1937年1月26日午前9時24分―同日午前11時9分
「尚、現役軍人と政治干渉に関しまする法的根拠と致しましては、先程もその一端を御述べになりましたが、衆議院議員選挙法及び、之に準ずる法令に陸軍刑法、軍隊内務書等の法令諸条規においてそれ禁止を明示せられたる事項、即ち各種議員の選挙権、被選挙権の行使、或いは政治に関し、上書・建白・請願を為し、或いは演説もしくは文書を以って意見を公にする等は、現役軍人に禁止せられたる政治干渉なり」
――寺内壽一
1937年1月26日午前9時24分
東京府四谷区内藤町 宇垣一成本邸
「――そうだったのですね。宇垣大将の下に美濃部教授が……。
陸軍が旗色を鮮明にしない以上、難関突破の非常手段は把握した方が良いでしょう」
「……確かに西原さんの言う通りではありますけれど。機関説の美濃部さんがこちらを訪れたということが記者にバレたら、まずいのではないでしょうか」
朝から私の家を訪ねてきた西原さんと今井田君に、昨日の夜半に美濃部さんがやってきたことを伝えると、先のような反応が返ってきた。
西原さんの言う『非常手段』とやらは今朝吾君が最も考えていたことであろう。そうでなければあそこで美濃部さんを呼ぶことの説明がつかない。
一方で。
「……そうだな、今井田君。如何に今朝吾君が憲兵を使い隠蔽していたとはいえ、家を囲む記者らの目を誤魔化せたかは五分、であろうな」
今の私が誰に会うか。不必要な軋轢を生み出さないためには細心の注意を払う必要があることは理解している。そして、完全に秘匿できるなどという楽観的な考え方も当然出来ないことも。
「それでは、組閣に逆風が吹いている我等にとっては些か突かれるとまずいのではないでしょうか? バレれば軍部は良い顔をすることはないでしょうが……」
「まあ、そこが美濃部さんの策という部分もある。
明言こそされなかったが、我等を天皇機関説論者として責め立てれば、責め立てる程に大権の発動が為されたときに手出し出来なくなるという算段、というわけだ。
そもそも大命降下ですら陛下の御言葉を賜って為している大仕事なのだから、本来国体明徴の立場に則れば、組閣の妨害すらも陛下に対する重大な背信行為のはずなのだがね。そこまで頭の回る者が今の陸軍中枢に居るのであれば、仮にバレたとしても、美濃部さんを使って我等を叩くことはせぬよ」
そして、今井田君には言わないがもう一つ思うこととすれば。
おそらく美濃部さんは私が仮に大命拝辞をして組閣を断念したとしても、ここで陸軍に天皇主権説のみに依拠することのリスクを実践的に示すことができ、どちらに転んだとしても機関説の再評価に繋がるということくらいは計算しているだろう。
尤もそれも即日以前のように主流説の立場に復するということはあるまいが、徐々に是正していく意図があると私は予見している。
……というかそれくらいの計算はしていないと、美濃部さんが今、政治的に表舞台に姿を現す生命的なリスクと釣り合わない。
私が美濃部さんの策略について考えを巡らせていると、話を切り換えるかのように西原さんがこう告げる。
「……『非常手段』と言うのであれば、憲法上の枠組みや大権に触れずとも何とかする方法はあることはあるのですが。
――陸相事務管理。
とはいえ、これを宇垣大将が受け入れられるかと言えば別問題ですがね」
「……事務管理か。あれは少々劇薬だな。先例が文民しか存在しない。
それに官制では大臣の『故障』が要件であったはずだ。そも大臣の選定がままならぬことを『故障』とこじつけるのは些か難儀であろう」
陸軍大臣に事務管理を適用する、ということは仮にこの政局を打破できるとしてもあまり好まれた手法ではない。軍部大臣の現役武官制はおろか、予備役・後備役を含めた武官制すら揺るがしかねない危険な一打となる。
陸軍に長年奉公してきたが故に私には容易に想像が付く。事務管理というカードは部内が最も恐れる文民の大臣就任の一助となりかねない。だからこそ相当な反発が予想される。……というか、そもそも私ですら反対だ。
ここでそのカードを切るのでれば、濱口さんの下で7年前に大臣を阿部君に引き継いだときに班列まで使った意味が無い。
それでも西原さんは繰り返す。
「一応、現・法制局長官の次田さんから話を伺ってきましたが、法理上は可能との言質は頂いておりますが……」
「何よりも、陸軍が納得しない。
強硬手段を取るとは言っても、陸軍という組織そのものを潰すわけではないのだ。必ず妥協点は用意せねばなるまいて」
