1937年1月25日午後7時27分―同日午後9時13分
「ええ、もうあの当時(天皇機関説問題時)は実に五月蝿くて。私が貴族院議員をやめないと、内閣が潰れるというもんだから仕方なしに辞任しました。
私の説に反対のものは、二言目にはピストルを突き付ける様な輩ですからね……」
――美濃部達吉
1937年1月25日午後7時27分
東京府四谷区内藤町 宇垣一成本邸
「――今朝吾君。随分な奇札を出してきたな。
流石にこれは全く想定はしていなかったよ」
私が今朝吾君に悪態を付くと、それすらも微笑みで流す老紳士が目の前にいた。
「お初にお目にかかります、宇垣さん。国策同志研究会の大蔵君からお噂はかねがね伺っておりますよ、大蔵君は随分と宇垣さんにご執心のようですね。
そして今朝吾君」
流石に目の前の御仁を相手にしては、今朝吾君も、陸軍部内に対しての慇懃無礼とも傲岸不遜ともとれる余裕のある小癪な態度を潜ませて答える。
「はい。
右足の怪我のこともありますのに本日は急遽お呼びして申し訳ございません。
――美濃部達吉先生」
「足はまだ痛みはありますが、動かしておかねば鈍ってしまいますのでそれは構いませんよ」
今朝吾君も美濃部さんも足を気にしているから、尋ねてみると昨年に暴漢に襲われて負傷していたとのことであった。やれ、天皇機関説だ、国体明徴だと大騒ぎしていた割に、その後の美濃部さんの様子を窺い知れないと思ったら、まさかそのようなことになっていたとは。聞けばあの二・二六事件の直前だという。
美濃部さんはそのまま二の句を続ける。
「それよりも。
政治からも学会からも追われた私を再び表舞台に駆り出すお積りですか?」
「いえ、そこまでは。ですが、少々先生にお伺いしたいことがありまして」
美濃部さんの言葉を、学者を政争の場に出さないで欲しいといった意味合いかと考えたがすぐに自身の考えが誤りであるということに気付く。
そういえば。美濃部さんは今でこそ天皇機関説問題のいざこざの印象が強すぎるが、よくよく考えてみれば亡き濱口さん――濱口雄幸の内閣時代にロンドン海軍軍縮条約の批准に際して国内が統帥権干犯問題で揺れていた時期に、反対する海軍軍令部と同調の姿勢を取っていた枢密院の切り崩しを首相に助言したのがこの美濃部さんであった。
濱口内閣では陸軍大臣を務めていたからね。もっとも当時は健康悪化で阿部君――阿部信行を代理に立てて療養していたから、阿部君からの又聞きに過ぎないが。
だから美濃部さん本人は、天皇機関説が政治問題として政争の具として扱われていたことをどう考えているかは分からないが、自身の憲法学者という肩書きを政治的に活用することには躊躇いは無かったであろうことは推察できる。右翼団体の言うような国賊の如き人物でないことは確かだが、かと言って清廉潔白な人物であるかと問われればそれも違う、清濁併せ呑む御方だと考えられる。
「……まあ、この情勢で宇垣さんの下へ呼ばれたとなれば、大方察しは付きますが。
どうせ、陸軍大臣のことでしょう?」
「はっ。慣例である三長官会議に基づかない陸相の任命が憲法に反していないか、今一度美濃部先生と意見のすり合わせを行いたく」
つまり、今朝吾君の考えていた『窮余の策』とは慣例外の陸相任命のプロセスが憲法解釈上どこまで許されるのかという確認か。
それは即ち既に、三長官会議や寺内君はおろか、杉山君のことも今井田君が交渉に赴いた香月君のことも彼の眼中に無いというわけで。
「まあ、待ちなさい。まずは私から話そうではないか」
今朝吾君に任せていると、彼は私を陸軍大臣に仕立て上げる案しか言わないであろう。それを聞く前に順序というものがある。
1937年1月25日午後8時15分
東京府四谷区内藤町 宇垣一成本邸
「……成程。軍部大臣現役武官制には廣田総理と寺内陸相との間にそのような取引があったとは。
確かに三長官会議は陸軍さんの官制による慣例ですからね。憲法上の拘束力はありませんので、反発を許容できるのであれば、三長官の同意なくとも陸軍大臣の任命は充分可能でしょう」
