿したいことは話すことが難しい。だからこその料亭であり、組閣本部からも然程遠くない『幸楽』を選んだ。
そして、強引な突撃を防ぐために、私のブレーンであると同時に朝日新聞の美土路君をこの場に同席させている。その裏向きの理由の部分も、公開して差支えのないものは必要に応じて美土路君から各新聞社へと通達するという算段だ。
だが、美土路君は開口一番にこう話す。
「此処の料亭にはあまり良い思い出が無いですね……」
『歩兵第一連隊』、『歩兵第三連隊』、『近衛歩兵第三連隊』。
――これらは、全て二・二六事件の折に蹶起した部隊である。すなわち、此処『幸楽』は、蹶起軍により占拠され、鎮圧されるまで本部として使用されていた。
勿論、それは料亭側の責任は無い。武装蜂起したクーデター軍に対して拒絶できる民間人の方が少なかろう。それに兵卒は反乱を起こしたことすら知らずにただ上官に従った者も多かった。
美土路君の呟きに対しては、弥三吉君が拾った。
「美土路さんは二・二六の時は、どちらに?」
「会社に居ましたよ、東京朝日新聞社のね。
すると社にも輪転機工場にも兵士が侵入してきて、随分と荒らされましたよ。とはいえ、現場が機転を利かせて被害らしい被害は活字ケースくらいでしたが」
この中で二・二六事件の直接の被害者なのが美土路君なのだ。その蹶起軍の本部とされた料亭を訪れれば否応なしに当時の記憶が蘇るのだろう。
「まだ……1年も経ってないのですよね。あの帝都を震撼させた事件から」
溝口君がそう話せば、場は静寂に包まれる。
その場の空気を取り繕うように今井田君が口を開く。
「……ああ、そういえば。中島さんは、当時どちらに?」
「私はですね、事件の頃は陸軍習志野学校の校長をやっておりました。
あの時は、練習隊にあか筒やみどり筒といった化学戦装備を携行させて竹橋まで参上しましたが、蹶起軍が原隊復帰しましたので特に何もしていないですね」
今朝吾君の話した内容に再度絶句する一同。
未遂だったとはいえ、よもや帝都で叛乱鎮圧に化学兵器が投入されるところだったのか。それは私も知らなかった。
まあ銃撃戦を行い皇軍相討つくらいなら化学兵器で無力化する方がまだマシ、という判断なのか。
「おっと、忘れていたな。少し順番が前後してしまったが、彼は憲兵司令官で現役の陸軍中将である中島今朝吾君だ。此度の私の組閣に対して尽力してくれているが故に、皆に一度紹介しようと思いこのような場を用意した」
私がそう話せば、今朝吾君はその場に立ち上がり一礼する。今井田君が組閣本部にて少し話したくらいで他の面々はもしかしたら顔だけは見たことがあるかもしれないが、ほぼ初対面と言って差支えないだろう。
すると参謀長格の弥三吉君が、どこか既視感を思わせる質問を今朝吾君に投げかける。
「現役の中将ということは……、宇垣閣下はこの今朝吾君を陸軍大臣に据えるということで?」
この質問には私が答える前に今朝吾君が否定する。
「いえ私の行動は陸軍中枢に対しての背信行為ですし、組閣出来たとしてもすぐさま陸軍主導の倒閣運動へと繋がるでしょう。
それに前職が憲兵司令官の身では、皇道派の荒木閣下が陸相時代に憲兵を私的利用した先例を思い起こすやもしれません。……万が一私が陸相となる場合、それしか部内統制の手段が存在しないが故にですね」
全く部内で信任を得られていない陸軍大臣がそれでも尚、反発を抑えるためには憲兵を利用した粛清……恐怖政治しか無いのであろう。
しかし『憲兵の利用』という行為は、否応なしに皇道派の荒木君を想起させると彼は主張する。正直、荒木君は憲兵の運用よりも人事権の恣意的な利用のが目立っていたが、ようやく皇道派を壊滅に追い込んだ現在の陸軍部内としては、それを思い起こさせる要素は極力排除したいというのは組織防衛という観点から分からなくもない。
だからこそ、今朝吾君は自身が陸軍大臣に就任することには反対で、これまで一貫して私が兼任するように求めている。
「今朝吾君が大臣に就かないことは私も承知していることだ。