西原さんの様子を伺う限り、彼の腹案が事務管理案であった……というわけではなく、単に私がその手段を取らないことを再確認しているだけのようだ。大方、記者発表向けにどこまで話すかという摺り合わせだろう。組閣の参謀長格に任じているのは弥三吉君だが、こういった政治的に拙い問題は陸軍の人間よりも、その道のプロに任せておいた方が安全だ。その点西原さんであればそうした塩梅を上手く差配してくれるだろうという信頼感はある。
そして、非常手段を使った陸軍大臣の任命に関する話は終わりだ、という意志を込めて私は口を開く。
「おお、そうだ。今井田君には聞かねばね。
ご苦労なことに千葉の演習場からとんぼ返りしてきたのだろう? 香月君の返答はどうであったか――」
1月26日午前10時44分
東京府麻布区広尾町 宇垣一成組閣本部
『――かかる宣伝は自分、香月清司にとって甚だ迷惑千万だ。自分は現在の部内情勢において、仮に陸相候補に挙がったとしても、就任の意志は毛頭無い……』
香月君の件は返す返すも残念だ。既に記者発表で声明を出しており、その第一報は我等に与する新聞社関係者を通じて組閣本部にも入ってきている。東京朝日新聞社の常務取締役の美土路君もそうだし、時事新報の社長も務めた小山君――小山完吾からも裏取りは取れている。
ただ、今井田君に対して香月君が伝えた言葉は「自分はその器ではない」といった旨の言葉であったようで、声明と若干の乖離があらわれている。
これは、陸軍部内と我等との間で板挟みになり、身動きが取れなくなったと見るべきであろう。まあ香月君にとっても私は顔見知り程度でしかない。派閥内の人間でもないのに、部内の空気に逆らってまで此方に就くということは滅多なことでは決断出来ぬだろう。こればかりは香月君を責めることはできまいて。
……となると、現状残る有力な候補は杉山君だけか。
だが、それは後だ。どのみち最も難航するのが陸軍大臣、というのは分かっていた。だからこそ今問うべきことは異なる。
「鶴見君、そして船田君。ちょっと良いかな?」
組閣参謀として詰める2人――鶴見祐輔と船田中に声をかける。
鶴見君は昨日の朝、本邸で話をしたが船田君とは話をしていなかった。
そして、2人同時に声を掛けたということで、私が何を聞きたいのか大方察しはついているだろう。
鶴見君は立憲民政党所属、船田君は立憲政友会所属となれば。既成政党の動向を明らかにしたいという私の目論見は明らかに違いない。
そして案の定、意を汲んでくれた2人は、まず船田君から話し出す。
「政友会からの公式な見解ですが、宇垣さんが鈴木喜三郎総裁を経ずに直接党員と交渉して入閣を要請しても除名処分としない意向を固めております。事実上の宇垣さん支援策で自由に大臣としてこき使って欲しいということです」
ほう、政友会は事実上フリーハンドで大臣を一本釣りして良いと仰せか。実に私に都合が良い反面、政党政治の全盛からは考えられぬほどに凋落したとも言える。最早政党単独で組閣できないどころか、大臣の指定すら出来ぬとは。
そしてそれを受けて鶴見君も話を引き継ぐ。
「民政党では、既に宇垣さんの大命降下に対して歓迎の意を述べております。しかもですね。仮に民政党に対して入閣要請が1人たりとも存在しなくとも支持するとまで明らかにしております」
民政党はほぼ全面支持と言って良いだろう。ここまで信頼を勝ち取っていたとは。確かに民政党の面々とは長らく私は大臣として彼等は与党として互いに仕事をしてきた仲だ。仕事の中で確かな関係を築き上げることが出来ていたという証左なのだろう。積み上げてきたものが、一部たりともこうして結果として見えてくれると感じるものがある。
「となると既成政党に関しては問題ないということだな。こちらから自由に大臣を指名しても民政党・政友会ともに支持に回る……その認識で相違ないか」
私がそう話せば、2人とも頷き返す。
政界の支持に関しては問題がない。であれば懸念事項はやはり軍部だが、永野海相からは、陸軍大臣が選定されれば出すとの言質は頂いている。
「宇垣さん、大臣枠に関して現時点で何か注文は……」
「今のところは民政党と政友会の幹部格を……いや、そうだ。
政友会の砂田君。彼が色々と動いているようだから個別に交渉を進めてくれ」
「はっ」
砂田君――砂田重政は、今井田君や西原さんらとはまた別口で動いていた。これに報いねばなるまい。すると鶴見君が口を開く。
「民政党からは……」
「今のところ無いな。ああ、でも鶴見君?