「美濃部さん。それは私も良く知っていることだからね」
「そういえば三長官会議の慣例化は宇垣さんの初の陸相就任時からでしたか……」
「うむ。であるので、この裏取引を是とするとして、陸軍大臣の任命権限は法制的には首相と前陸軍大臣のどちらに帰属するのか教えていただけないだろうか」
私がそう言うと、美濃部さんは目を閉じてたっぷりと時間を使い考える。
「……いや、これは難しいと言いますか。廣田さんのやり口が狡猾と言いますか。えっと廣田さんのブレーンは……」
この手の話に対して何故か広い見識を有している今朝吾君は即座に答える。
「確か法制局長官は次田大三郎さんであったかと。警察キャリアの方ですが東京帝国大学で法学を学んでおりますので、もしかしたら美濃部さんの教え子の1人かもしれませんね」
「次田さんですか……。すみません、教え子かどうかは覚えていませんね」
大学教授ともなれば毎年多くの学徒に師事しているのだから、個々人を覚えていられないと言われても、それは致し方無いだろう。ましてや美濃部さんのような一学説の権威として上り詰めた人物であれば尚更だ。
「――話を戻しましょう。
次田さんが助言したかは分かりませんが。廣田さんは法に詳しい者の意見を取り入れたと見るべきでしょう。
普通に考えれば前陸軍大臣の専任事項だと考えます。そういう意味では寺内陸相の在り方は間違っておりません。現役武官の人事は間違いなく統帥権の管轄事項ですからね。これは統帥権干犯だとか機関説・主権説を問うものでありません。
……が。その一方で陸軍大臣をあくまで内閣の一国務大臣として規定するのであれば、前陸軍大臣の承認なしに首相の独断で現役将校を閣員名簿に加え、強行上奏という手段はあることにはあります」
内閣総理大臣が国務大臣の就任の内諾を得るという面だけを見れば、強行的に上奏するのは手法としては可能なのか。だが、美濃部さん自身も言葉を濁していることからこれには欠陥があるのが明らかである。
「後者の手法は難しいのではなかろうか。美濃部さんも話している通り現役武官の人事は……」
「ええ、先ほど述べましたが統帥権の範疇ですね。
なので強行上奏を行った場合、考え得るのは陸軍さんからの陸軍大臣人事反対の帷幄上奏でしょう。統帥権の輔弼機関は陸軍省や参謀本部ですので、この帷幄上奏は正当な権限と言わざるを得ないでしょう」
強行上奏に対してのカウンター的な帷幄上奏か。こちらが手段を選ばないとしても、陸軍にはそれを防ぐ手立てがある。その陸軍権限強化の一端には私も関与しているので口惜しい限りではあるが、今はそれが邪魔になっておる。
そこに美濃部さんが付け加える。
「ですが、帷幄上奏に持っていくというのは、それはそれで意味のあることです。
帷幄上奏であれば慣例的にも陛下が裁可が与えない、ということはあり得ますし、何よりロンドン海軍軍縮条約の折には侍従長によって帷幄上奏そのものを阻止しています。宮中の意向次第という賭けに持っていくことは出来ますね」
……つまり反対の帷幄上奏読みで、事前に宮中工作をすれば良いと。何ともまあ悪辣なやり口である。反対されるのを見越して上奏を利用するというのは、あまり積極的に使いたい手ではないが。
そこまで話したところで、今朝吾君が本題に入るかのように切り出した。
「では大権の発動を用いて新たな陸相候補を出すように勅令を出す、ないしは予備役将校を現役に復して陸相に任命する……というのは可能なのでしょうか」
さて。おそらく今朝吾君が最も聞きたい部分であろうものを自分自身で美濃部さんに問うてきた。
だが、この手法は誰しもが思い至る手法であるため、美濃部さんも回答を用意している。
「上奏自体は宇垣さんに大命降下されたことで、国務大臣としての奏請で叶うことでしょう。
そして新たな陸相を出すことも、予備役を復することも、どちらも陛下本人であれば完全に合憲です。統帥権は陛下が有しておりますからね」
