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1937年1月25日午後3時55分―同日午後5時38分

 「大命を拝しました本人は、例えば軍部におきましては自分の適当と認める人を陛下に奏薦することが出来る」

 「私の申しましたことは大命を受けましたものが任意奏薦して宜しい、陛下に御推薦申し上げて宜しいと言うことを申したのであります」

 「私が申した通りに御信用を願います」


 ――廣田弘毅 軍部大臣の選任方法について帝国議会で三度に渡って問われたときの回答

 1937年1月25日午後3時55分

 東京府麹町区三宅坂 陸相官邸前


「宇垣閣下。永野修身海軍大臣との交渉は如何に?」


 陸相官邸は三宅坂にあるが、海相の居室が割り当てられている海軍省は霞ヶ関にある。とはいえ、同じ麹町区内で車で行けば5分も掛からずに往復できる。

 話しかけてきた今朝吾けさご君は、海相官邸までは付いて来ずに、何喰わぬ顔して陸軍省内に入って待機していたようである。随分と面の皮が厚い。


「陸軍の方が纏まれば、すぐにでも海軍大臣を出すそうだ。

 ……で陸軍省内はどうであった?」


 この辺りの調整能力は流石海軍であると言わざるを得ない。陸軍の中枢部のように表立って私に反対はしないが、かといって確約を与えないことで陸軍にも恩を売り付けておる。……まあ、当事者ではないが故に出来る芸当であろうが。


「相当旗色は悪いですよ。やはり石原さんが反対派の急先鋒となって他の将校らを纏めております。……というか三長官も三次長も強硬に反対している、といった様子ではなく、この石原さんの一派の突き上げによってなし崩し的に反対に回っている、といった様子ですね。


 ただその足並みを崩すのは現状では難しいと思いますよ。石原さん、三月事件のことは勿論、二・二六事件が未判決であることや粛軍人事の最中であること、挙句には庶政一新の精神も挙げて反対しておりますから」


 石原莞爾氏か。しかし三月事件を出すとは本格的に私のことを潰したいとみえる。だが、それを主因で私を潰したら石原氏も満州事変のことを蒸し返されるのではなかろうか。自身の政治生命とともに私を道連れにするつもりなのか。


「……ふむ。石原氏が反対派の急先鋒であるなら、やはり寺内君の意見を翻すことが出来るやもしれぬな。彼自身は表立って私のことを反対していないのだろう?」


「確かに反対派ではないですけれど、陸軍の総意に逆らってまで此方に付くとは思えませぬが」


 厳しい交渉となるのは承知の上だ。だが、寺内君自身が反対しているわけではないのであれば、何か突破口があるはずだ。




 1月25日午後4時17分

 東京府麹町区三宅坂 陸相官邸


「――というのが組閣の方針であり、同時に私が抱懐していた政策である。どうか意向に沿う陸軍大臣の推薦をお願いしたい」


 今朝吾君とともに陸相官邸に乗り込むと、まるで敵地を想起させるような、いや実際敵地なのであろう、厳しい視線を将校らから向けられた。表向きは陸軍の重鎮と現役将校という間柄なので、丁寧に挨拶を送っては来るが誰もかも仮初めの上下関係でしかないことは明らかであった。

 一応今朝吾君は未だに反対派側だと思われているようで、今朝吾君が私を寺内君の下まで案内していることに誰も不信感を抱いてはいない。それどころか憐憫の念を向けているものも居るくらいだ。


 そのような最中で、寺内君は面会謝絶まではしなかった。そこで、まず組閣方針と首相就任後の政策を伝える。懸念だと思われているのは、大方私が軍縮を推進したから、此度の情勢でも軍縮に転ずるという疑問点の解消だ。

 廣田内閣を潰してしまったが故に本年度予算を通せていない、という面も私――というか『宇垣軍縮』という過去の出来事への反感があると考え、その対立の解消を試みようとした。