同和会の永田秀次郎拓務大臣と共に動いていただろう? 彼を廣田さんのときから引き続きで拓務大臣にお願いしたい。伝えてくれるかな」
そう言えば、鶴見君は喜色満面となり、「永田さんも喜ぶことでしょう」と答えた。
鶴見君は非常に手広い。民政党の青年部長ではあるが、むしろ党外の人脈の方が圧倒的である。特に貴族院や宮中筋への顔が広い。
そうだ、宮中。確か取り成しをすると言っていたな。一日で進捗があったかなど分からぬが、取り合えず聞いておくか。
「……ああ、そうだ。鶴見君、もう1つあった。
昨日話していた、宮中への交渉は進んでおるか?」
「退役しました山屋他人元海軍大将にお会いして、百武侍従長へ優諚降下を行うように説得をすることをお話したら快い返事が返ってきました。
また日青協の設立で有名な田澤義鋪さんの伝手を使って湯浅内大臣にも同様の説得をお願いしている最中です。
……後は、先月に資金援助の確約を得ております徳川義親侯爵には再度陸軍への取り成しを家人を通じてお伝えしてあります。現状はこのようなところですね」
「そこまでできれば上出来だ。一日でよくそこまで動けたな」
ただ、湯浅内大臣への伝手が少々拙いか。大命降下の際にお会いしたときも、陸軍の反対に対して憂慮しておられた。陸軍との決定的な対立が鮮明になったときに内大臣が果たして私の味方に付いてくれるかは不安があるが……。
と、ここまで考えていると船田君が口を開いた。
「そう言えば、元政友会の小山さんが時事新報記者時代の人脈を使って宮中筋で工作を行っているという話は伺っております。
西園寺元老に直接お会いして軍部の宇垣さんへの対抗意識に対する不当性を主張したとか、昨年中には秋月左都夫さんを通じて牧野伸顕帝室顧問に擁立工作をしていたとも」
確かに小山君も鶴見君に負けず劣らず顔が広い。
「小山君は組閣本部に来ていたか……では船田君より伝えておいてくれ。好きにやってくれ、と宇垣が言っていたとな」
鶴見君ルートを本命として小山君にも引き続き工作を行ってもらおう。
――すると、急に組閣本部内が慌ただしくなった。
どこかの記者が強引に吶喊でもしてきたか、あるいは右翼団体などの威嚇行為でもあったかと考えていたが、颯爽と現れた西原さんから話を伺うとどうも違うらしい。
「……どうも、教育総監の杉山さんがこちらにいらしているようで。
宇垣閣下にお会いして申し上げたいことがある、とのことです」
成程。杉山君か。美土路君の情報によれば昨日の深夜に私の本邸に来ていたとのことだから、陸軍大臣就任の意向を固めた、といったところだろうか。
三長官会議が開かれた、という話はまだ伺っていないから、開かれる前に私に会って決意を新たにしたいということであろう。
「よし、応接室は空いていたな? そこに杉山君を通してくれ。
私もすぐに行く」
1月26日午前11時9分
東京府麻布区広尾町 宇垣一成組閣本部応接室
「――ほう、杉山君。もう一度言ってみなさい」
「……後輩の1人として進言させていただきますが。個人の資格というものがございます。
当時としては必要ではございましたが、やはり軍縮が部内を複雑にしたという意見が大勢を占めております。ですので……」
「その要領を得ない説明は要らぬ。結論だけもう一度、私の目を見て話せ」
杉山君は私の言葉にその身体を大きく震わせながら、けれどもここに来るまでに不退転の決意でもしてきたのだろう。結局目線が合うことは無かったが、それでも再び次の言葉を反芻するに至った。
「……はっ。
宇垣閣下。……この度はご決意を曲げて……『善処』をお願い頂けないでしょうか」
※用語解説
本作に登場する用語をこちらで簡単に補足いたします。
解説事項は作中時間軸である1937年までの事項を基本的には前提としています。
軍部大臣事務管理