おや。思ったよりも、旗色の良い回答だ。憲法のプロセス上は御聖断を乞うことは問題ないのか。
現実的な可能性が生じたので、ここで一度話を止めて、私が個人的に気になっていたことを聞く。
「その場合、内大臣に申し上げて取り次いで頂けばよろしいのでしょうか」
「既に大命降下を受けておりますので、首相と同等の権限を有していると解釈すれば、行政府の長として上奏は誰にも縛られませんよ。内大臣にも侍従武官長にも法的に止める権限はございません」
何と。直接お上に拝謁して差し支えないのか。これは知らなかった。
おそらく私の考えが顔に出ていたのだろう、美濃部さんは一転して厳しい表情をして述べる。
「ですが。陸軍人事の輔弼責任は陸軍大臣が有しております。先ほどのように反対の帷幄上奏を出してくることも考えられますし、首相による陸軍人事の介入として統帥権干犯を持ち出されれば、陛下の御言葉を盾に陸軍大臣を選定する、というのは私の立場では違憲と言わざるを得ませんね」
「違憲、ですか……」
憲法学者たる美濃部さんから違憲と明言され意気消沈する今朝吾君。
でもまあ、天皇機関説に立ち返ればそれはそうなるか。天皇大権の行使には国務大臣の輔弼が必要不可欠であるという立場であったはずだ。で、あれば陸軍大臣の助けなしに陛下が統帥権を行使するようなことは断じて認められない。
長い沈黙の後、今朝吾君は俯いた顔を上げてこう一言添える。
「――それは、天皇機関説の立場では、ですね。美濃部先生?」
「……ええ。私は『機関説』が正しいと今でも自負しております故」
両名は実に良い笑顔であった。
1937年1月25日午後8時49分
東京府四谷区内藤町 宇垣一成本邸
「『国体明徴声明』を出させた陸軍さんは自ら天皇主権説を本朝の唯一の学説として、政府に認めさせてしまった。
この際機関説と主権説のどちらが正しいかなどは最早問題ではないのです。それこそ、そのような論争は我々憲法学者に任せていればよろしかった。
にも関わらず。国体明徴運動を支援した陸軍は、あろうことか天皇機関説を排撃してしまった。私を失職させたこともあり機関説との対立姿勢を鮮明になされた。
確かに議会という機関に核を置いた論であることは認めましょう。ですが、天皇機関説とはそもそも天皇という機関が国家の諸機関の輔弼を受けて統治権を行使するという考え方なのです。
……国家の諸機関に、陸軍省や参謀本部、教育総監部も当然含まれますのにね?」
つまり、天皇機関説とは議会の権限に比重は大きく割り振られども、陸軍機関の権限も保護しうる考え方であったのだ。機関説の考え方に則れば国家臣民の為に統治権を行使するのであり決して天皇個人の裁量と意志で統治権を行使してはならない。
少し立ち返ると、統帥権干犯問題では、同輩でしかない内閣や管轄外の議会などに軍事の専任機関たる陸海軍が干渉を受けないという立場を鮮明にしたが、これは同時に陛下の命には絶対服従という姿勢を建前に使った論理である。
国体明徴による天皇主権説擁護もロジックとしては同一だ。
軍部の政治的な暗躍は全て大元帥閣下である『天皇』の命には絶対服従という前提を立てている。
「偉大な大元帥閣下の命の下にしか服さない。それを建前とはいえ、陸軍さんは掲げてしまった。故に自らの権益を損なうような命令が陛下自身から下された場合、陸軍さんは自らの血肉を削いでも、それを断固として為さなければならないのです。
天皇機関説では国民の意を代弁して統治権を代行しているが故に、統帥権の代行機関として、その伝宣の手法に意見することは出来たはずなのに。
陸軍さんは、みすみすと自身の統帥権の代行機関としての権限を、陛下に返上なされたのですよ」
……先ほど美濃部先生は、陸軍大臣の輔弼権限を首相が犯しかねないから大権の政治利用は違憲であると述べた。
しかし、これは天皇機関説としての立場である。
他ならぬ陸軍が国体明徴声明を介して、天皇主権説を金科玉条に掲げて天皇機関説を排撃してしまった以上、陸軍は主権説の欠点をも内包してしまったのだ。