 三長官会議で陸相を出してくれるなら万々歳。あるいは寺内君自身が陸軍大臣を留任するのもありだ。


 しかし、寺内君は弱く首を振りこう告げる。


「そこの、中島今朝吾中将からもお伝えした通り、部内の情勢を見て組閣を拝辞していただきたいのです。

 ……陸軍は敢えて閣下の組閣を阻止する意図はありませぬが、政策等に関する反対ではなく、粛軍の見地から閣下個人に反対しているのです」


 政策上の問題ではないと来たか。確かに陸軍の在り方として、政論に惑わず政治に拘わらず、というのは正しい。

 が、陛下から大命降下された人物を陸軍の都合で拝辞させようとするのは、果たして政治に関与していないと言えるのだろうか。


 そして粛軍の見地。これは先程今朝吾君から伺った石原氏の見解か。つまり石原氏の個人的見解が、陸軍上層部の意思決定に少なからず影響を与えている。

 陸軍としては三月事件のことを明るみに出す訳にはいかないはずだ。なれば、ここでの粛軍というのは、皇道派の再台頭を阻止する名目か。


「……寺内伯爵。少々気になっていたのですが。1つ宜しいでしょうか」


 ここで、今朝吾君が動く。

 寺内君は現時点でも彼を反対派の先鋒と考えているから、発言を遮らない。


「伯爵のおっしゃる『粛軍の見地』とは、予備役に送った皇道派が再び陸軍部内で影響力を持たないようにするため、同じく予備役である宇垣閣下が陸軍に影響力を与える先例を作ってはいけない、ということですね?」


「うむ。それがどうか致したか、中島今朝吾中将?」


「陸軍大臣であれば、『軍部大臣現役武官制』によりそれは成し遂げられると愚考いたします。

 ――しかし予備役将官が首班に就いてはいけないという規則は無いですね。いや、それが陸軍をして荒木貞夫首相などという戯言を容認することではないとは思いますが。

 となると予備役将官に大命降下されるときには、常に『軍部大臣現役武官制』を用いて陸軍大臣を選出しない、という手法を取るということでしょうか」


 ……この発言は寺内君と私にはまるで違うように聞こえているだろう。

 今朝吾君を反対派だと思っている寺内君にとってみれば、これは部内を代理して私に恫喝をかけているように映るだろう。私に対して手の内を晒しているという失態はあれど、我が陣営が現役武官制の存在も知らぬとも思ってはいないはずだ。寺内君がこれを言えば陸軍の総意として問題になるが、憲兵司令官である彼なら最悪意見の1つとして処理できる。

 だが、私の首班就任に尽力しているという視点が加わると、この話はがらりと変わる。これは遅効性の毒だ。

 陸軍が押し上げたい首班候補には、近衛公以外に越境将軍の林君の名があった。林君もまた予備役である。すなわちここで粛軍の見地でもって、私を潰すと林君も同時に潰さねばならないと脅しているわけだ。


 石原氏の論理の欠陥を突きつつ、反対派の立場に足掛けながら暗に『軍部大臣現役武官制』の発動を躊躇いを持たせるという一手か。


 しかし、ここで寺内君も、私を潰した後の後継内閣の際の大臣選定に影響が出ることに気が付いたようだ。


「中島今朝吾中将の云う通り、『軍部大臣現役武官制』に基づき陸軍大臣には予備役の者を付かせることはない。

 が、あくまで宇垣閣下が大命を拝辞せぬと言うのであれば、こちらも検討いたしましょう。相応に難しいと思われますが……」


 寺内君は陸軍大臣を出さないとは明言はせず、検討、と言葉を入れ替えてきた。


「しかし折角陛下から仰せがあったのだから、責任者である寺内君が部内を纒めてくれないと困る。そして候補者を出してくれ」


「やれるだけはやってみようかとは思いますが……。他の三長官にも通さないとならないので候補者の調整は難航するかと……」


 どうも煮え切らぬ返事であるのは間違いないが、一応候補者選定の作業を行うという言質はいただいた。これ以上は、寺内君だけの権限では無理もあろう。杉山君に期待するしかないか。


 そう思い、大臣室を辞去しようとしたその瞬間。今朝吾君がとんでもないことを言い出した。


「――寺内伯爵。『軍部大臣現役武官制』の制定に際して廣田弘毅前首相と、『三長官会議を経ず陸軍大臣を自由に任命できる』という交換条件の下、定められた制度である、と。

 宇垣閣下にお伝えしなくてよろしいのでしょうか?」



 今朝吾君が言い終わるや否、寺内君の顔がみるみるうちに赤くなり、怒号が室内に響く。


「――中島、貴様寝返ったか!? いや、それを何処で知った!」


「私は憲兵司令官ですから」


 涼し気な顔で寺内君の怒号に対して一言で返す今朝吾君。

 しかし、この寺内君の反応で今朝吾君の話す廣田さんとの裏取引があったことはほぼ確定か。ここで今朝吾君の離反が鮮明になるというデメリットはあるが、それでも必要な情報である、これは。


