1937年1月26日午前11時12分―同日午後0時0分
杉山元の経歴
・1931年 三月事件(宇垣一成も関与したクーデター未遂事件)……宇垣四天王の中で唯一態度不鮮明
・1931年 十月事件(陸軍桜会によるクーデター未遂事件)……橋本欣五郎から計画を聞かされて同調せず上層部へ報告
・1935年 皇道派と統制派の派閥争い……閑院宮参謀総長の下で中立
・1936年 二・二六事件……断固討伐主張、にも関わらず皇道派青年将校から罷免要求は出ていない(宇垣・南・小磯・建川は罷免要求が出ている)
これだけ目端が利けば、そりゃ出世もする。
1937年1月26日午前11時12分
東京府麻布区広尾町 宇垣一成組閣本部応接室
『善処』か……。そう来たか。
まさか杉山君にまで、そのように言われるとは思わなんだ。
私が陸軍大臣であった時世には、陸軍次官として敏腕を振るった杉山君であったが、その後も荒木君の人事に揉まれたりしたものの、今では教育総監として見事復権していることを見るに、やはり私が見込んだ通り一廉の人物ではないことは明らかだ。
口さがない者は、彼を保身の為に日和見主義的に右往左往する人物と罵るかもしれない。だが、二・二六事件において終始一貫して断固討伐の意を固めていたことが――それがたとえ自己保身の為や全くの偶然だとしても――宮中からの信用に繋がり、統制派らによって担がれるとなるのだから過去を知る私からすれば昨今の陸軍部内での彼の噂の類は道化を演じているようにしか聞こえぬ始末である。
だからこそ、杉山君が昨日ふらりと私邸を訪れたという話を聞いたときには、のらりくらりと陸軍の中堅将校らの反発を躱して大臣の椅子に就く意志があるものだと考えていたのだが……。どうやら見込みが外れた。
黙り込み考える私に、しびれを切らしたのか杉山君は再度、より直截的な言葉を用いて、けれども非常に恐縮そうにする姿勢は崩さずにこう伝えてくる。
「申し訳ございません。どうも此度の大命についてはお辞めを願わねばなりませぬ。……部内がどうにも鎮まりませぬ故」
そうか。そこまで陸軍部内の空気が悪いか。とはいえ、これは予測可能なことだ。にも関わらず、この土壇場で大命拝辞を要求する反対側の立場を鮮明にした。
――そうか。杉山君は私の復権が最早無いことに賭けたか。
だがそれを隠し、表向き陸軍部内の統制を理由に挙げた。ならば、まずはそこを突かせてもらおう。
「杉山君。それはおかしいのではないか?
そもそも陸軍部内を鎮めるのは君や寺内君の責任であろうよ」
私の言葉に対して杉山君は顔を俯かせ、か細く「……はい」と答えるのみだ。
「部内を鎮められぬ責任がもしあるというのであれば、その責は私ではなく君方にあるのだから、私が大命を拝辞するのではなく、君方が辞職しなければならないのでは?
その責を免れるから杉山君や寺内君が職を辞する……ということならば話はまだ分かるが、私に首相となるのは諦めろ、というのは話がおかしい」
そこで、言葉を区切ると、短く繰り返すように相槌を打っていた杉山君も口を閉ざす。
おそらく今、私に言われていることなど杉山君は承知していることだろうし、私からそのように指摘を受けることも承知であったはずだ。にも関わらず、この時局において彼は私の前に単身現れた。
それが、私との決別という意思表明になることを理解して。
縁切りのために叱責されることを承知の上で乗り込んできた胆力……それは認める。
だが、それを理由に退く私でないことは杉山君も分かっておろうて。
「……大局を見れば、閣下の御出馬が最善であることは私も理解しております。
しかし何分、若い者がやれ粛軍工作が破壊されるとか、軍の統制が乱れるとか騒ぐのです」
若い者とは石原氏とその一派のことだろう。
「だが陛下の大命降下を阻止するがごとき行為は、粛軍の精神に反し、軍の統制の乱れるは甚だしきことではないかね。
教育総監である杉山君が私の組閣を最善と考えるのであれば、異論を抑え部内をまとめていけるのでは、と私は思うのだが」
「……微力到底、私どもの力では……抑えきれぬのです」
これを杉山君の指導力不足と断じてしまえば簡単だが……。似たようなことは『部内の情勢』という言葉を使って寺内君も言っていたな。
「――個人的に気になることがあるのだが。
石原莞爾氏とは、そこまで恐れるに足る人物なのか?