大元帥閣下の命にしか服さないという言説、これが他の政治勢力の介入を避けるために必要であったことは私も理解している。
だがそれは逆説的に言えば、陛下さえ動いてしまえば容易に政治勢力の介入を受けることの何よりの証左である。これまで陛下は立憲主義の枠組みから逸脱しないよう、慎重に行動なされていた。その前提があってはじめて陸軍の独占的な権益は保障されていたのである。
「――つまり、大権の発動をお願いし天皇の信任を得られれば。
それに帷幄上奏やら。三長官会議などを持ち出し陸軍部内が私の内閣の樹立を阻害したときに。
……私は陸軍の首脳部を国体明徴に反する分子として排撃できる、ということですね」
「本朝では私の信奉する天皇機関説は、異端思想ですからね。それも已むを得ないことでしょう。
……とはいえ。私――美濃部達吉という一憲法学者として、その行為は断じて容認することの出来ない蛮行であると断言しておきます」
――1937年1月25日午後9時13分。
宇垣邸を囲んでいた記者の手記には、憲兵所属の車が宇垣邸を後にしたと記されている。
※用語解説
本作に登場する用語をこちらで簡単に補足いたします。
解説事項は作中時間軸である1937年までの事項を基本的には前提としています。
美濃部達吉
憲法学者。東京商科大学(現・一橋大学)、東京帝国大学で教鞭を振るう。1912年に著書『憲法講話』にて天皇機関説を発表。以後同説は憲法学会の通説となり、議院内閣制・政党政治の思想的基盤として大正デモクラシーを支えた。同時期には、美濃部の著書は高等文官試験受験者の必読書にもなっている。1930年のロンドン海軍軍縮条約批准問題の際には濱口雄幸首相に、条約の批准権限は実質的に枢密院が有するがその枢密院の定員の決定権限は首相に帰属する(意向に沿わない枢密院議員を定員を理由に奏請を利用して事実上罷免することが可能)と伝えている。1932年には貴族院勅撰議員。
しかし軍部の台頭に伴い『国体明徴運動』が起こると、天皇機関説は次第に攻撃されるようになり、同説の提唱者である美濃部も排撃される(天皇機関説事件)。事件の結果、著書は発禁処分、貴族院議員を辞職、不敬罪の疑いで取調べを受けている(取調べ後に不起訴処分)。
その後政界や教鞭の場からは身を退き隠居していたが、1936年2月には右翼浪人に吉祥寺の家にて襲撃を受け、右足を負傷している(美濃部達吉銃撃事件)。
美濃部達吉銃撃事件
1936年2月21日に右翼の暴漢が偽名と元地方裁判所判事という偽りの肩書をもって美濃部邸を訪問し、応接間で対峙中に手土産として持ってきた果実籠に潜ませた拳銃で美濃部を害した殺人未遂事件。
犯人である暴漢は計七発の弾丸を打ち放ち、美濃部の右足に流れ弾が一発当たる。当時美濃部邸の門前で護衛に当たっていた巡査は美濃部よりも先に逃亡。騒ぎを聞きつけた美濃部邸の女中が近隣の駐在所に駆け込み、そこに詰めていた警察官の手によって暴漢は捕縛される。
しかし本事件の二審の際に、暴漢の放った銃弾が全て命中していないことが美濃部の証言から明らかになる。巡査が喚問されるが証言は不明瞭、事件当時に巡査が所持していた銃の提出を求めるが、警視庁は紛失したとの回答。台帳の提出を求めるも、これも見当たらぬと回答。摘出された弾丸の鑑定の結果、暴漢の所持していた拳銃の銃弾でないことが確定。美濃部を害した犯人は今日まで判明していない。
なお本事件は、1937年1月時点では内務省により新聞公開差止めがなされている。
天皇機関説
明治憲法の憲法解釈の学説の1つ。議会、裁判所、内閣といった国家の諸機関の最上位の『機関』が天皇にあたるとした学説。国家の意思決定機関の最上位として主権及び統治大権を有するという考え方で、天皇の有する政治的な権限を否定しているわけではない。