……先に陸軍大臣の話が出てきたので、ついでにしてしまおう。今日の朝には香月君が会見を開き、そして先程杉山君が組閣本部を訪れた。どちらも大臣に就任しないという話であった。
また、現大臣の寺内君も続投はしないと言っている。
正直、杉山君には期待していたのが当てが外れてしまった。この状況下において、今後取り得る手段について検討をしたい」
最初に反応したのは今井田君であった。
「宇垣さんは寺内陸相に対して三長官会議で候補者を選定する旨を約束頂いていたのでしたよね? おそらく、そこに反対派である杉山さん、香月中将を名だけ入れるとして。
もう1人くらい候補者を選定しそうなものですが……」
「――ふむ。では今朝吾君。どう考えるか」
ここは、敢えてこの面々の前で見識を試すために今朝吾君に振る。
今後、彼を重用せざるを得ない場面が出てくるかもしれぬ。少しでも身内の反発を拭うために無茶振りをして答えさせる。
「……そうですね。今井田さんの言に異論は御座いません。となると3人目の候補者についてですが。寺内伯爵が陸士11期。杉山閣下が12期で香月閣下が14期となれば、15期……まあ私の同期ですが、それ以降の年次の者を候補者に出すことは無いでしょう。そして中央政局に通じている必要がある。
ですが、宇垣閣下の息がかかっている人物を入れることは決してないことを考えると……13期の中村孝太郎教育総監部本部長辺りでしょうか。
宇垣閣下の陸相時代に人事局長だった人物ですが『宇垣派』というわけでもないでしょう?」
中村君か。確かに私の派閥ではない。だが、私が大臣時代の頃の中村君の経歴を把握しているとは、さては今朝吾君は私の質問を予期して事前に調べていたな。
ここで溝口君が口を挟む。彼は陸士10期なので、今まで挙げてきた人物のかなり近しい所に居たからこそ出る言葉があるのだろう。
「中村君は既に三次長か。
で、あれば三長官会議で推薦されたところで、きちんと部内の意向を汲んで辞去するであろうな。おそらくこちらから今更工作したところで無駄、でしょうね」
「ええ、その通りです溝口閣下。
ですがここで重要なのは中村閣下が選ばれる可能性があることではなく、おそらく部内最強硬派の石原さんの意中の者であろう16期の板垣中将が三長官会議で選ばれることは無いだろう、ということです」
16期の板垣中将とは板垣征四郎のことだ。
満州事変当時の石原氏の直接の上官で、満州国執政顧問の座に就いていたこともある『満州派』のホープだ。人付き合いに難儀のある梟雄・石原氏が上官として認める数少ない人物の1人なのだから、石原氏は内心では彼を推したいとみえる。
しかし年次が今朝吾君よりも下ともなれば、三長官会議で板垣君の名が出ることは無い。
――つまり石原氏側から板垣君を大臣に擁立して、我々と協調を図る……という工作が行われることはないことを暗に示しているのだ。
そして、その最強硬派に追従する形で今の陸軍部内の空気は推移しているがために、此方から仕掛けない限りは決して陸軍は私に歩み寄ることは無い、ということだ。
そこまでを理解すると、やはりこの場の空気は重くなる。それはそうだ。陸軍が我々に対して妥協をする要素が全く出てこない。苦々しい顔をした弥三吉君がかつての古巣を憎むかのようにして声を上げる。
「……何とかして、その石原とやらを失脚させることは出来ないのか」
「……出来るか出来ぬかと問われれば、全くその手段が無い……というわけではありませんが」
今朝吾君は、そう言いながら自分の鞄から分厚い書類を取り出し、それを各人に配る。
「……これは?」
「関東軍司令部にて最終決定がされた『満州産業開発五カ年計画要綱』の写しです。
概要を説明すると軍事物資を中心とした『重工業の建設』と、満州移民を統制する『農業の集団化』が基盤とされる産業統制計画ですね」
「――それは、アカではないか。関東軍は満州をソ連にする積もりなのか」
その弥三吉君の呟きを耳にしながら、私が最も驚嘆したのは、この要綱の最初のページ。1936年1月25日――つまり昨日と書かれている。
昨日、満州の関東軍司令部で決定した計画を今朝吾君は既に手元に入手している。それは物理的に可能なのか?