いや、彼が満州での某事件を画策したことは知っているが、杉山君の方が詳しいだろう? 旧知である私のことを切り捨ててまで彼を恐れる理由がどうも解せぬ」
「……閣下。石原大佐が煽動していたのを御存知だったのですね」
1月26日午前11時37分
東京府麻布区広尾町 宇垣一成組閣本部応接室
――満州事変のことは私も詳しく知っている。
そもそもその時私は満州から目と鼻の先の朝鮮総督府に詰めていたのだし、時の陸軍大臣は南君――南次郎だ。南君は宇垣閥と言われた私の派閥の後継ぎを頼んでいたこともあり、事変発生時からの中央の政局に関しては簡単に伺っていた。それに、そのときの陸軍次官がこの杉山君である。
「私は満州事変の折には、既に予備役であったからその後から名を挙げるようになった石原氏のことを詳しく知らないのだよ。
……ああ、杉山君には釈迦に説法だと思うが、あの頃の陸軍の満州での画策のことは勿論知っているよ」
「『満蒙問題解決方策大綱』のことですか。確かに、あれは確か建川さんが主導していましたね。宇垣さんの耳にも入るのも納得です」
そう。関東軍での作戦立案については知らんが、陸軍中央での満州での軍事計画については私の息がかかった建川君――建川美次が主導して作成している。
だから満州事変における関東軍の個々の軍事行動はともかくとして、事を起こすこと自体は別に石原氏が居らずとも実行されていたのだ。
そして、そのことは杉山君も知っている。だからこそ、解せぬのだ。
何故、若い者――石原氏のことをここまで恐れるのかを。
そこを改めて杉山君に問い詰めると、しばらく考えて口を開いた。
「……石原大佐のことですか。
彼は随分と切れ者で、信奉する者が居るのも納得です。良くも悪くも上官を恐れぬ。部内の空気も恐れぬ。手段を選ばぬ男だ……乱世の梟雄を体現したかのような人物です。二・二六事件の折には断固討伐を私と同じく主張していたが、彼の者は蹶起軍に謀略を仕掛けることも厭わなかった」
「それ程までに恐ろしい人物だからこそ、時流に乗っている今、彼と対決するのは避けたい、と? そういうことかね」
私が確認を兼ねて、こう聞くと杉山君は返答が戻ってくる。
「……いえ。確かに恐ろしい人物であり信奉する子分のような者は多いですが、同時に敵も多い。
先程閣下が仰ったように、陛下の大命降下を阻害するが如き策略の数々は、今は閣下憎しで従う者が部内の大勢を占めておりますが……。閣下が大命を拝辞したとなれば糾弾されるのは石原大佐、となることでしょう。
特に今の陸軍次官である梅津美治郎君は、そうした政治干渉を許しませぬ」
「……政治干渉を許さぬというのであれば、梅津君には今、石原氏を取り締まって欲しいものだがね」
私が思わず素で返すと、杉山君は表情を曇らせる。
しかし、梅津君か。確か、あの今朝吾君の竹馬の友でもあったな。その線で工作を行うことできるか。それが分かっただけでも収穫とせねばなるまい。
「では、梅津君が怖いというのかね?」
「梅津君は傑物ではあるのですが……。彼が今の陸軍を主導しているわけではない、ということは閣下もお分かりでしょう?」
「確かにな。では、杉山君は誰をそこまで恐れている?」
どうも話が見えてこない。だから確信を聞かねばならない。
すると、杉山君は自嘲するかのように乾いた笑みを浮かべてこう述べたのである。
「誰を、ですか……。そうですね、もしそうであれば私は宇垣閣下に忠義を貫くことが出来たのかもしれません。
――誰も居らぬのですよ、今の陸軍を主導する人物など。石原大佐にしても部内を煽動しているだけで操っているわけでは無いのです。
閣下が陸相で在らせられたときは、皆宇垣閣下に付いていけば良かった。皇道派が権勢を振るった時には荒木さんや真崎さんを恐れれば良かった。あるいは統制派の実質的な中心人物であった永田鉄山君が傀儡回しであったのでこれを恐れれば良かった。
その全てが今の陸軍には居りませぬ。部内の者が私や寺内陸相を担ぎ上げていることは理解しております。ですが、私は特定の誰にも操られていない。
――ただ、『中堅将校という名の幻影』に担がれているのです」
私が大臣であったとき、杉山君は私に従っていればよかった。私が予備役に入り、皇道派と統制派が血みどろの抗争を繰り広げていた時は、その両陣営の重鎮を注視していればよかった。そう杉山君は言っている。
二・二六事件で断固討伐を主張して宮中の信任を得たのは良いが、それが杉山君の直接陸軍部内での独占的な権勢には繋がらなかった。まあ当然だ。結局は杉山君も私の下で敏腕を振るった所謂『宇垣派』なのだし、その宇垣派は粛軍人事でとばっちりを受ける形で追放されている。杉山君には手足となって動く手駒が無いのだ。
それで誰かの傀儡になれれば杉山君も良かったのかもしれない。
だが杉山君は『統制派』に担がれた。では、『統制派』とは何か?