これに相反するのが『天皇主権説』であり、こちらは憲法を超越する超然とした国家そのものとして天皇が君臨するとしている。なので天皇の有する権能は憲法成立以前から有する自然的な権能(皇室に代々伝わる神権)として解釈ができ、無制限に行使できる(ただし天皇主権説の中にも学説が分れており、大正天皇・昭和天皇に御進講を行った清水澄は天皇主権説論者だが、清水の主権説は国務大臣の輔弼責任に対する天皇の権能の解釈の広さを除けば実質的には天皇機関説に酷似している)。
天皇機関説事件
1935年2月18日に貴族院本会議にて菊池武夫議員が美濃部の天皇機関説が国体に背く学説として批難したことを発端する一連の事件。
2月25日に美濃部は天皇機関説を説明する「一身上の弁明」演説を行い、菊池議員をも納得させ事態は一次落着する。大手新聞各社も演説の全文を掲載し天皇機関説の説明に尽力している。が、3月より学論および憲法学の域から離れて天皇親政主義者や右翼団体、陸軍の強硬派、野党政友会などにより政治問題化。
「一身上の弁明」演説の新聞記事も、一部反対派には内容が理解されずにより反対運動が激化する。政友会は倒閣を前提として、機関説提唱者の一木喜徳郎枢密院議長の失脚を画策。陸軍は美濃部の取調べと著書の発禁処分を要求。
政府による2度の国体明徴声明により終息。
国体明徴声明
天皇機関説排撃運動の高まりを受けて、1935年8月(第一次)と10月(第二次)に岡田啓介内閣が発した声明。第一次国体明徴声明では『若し夫れ統治權が天皇に存せずして天皇は之を行使する爲の機關なりと爲すが如きは、是れ全く萬邦無比なる我が國體の本義を愆るものなり』として機関説を国体の本義から反すると発表。第二次国体明徴声明では、更に『天皇機關説は、神聖なる我が國體に悖り、其の本義を愆るの甚しきものにして嚴に之を芟除せざるべからず』として芟除されるべきものと、より表現が進んだ。
統帥権干犯問題
明治憲法11条にて陸海軍の統帥権は天皇が有し、また12条では陸海軍の編制及び常備兵額(編成大権)もまた天皇が有することが記されている。
これを輔弼するのが、軍政に関する事項であれば陸海軍大臣であるが、軍令・作戦に関する事項であれば参謀総長(陸軍)・軍令部総長(海軍)であった。
海軍軍縮条約締結に伴う軍の兵力量の変化は、本来編成大権によって定められるものであるが、軍の兵力量は作戦計画に直結するとして条約締結は軍令組織に認められる統帥権を犯す行為だと批判された。
編成大権の輔弼が内閣の構成員たる陸海軍大臣の所轄事項であるため、内閣が議会に法案として提出し議会の協賛を得て条約を批准する濱口のやり方は問題が無い。
が、これが軍令・作戦事項とするのであれば、首相の権限では本来介入できず天皇の命令しか受け付けない。そこを付き海軍軍縮条約の締結を統帥権の範疇に含まれると解釈して、首相の越権行為という政治問題として浮上させたのが統帥権干犯問題である。
帷幄上奏
軍事事項について天皇に上奏すること。1937年1月時点で慣例・法制的に帷幄上奏が認められるのは参謀総長・軍令部総長・陸海軍大臣・元帥・軍事参議官である。法律であれば両議会の承認を得る必要があり、また緊急勅令でも国務大臣全員の同意と枢密院の諮詢となるが、帷幄上奏権を用いればそれらのプロセスを経ずに直接軍事事項についてならば天皇に対して意見を求めることが出来る。帷幄上奏の取次は侍従武官長の専任事項である。
1912年には2個師団増設問題において内閣の承認を得られたなかったことで上原勇作陸相は帷幄上奏を用いて単独辞職、後任の陸相を出さないことで倒閣に及んでいる。また、法律・勅令の裁可時に天皇の一意によって翻される先例は無いが、帷幄上奏の場合はプロセスが容易であることから天皇が否認するケースもある。
逆にロンドン海軍軍縮条約の際には締結反対の立場で帷幄上奏を求めた加藤寛治軍令部長を鈴木貫太郎侍従長が独断で延期させ、帷幄上奏そのものを侍従長が妨害することも行われている。これは侍従長が侍従武官長の職分を犯していることも含めて後に批判されている。