「用意が早すぎるな、見越していたか」
「……あの……憲兵を政治利用する、ということは、こういうことなのです」
若干上ずったような調子で聞こえた今朝吾君の言葉は、動揺からくるものだろうか、あるいはその言葉の重さを自覚してのことだろうか。
いずれにせよ今朝吾君は憲兵の有用性を熟知しているが故に、それを利用しつつも忌避している。
「つまり、石原氏を共産主義者として検挙する……ということかね?」
「いえ。やるのであれば直接ではなく、石原さんのブレーンである十河信二氏や宮崎正義氏の基盤である南満州鉄道の産業部を狙います。
ただ……1つ問題がありまして」
そこで今朝吾君は一旦区切ると、美土路君の顔を見る。それにつられて私も視線を向けると美土路君は顔を真っ青にしていた。
「美土路君、どうかしたか?」
「……中島今朝吾君。うちの尾崎君が連座する恐れがある、そういうことだね」
「はい。尾崎秀実記者は満鉄産業部の上海公処に強いパイプを有していたがために捜査の手は伸びる危険があります。そこから東京朝日新聞社そのものに飛び火すれば、最悪の場合、美土路さんの進退に影響を及ぼす可能性があります。
となると、宇垣閣下の組閣そのものに支障をきたすといったことまで考慮せねばなりません。
石原さんを失脚させることができたとしても、これでは本末転倒です」
そこで今朝吾君は言葉を区切り、私に判断の是非を求めてくる。
確かに私の組閣を妨害する最強硬派たる石原氏が失脚すれば陸軍部内の風通りも変わるかもしれない。
しかし、その場合に取り得る手段で美土路君が巻き込まれる可能性がある、か。
……ではその尾崎記者とやらを満鉄と縁を切れば良いのだが、あまりに捜査との期間が短すぎればかえって疑いが増える。かといって冷却期間を置く余裕は無い。手詰まりだな。
私が無言で考えているのを、情報不足と察してか、西原さんが今朝吾君に問う。
「……中島さん、何とか満鉄に調査に入る実務者を篭絡することは出来んのか。
憲兵を使って恫喝なり出来るだろう。何なら買収工作資金くらいなら用意できるが」
「……満州での治安維持の最高責任職は関東憲兵隊司令官もしくは関東局警務部長なのですが、どちらも同じ人物が就いております。
その人は、満州での某重大事件以降の関東軍の独立独歩の姿勢を正し、二・二六事件以後では関東軍内部の皇道派の検挙に多大な貢献を為した人物で、満州の憲兵組織を完全に掌握しております。
そして、関東軍そのものの綱紀粛正に必要な人物であるがために現段階では満州から動かすことも出来ず、その職務への忠実性から特定の誰かを見逃すなどという裏取引が通用する相手でもありません。
――『東條英機』関東憲兵隊司令官は、そういう御方なのです」
※用語解説
本作に登場する用語をこちらで簡単に補足いたします。
解説事項は作中時間軸である1937年までの事項を基本的には前提としています。
陸軍習志野学校
1933年に設置されたアメリカ式の化学戦教育のための軍学校。当初から列強各国の化学技術の水準に劣ることを承知していた陸軍では、同学校において化学兵器の開発よりも敵国が使用してきた際の防護法、対処法に対する知見に力点が置かれていた。実際に演習場(習志野ではない別地域の山麓の演習場)で化学兵器を使用して、その効果、あるいは防護手段の効果などの実測測定なども行われた。
初代校長に就任したのが中島今朝吾であり1936年3月まで同職を務めている。彼が選ばれたのは、フランス流の砲兵畑のキャリアを進んできた人物(化学兵器の投射手段は基本的に砲弾投射)だからだと考えられる。
あか筒・みどり筒
あか筒は『あか剤』と呼ばれるジフェニルシアノアルシン(常温固体)と加熱剤が充填されていて、点火すると気化して煙状に大気中に拡散される性質を有する化学兵器。同物質は別名、くしゃみ剤・嘔吐剤とも呼ばれる有毒物質であり、咽喉、鼻を刺激してくしゃみを誘発し頭痛や嘔吐も併発した。