 軍部大臣現役武官制については、陸軍の総意であることは疑いようもない。皇道派の将校を要職に就けたくないという彼らの派閥力学は理解できる。そしてそこを廣田さんが突いてきた、と。寺内君は廣田さんと部内の空気との板挟みになり、裏取引を容認したのではなかろうか。これはある意味では寺内君も被害者だ。無論それに同情するつもりはないが。



 陸軍大臣の選定には、別に三長官会議の同意を得る必要がない。これを廣田さんが私に知らせてくれなかったことは大いに腹立たしく思うが、だがそれも不問としたくなるほどの置き土産である。

 ……というか、これを今朝吾君は知っていたからこそ、私に陸相の兼任を薦めてきたのか。


「寺内君」


 優しく声を掛けたつもりであったが、存外に低く響いてしまい、先ほどまで真っ赤であった寺内君の顔が今度は急速に青くなっていくのが見て分かった。


「その様子だと、廣田さんとの交渉を中堅将校らには明かしてはいないか。

 言えぬよな、そりゃあ陸軍大臣の人事権を首相に明け渡したなんて」


「……首相に明け渡したわけでは在りませぬ。

 あくまで次期陸軍大臣の推薦は現職の陸軍大臣が行う、と。そう約したに過ぎませぬ」


 ……よし。裏取引があったことは認めたな。おそらく次の大臣候補の推薦に関しては廣田さんは曖昧に濁したのだろう。首相に任命権限があるのか、前陸軍大臣にあるのか、そこをあえて棚上げにした。


「では寺内君の同意があれば、次の陸相は決定する、ということでよろしいか?」


「あ、いや……。それでは慣例にそぐわぬのでは」


「三長官会議が慣例化したのは、清浦さんの下で私が大臣に任命されたときからだ。それ以前は陸軍大臣が後継を指名することもあった。

 ……陸軍の重鎮である私が、慣例について詳しく知らぬとでも思ったか」


 それきり、寺内君は顔を俯かせてしまった。

 そこを透かさず今朝吾君が追撃を加える。


「そもそも伯爵は湯浅内大臣から事前に宇垣閣下に大命が下ることについて問われておりましたよね。その折には『良い時分である』と……」


 ……そこまで言っておきながら、反対派の風向きが強いと見るや否や鞍替えしたのか。そして宮中筋まで憲兵で辿れるのか。


「まあ、『候補者』の件については良しなに頼むよ、寺内君?」


 非常に弱弱しく注視せねば分からなかったが、寺内君は確かに首を縦に動かした。




 1月25日午後5時31分

 東京府麹町区三宅坂 陸相官邸外・宇垣一成私用車内


「寺内君には不憫なことをしたが……。だが、彼の一存で候補者が湧いて出ることは無いであろうな」


「そうですね。伯爵も結局石原さんの形成した部内の風潮に便乗しただけです。そこから距離を取らせた、という意味はあるでしょうが。

 結局それが部内の反対派の勢いを削ぐかと言われれば、むしろより勢いづけるだけでしょう」


 脅すようにして寺内君に候補者を選出するように伝えてはみたものの、別に寺内君が率先して組閣の妨害をしていたわけではない以上、旗色が変わったわけでもない。

 いわば寺内君も、強硬な陸軍部内の被害者とも言えよう。


「……となると寺内君に陸相をやってもらうという言質を貰わなかった以上、失敗か」


 今の寺内君に詰め寄れば、大臣就任の確約を得ることも出来たであろうが。あの様子では土壇場で再度意見を翻されても困るし、何より就任したところで長続きはしないだろう。


「そもそも廣田内閣組閣時にも寺内伯爵を使って陸軍中枢は暗躍しましたからね。今回の件も、その延長線でしかないとも言えますが……」


 一応曲がりなりにも今朝吾君もその中枢の一員なのだが。その辺りの自覚がどうなっているのか一度問いただしたい。


「だが失敗は失敗だ。

 君の言う『窮余の策』の出番がやってきたぞ。さあ、どこへ行けば良い?」


「では、宇垣閣下の本邸にお戻りいただければ。

 実は先方には、そちらに来ていただくよう、内諾を頂いておりますので」



 ――1937年1月25日午後5時38分。

 宇垣一成の私用車は、陸相官邸を後にして帰路につくのであった。

※用語解説

 本作に登場する用語をこちらで簡単に補足いたします。

 解説事項は作中時間軸である1937年までの事項を基本的には前提としています。


三月事件

 1931年3月当時の陸軍中堅幹部が中核になって推し進められたクーデター未遂事件。民間右翼団体の大行社が警視庁を襲撃し東京で騒乱を起こし、社会民衆党が群衆を組織し帝国議会を包囲した上で、陸軍部隊が議会保護の名目で議会の封鎖と内閣の倒閣を行い、後継首班に宇垣一成を指名させる計画であった。