内閣官制第9条において『各省大臣の故障あるときは他の大臣が臨時摂任または命を受けて事務を代理すべし』と記載があり、この条項を念頭に置けば官制上は軍部大臣ですらも事務管理という代理を立てることができる。
実際に事務管理が設置されたのは海軍大臣のみで、1921年のワシントン海軍軍縮条約締結時に加藤友三郎海軍大臣が渡米したときと、1930年のロンドン海軍軍縮条約締結時に財部彪海軍大臣が渡英したときの二度である。代理にはどちらのケースも首相が就任している。
なお陸軍は1921年の海軍大臣事務管理設置に不満を見せ、軍務局軍事課より「海軍大臣事務管理問題顛末」が提出されるが、原敬総理との間で相互不干渉の確約が為され、陸軍には事務管理を適用しないとしている。
実際に、宇垣一成が濱口内閣下で陸軍大臣を務めていた際に、耳の病気の療養のために大臣職を代理させねばならなくなったときには宇垣は、阿部信行を一旦班列(無任所大臣)として入閣させてから改めて臨時代理へと任命するという徹底的に事務管理を出さない為のアクロバティックなプロセスを踏んでいる。
立憲政友会党員の入閣による除名処分
1934年に成立した岡田啓介内閣にて実際に発生。第18回衆議院議員総選挙(1932年)にて絶対安定多数である301議席を保有していた政友会であったが、西園寺公望による後継首班奏薦の際に、前内閣である齋藤実内閣(挙国一致・与党は民政党)が失政ではなく帝人事件の余波を受けて辞任したことを受け憲政の常道に基づかず、引き続き与党を民政党として挙国一致内閣を樹立することとなった。
第一党にも関わらず二度も与党を逃した政友会は岡田内閣に対して対立姿勢を鮮明にしていたが、岡田は政友会非主流派であった山崎達之輔(農林大臣)・床次竹二郎(逓信大臣)・内田信也(鉄道大臣)を取り込む。これに反発した政友会は3名を除名処分としていた。(ほかに任期中に死去した床次の後継逓信大臣として望月圭介も入閣し除名、元大蔵官僚の藤井真信大蔵大臣が健康悪化で入院したために藤井を後継に指名していた高橋是清が道義的責任から入閣すると政友会は高橋とは『別離』するとした。)
帝人事件
1934年帝国人造絹絲株式会社(帝人)株を巡り財界・政界・台湾銀行の間で贈収賄が行われたとされる疑獄事件。台湾銀行頭取、帝人社長をはじめ、現役大臣の2名、大蔵省の官僚など合計16名が背任・涜職容疑で起訴される事態となった。そして政権への批判が急速に高まり、当時の齋藤実内閣はそのまま倒閣されるに至る。
(なお、帝人事件の起訴者が冤罪として全員無罪が言い渡されるのは1937年12月16日。作中時間では未だ公判中である。)
憲政の常道
政党政治時の慣例。衆議院の第一党を与党として政党の党首に大命降下し内閣の組閣を行うこと、そしてその内閣が失政で倒れた場合は後継内閣の組閣は野党第一党の党首に下されることを指す。事実上、憲政会(立憲民政党)と立憲政友会の二大政党制が確立された。
しかし、五・一五事件で犬養毅首相が暗殺された後から挙国一致内閣が組織されることとなり、なし崩し的に崩壊することとなる。
立憲民政党の宇垣支持の背景
宇垣陸相時代(清浦【超然内閣】→加藤高明【憲政会】→第一次若槻【憲政会】)と民政党前身の憲政会内閣時とがほぼ重複するため。なので民政党内部に宇垣を知る……というか政権下で仕事を共にした人物が多く、その関係で歓迎姿勢に繋がっている。
優諚
天皇直々の御言葉。田中義一内閣において1928年に田中首相の内閣改造案に反発した水野錬太郎文部大臣が辞任を表明したが、天皇が水野の遺留の発言をしたと田中は水野に伝え辞意を撤回させている。これを総理は優諚を利用して水野の辞職を撤回させた、即ち天皇の政治利用を行ったとして批難が殺到する事態に発展している。
なおその当時、美濃部達吉や新渡戸稲造を含む知識人グループは田中首相に対して批判声明を出している。