みどり筒に含まれるのはみどり一号(一塩化メチルフェニルケトン)もしくはみどり二号(臭化メチルベンゾール)。どちらも別名催涙剤。一号は眼や皮膚に刺激痛を与える効果、二号は催涙性に加えて吐き気や頭痛なども併発することがある。
満州産業開発五ヶ年計画要綱
1937年1月25日に成立した満州国における第2期経済計画の最終計画案。満州国建国後の第1期経済計画においては、金融制度の統一安定化、特殊会社・準特殊会社の設立による経済再編に主軸が置かれ多大な成功を収めたものの生産方面における数値的目標も成果も無かった。
なので、第2期においては同要綱中の方針で示される通り『有事の際必要になる資源の現地開発に重点を置き、満州国内の自給自足と日本不足資源の供給を担える満州産業の確立』に力点を置かれた。実際の計画では、鉱工業部門においては、兵器・航空機・車両といった軍需産業を中心に鉄・液体燃料の開発と採掘。農畜産部門においては、稲・小麦・大麦・エン麦といった穀物と被服に用いられる麻・綿花・羊といった軍需関係農産資源の開発、そして馬の増産・改良が重要視された。更には国防上重要な交通・通信インフラ網の拡充と、これらの計画に必要な移民計画まで立てられ総額26億円(1936年の大日本帝国の歳入が23.7億円)という国家予算を超える一大プロジェクトとなっていた。
勿論言うまでもなく、ソ連の五ヶ年計画を参考にした経済統制施策である。
南満州鉄道の産業部
南満州鉄道(満鉄)の調査・シンクタンク組織。その前身組織は満鉄成立の翌年1907年には設置されている。当初は満州の政治・経済・地史といった異文化地域での経営に必要な基礎的な研究を行っていたが、その地域的特性からロシア革命の発生後は、日本人によるロシア研究の最先端施設となり、満州国成立以後は、調査業務に留まらず満州国や関東軍の政策立案機関としてのシンクタンク組織としての色彩を強めていく。また、陸軍の華北分離工作に呼応して満州地域のみならず中国全体の調査も担うようになり、人員の拡充に応じて日本国内では忌避されていた大卒以上の社会主義者・共産主義者からの転向者を積極的に受け入れており、マルクス主義的手法による社会調査・分析も行われていた。
(なお、満鉄『調査部』という呼称のが有名だが、これは1938年に改称されて以降の呼び方であるため本作では『産業部』として取り扱う。)
尾崎秀実
朝日新聞社記者であり評論家。東京帝国大学法学部を卒業した後に大学院にて唯物論を研究し、その後朝日新聞社に入社。1928年から32年にかけては大阪朝日新聞社の上海支局に特派員として派遣され、英語とドイツ語の語学能力を活かして外交畑で活躍した。帰国後1934年には東京朝日新聞の東亜問題調査会にて対支研究に従事。1936年8月には太平洋問題調査会に中国問題の専門家として参加。同年12月に発生した西安事件においては、大勢の有識者が中国共産党によって蒋介石が殺害されると見ていた中で、「蒋介石は生存しかつ、中国国民政府の主導する中国統一事業は引き続き進められるが、一方で国民政府・張学良・中国共産党の三者で連携が為されて、中国共産党の影響力が増大し、抗日統一戦線へと拡大し日本はこの同盟への対処が迫られる」とその後の事態をほぼ完璧に読み、日本における中国問題の専門家としての地位を確固たるものとした。
……と、ここまでが表の顔で、実際にはソ連のスパイである。天皇制の在り方そのものに疑問を呈し共産主義体制こそが日本の取り得る手段と考えていた。だが二・二六事件を経て蹶起軍側があくまでも天皇制の枠組みの中での権勢の承認を求めていたことを目の当たりにしたことで、日本で共産主義革命を発生させるためには総力戦を伴う長期の戦争へと引きずり込み敗戦、もしくはロシア革命のような形で天皇制を打破する必要があると考えていた。であるが故に、リヒャルト・ゾルゲの諜報団に自発的に参加し、彼がコミンテルンの諜報員だと分かった後も変わらずに協力している。