そこが杉山君にとって答えが出なかったのであろう。陸軍三長官である寺内君や杉山君が傀儡だとするのであれば、その傀儡回しは誰か?
陸軍三次長の梅津美治郎・西尾寿造・中村孝太郎のいずれかか? いや、違うだろう。では、今回私に対して大手を振って反対している石原氏が『統制派』を体現する人物なのか? だが、杉山君の見立てでは石原氏は敵多くいずれ失脚するだろうと考えている。
「そう考えているのであれば……私に付いていくという選択肢は無かったのかね?」
「当然、それが可能であれば私も閣下の下に馳せ参じたかったのですよ……ちょうど今朝吾君のようにですね。
私が真の意味で陸軍中枢を体現していれば喜んで閣下の下へ足を運びました。あるいは特定の誰かの神輿であれば、その者を説得するなり閣下に引き合わせるなりして、共栄することが出来たでしょう。だが私を教育総監たらしめているのはあくまで陸軍部内の空気に過ぎないのです。
……神輿の担ぎ手が空気では、閣下と交渉すら出来ない」
自らの権勢を維持する能力も気概もある。官吏としての事務能力もある。
私と最大の違いは、杉山君には『杉山閥』と呼べるような後輩が居ないのだ。だから部内の空気に乗ることは出来ても、その空気を形成するまでに至らなかった。そして、今の陸軍に空気を形成出来る人物が……居ない。
だからこそ、最強硬派である石原氏の意見で中堅将校はおろか軍首脳であるはずの杉山君や寺内君までもが引きずられるのだ。
そして、もう1つ。杉山君は先を見据えている。陸軍内の動きを見れば確かに私の組閣は怪しいと判断するのは口惜しいが理解出来ぬことでもない。そして、私が仮に組閣に失敗すれば、石原氏が主導権を握るというのも陸軍部内の空気感に触れていればそう考えるのも自然だ。
だが、杉山君は更に一歩先。その石原氏の操る組閣ですら失敗すると見据えて動いているのだ。
「……まあ、杉山君の判断は分かった。だが、それと私の大命降下は話が別である。
私は大命を拝辞する意志は無いし、事情がどうであれ君が私の信任を裏切ったことは胸に刻む。
それは弁えてくれたまえ」
「……はい」
杉山君は陸軍部内の総意を代表する中核になる者が居ないと判断したから、私が交渉相手を見出せずに、組閣に失敗するという読みなのだろう。
――だが。杉山君は大いなる見落としをしている。
陸軍が『統制派』なる全く一枚岩ではない組織で固まったというのは、裏を返せば『藩閥』という漠然としているが、内部では薩摩やら長州やらとバラバラであった頃を踏襲しているだけではなかろうか。
杉山君自身は、私が陸軍大臣として権勢の絶頂を誇った時期以降しか私のことを深くは知らない。だからこそ、薩摩や長州といった『藩閥』の間を行ったり来たりしていた頃の私を知らぬし、それよりもっと昔――尉官時代の『鈍垣』と呼ばれた出世欲も無く人付き合いも碌にせず、ただ俸給で酒を変えていた私のことなど知る由もない。
何となく反宇垣の風潮で溢れている? それを石原氏が煽っている?