 この事件で宇垣は一部なりとも陰謀に加担したとされ、その後の政治活動に尾を引くようになる。なお本事件は当時から陸軍が新聞報道永久差止めに指定(宮中・政治家・新聞社などは事件を認識)しているため、表沙汰にすると宇垣とともに陸軍も窮地に陥る諸刃の剣でもある。


庶政一新

 廣田内閣で掲げられたスローガン。陸軍においての解釈は、1936年11月に各地に配布された陸軍編纂の小冊子『陸軍軍備の充実とその精神』から窺い知れる。陸軍としては「準戦時体制の国際情勢に対応するために広義国防の見地から国家のあらゆる機構を国防の一点に集約し再編成させること」を指す。

 その肝となる政策が国家総動員法と国防力の強化であり、既に廣田内閣にて前者は『国策の基準』(1936年8月)にて指針は決定されている。

 国防の充実は、昭和十二年度予算案にて大軍拡と大増税が示されたことで推進していることが分かる(予算成立前に廣田内閣総辞職したため廃案)。


宇垣軍縮

 1925年に宇垣一成陸軍大臣により行われた第三次軍備整理のこと。それまでの第一次、第二次軍備整理(1922、1923年・山梨軍縮)では師団編制を変更するなどして大量の人員削減は行っていたが経費の削減は不十分であった。そこに関東大震災が発生しその復興費用捻出の下、4個師団の廃止を伴う改革に着手。

 結果として軍縮と一定の近代化には成功したが、師団の削減により一度に大量の将官の人事整理が発生し、以後陸軍内部では派閥対立がより激化し宇垣派以外の将校からは宇垣一成の名は強い反発を受けるものとなる。


陸軍大臣の留任

 高級人事の異動には三長官の合意が慣例的に必要であったが、三長官のいずれかを罷免する場合にも、その本人の同意が必要であった。

 1935年7月の眞崎甚三郎教育総監罷免時には、眞崎が教育総監の辞任に同意せず林銑十郎陸軍大臣と激論を交わしている(最終的には参謀総長の閑院宮載仁親王から叱責され更迭が実現)。

 新たな陸軍大臣を選出するのには慣例に則れば新大臣候補本人、陸軍省人事局、三次長、三長官全ての合意が必要であるが、留任であれば陸軍大臣当人の意思さえあれば制度的には可能なのである(ただし三長官会議を翻してまで陸軍大臣に留任し続けた先例はこれまでに無い)。


軍部大臣現役武官制

 1936年5月に陸軍省・海軍省官制に追加された「大臣及次官ニ任セラルル者ハ現役将官トス」という規定にて復活・・した制度。主目的は二・二六事件に関与の疑われた将官を軍部大臣に任命しないことを意図するものであった。

元は1900年に山縣有朋が政党政治の高まりを受けて規定。『現役』に限定したのは、現役武官の人事は統帥権に属するため、内閣の介入の余地が無いためである。1913年には『現役』が廃され、予備役・後備役・退役軍人まで補任資格は広がった(ただし実際に非現役の武官が大臣に任命されるときは一旦現役復帰することが慣習的に行われている)。そして二・二六事件以後に『現役』のみと再規定された。


軍部大臣現役武官制の交換条件

 軍部大臣現役武官制の復活当時に、廣田弘毅と寺内壽一との間でやり取りされたという秘密交渉。

 現役武官制の復活の見返りとして、廣田は陸軍大臣の任命を三長官会議の同意を必要としないように改定すること、そして必要であれば予備役を現役復帰させて任命することを是とする対価を要求していた。

 これが史実で判明するのは、8年後の1944年の小磯内閣組閣時で、それまでいくつかの例外はあれど基本的には三長官会議が引き続き陸軍大臣の選定権限を有していた。


廣田内閣組閣時の陸軍中枢の暗躍

 1936年3月6日に廣田の選定した閣僚候補に対して時局認識に大いに疑問があるとして寺内の入閣を辞退させようとしたこと。このときに名指しで指定されたのは、外相・内相・法相を含めた5名の人事であった。

 また3月8日深夜には、陸軍の要求を汲み取り再度組み直した閣僚人事に対して、民政党・政友会の両党から2名ずつ大臣が入っている点を指摘され、各1名に減らすように再び注文が付けられたが、そちらは廣田により取り下げている。


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