で、あればやるべき事はむしろ明瞭ではないか。石原氏を無力化すれば、そして陸軍内で溢れる反宇垣の風潮を押し潰すかのような、陸軍以外の強力なバックアップを保持してしまえば、逆にその日本全体に流れる『宇垣内閣成立』という風潮に今度は陸軍が流されるのではないか。
よし。方向性は見えてきた。寺内君も杉山君も反対は反対だが、消極的で今後の展開次第ではいくらでも再び彼らをこちら側に転がすことも出来るであろう。
――いつの間にか、時計の両針はちょうど重なっていた。
※用語解説
本作に登場する用語をこちらで簡単に補足いたします。
解説事項は作中時間軸である1937年までの事項を基本的には前提としています。
荒木人事
1931年に成立した犬養毅内閣において中堅将校の後援を得て陸相に就任した荒木貞夫による人事再編。皇道派関係者で要職を固め、自身を信奉する青年将校を東京の第一師団に集めるなど、そのやり方に次第に擁立した中堅将校の一派(後の統制派)が反感を抱くようになった。
しかし同時に宇垣系軍人の中央からのパージも行い、こちらは手放しで統制派にも歓迎されている。荒木人事期間にて左遷された主な宇垣派軍人は以下の通り。(荒木就任前から1934年までの人事から抜粋。)
・南次郎:陸軍大臣→関東軍司令官(満州)
・林弥三吉:東京警備司令官→予備役編入
・多門二郎:第二師団長→予備役編入
・畑俊六:砲兵監→第十四師団長(宇都宮)
・阿部信行:陸軍大臣臨時代理→第四師団長(大阪)→台湾軍司令官(台北)
・二宮治重:参謀次長→第五師団長(広島)→予備役編入
・小磯國昭:軍務局長→陸軍次官→関東軍参謀長(満州)
・建川美次:参謀本部第二部長→参謀本部第一部長に任ぜられるもジュネーブ軍縮会議に随員→第十師団留守司令官(姫路)
・杉山元:陸軍次官→第十二師団長(久留米)
満蒙問題解決方策大綱
参謀本部の五課長会議が関東軍の作戦計画に基づいて1931年6月に策定した計画。外務省と連携して張学良政権の排日運動の緩和に努めつつ、関東軍の自重を求めるが、こうした努力にも関わらず排日運動が激化する場合には、軍事行動の止む無きに至ることがある、として、陸軍中央での満州における外交の行き詰まりに対する最終的解決が示唆される内容が書かれている。
そして、それに備えて満州での排日運動を実態を広く啓発することで万が一軍事行動に至った場合に列国が日本の立場を理解するように工作を行うこと、そしてその工作の準備期間として1年を刻限として設定している。
満州事変の発生が1931年9月なので、もし関東軍が独断で事変を起こさなかった場合でも1年以内には陸軍中枢主導での軍事行動が発生することが既に既定路線となっていた。
薩摩と長州
戦前昭和のお話なのに、幕末まで回帰するのはどうか……とも思うが、陸軍の源流を辿ると結局ここにたどり着く。
大まかな流れとしては、陸軍主流派は長州から始まりそれに対抗する薩摩という対立構造から、明治後期から大正にかけて長州は山縣有朋率いる山縣閥と非主流派の桂太郎へと分派し、薩摩は上原勇作が主導を握った時代に九州閥へと拡大。
その後本作で陸軍大臣である寺内壽一の父、寺内正毅が山縣の死後その派閥を継承し田中義一がそこから付かず離れずの位置で山縣閥を支えながらも対抗した。で、その頃の九州閥を支えたのが佐賀の武藤信義。
で、そのかつての薩摩閥の有力者である川上操六に引き立てられ、そこから長州閥の継承者たる田中義一に付き、九州閥の上原勇作と対峙したのが宇垣一成。なので、九州側からの印象は最悪に近く、宇垣閥の面々も大分薄くなったとはいえ長州からの緩やかなスライドであった。
これに反旗を翻すのが、藩閥と宇垣に反感を抱いた中堅将校によって擁立された荒木貞夫と真崎甚三郎。そしてそれを陰から支援したのが九州閥の上原であり。そして真崎は武藤信義から佐賀の地盤を引き継いでいた。
結局宇垣が退いた後は、この荒木・真崎率いる皇道派とそこから離反した統制派という形になり、統制派は相澤事件で中核人物である永田鉄山を失い、皇道派は二・二六事件にて失脚という流れを経て現在に至る。なので一応統制派によって陸軍部内は統一されるが、一方で中心的指導者が不在となった。その間隙を突くように統制派の内部派閥である石原莞爾と彼が擁立する板垣征四郎を中心とした満州派がじわりじわりと影響力を高めているのであった。