1937年1月31日午後3時17分―翌2月1日午後1時5分
「では――何が故に、宇垣は軍から閉め出されたか? 彼自らが育成し、彼自らが仕上げた後輩になぜ手を噛まれたか? しかも彼は、山県有朋、田中義一の直系に属する陸軍のホープだった。従って彼の身辺には俊才雲のごとく集った。この人的結合を派閥という。三宅坂は『宇垣系にあらずんば人にあらず』とまで云われた。
しかしこの期間も長くは続かなかった。宇垣が朝鮮総督となって三宅坂を雛れると、荒木・真崎らが、いわゆる皇道派を率いて乗り込み、宇垣系を根こそぎ追い払った。
もはや三宅坂に、宇垣系はない筈である。だが――軍はやはり『惑星宇垣』の睨みが怖いのである。もうひとつは三月事件、帝都騒乱による軍の首班内閣の野望を彼が一蹴したこと、古疵を持ち出すならば、往年の4ヶ師団減少の手腕が怖かったのである」
――中村幸三郎
1937年1月31日午後3時17分
東京府麻布区広尾町 宇垣一成組閣本部
今朝吾君の進退と引き換えに、梅津陸軍次官の譲歩を引き出すことに成功した。それにより、梅津君からは恨みを買った気がするがそれは決して気のせいではないだろう。
だが言い訳をさせて貰えるのであれば、今朝吾君が職を辞すことについては私も初耳であったのだ。あの場は交渉の座であるが故に動揺を抑えて利害関係に落とし込み考えたが、冷静に考えれば一言くらい相談があって然るべき話でもあった気がする。
……まあ、だが良いだろう。総理秘書官として抱え込むことに決めたのだ。そのくらいは飲み込まねばなるまいて。
「――さて、後は明日と明後日で全て片が付く。
いや。実際は始まりに過ぎない……だが。それでも1つの節目であることには違いあるまい」
明後日――2月2日に控えるは現役復帰の特旨。それと同じ機会にて閣僚名簿を全てまとめて同時に組閣の奏上も行おうと考えている。
「では。まずは今回の組閣にあたり参謀長格として我々を引っ張ってくれた弥三吉君」
「はっ。
軍が宇垣閣下に抵抗感を覚えているのは分かっていましたが、まさかここまで頑強だとは思いませんでした。けれど、先程閣下と今朝吾君の奮迅があり。梅津次官を卸すことが出来ました。
未だ陸軍の反宇垣の風潮は強いですが、最早旗頭を振って世論に反抗できる人物はそう多くない」
弥三吉君は実質的な取り纏め役としてこの組閣本部で役割を果たした。陸軍大臣の選任ではいち早く香月君を見出し、怪文書騒動では独断ではあったが先んじて声明発表を行ったことで要らぬ詮索を記者らにされずに済んだ。
「じゃあ、そのまま陸軍繋がりで溝口君」
「……まあ私は退役している身ですがね。
私は、あまり此方の組閣本部には居られませんでしたが何とか丸く収まりそうでほっとしているところです」
溝口君は、あの料亭『幸楽』で同席してくれた一人である。
退役軍人で、あの寺内君と同じ伯爵であり、貴族院議員。まあ大蔵君や今井田君も貴族院に籍を有するので、私の友人仲間で貴族院の者は然程珍しいわけでもないが、それでも軍人というファクターと両立しているという意味では大事な友である。
「では、次は西原さん」
「はい。私からは何か言うというよりも、一つ閣下にお尋ねしたいことが。
……残った大蔵大臣と農林大臣についてはどうするので?」
西原さんは伊豆の長岡から、ずっと付き従ってくれた。政界の深い部分まで精通しているが故に、黒いことも時折提案してくれていた。彼なしでは組閣は立ち行かなかったのは間違いない。……資金繰りも含めて。
「その2大臣についてだが。
最後の陸軍との交渉の切り札として使うつもりだ」
「具体的に……政党の人物を入れるかどうか。そこをお聞きしてもよろしいですかな?」
そう話すのは政友会の船田君。内務政務次官として兒玉さんのことをサポートさせるのが確定している彼が気にしているのは、政友会から大臣が2名出ているのに対して民政党からは現状1名である点。
最早、政友会から大臣が新たに出ることは無いことは確信しているだろうが、民政党出身者が増えれば内閣の勢力図が書き変わる。そういう情報はいち早く政友会上層部に届けたいという一心からの申し出なのだろう。
「正直に言えば2案用意している。
第一案が陸軍懐柔策で、第二案が強硬策だ。
……そして第二案のみ、民政党からの入閣があり得る」
そしてその構想を明かす。
「懐柔策では、賀屋興宣大蔵大臣に……石黒忠篤農林大臣ですか。
また、随分と抜擢したものですね」
「ふむ。大蔵君もそう思うか。
……実はこれは今朝吾君の発案なのでな」
大蔵君は私の組閣について昨年から動いてくれていた。閣僚の選定や政策の是非についてそのたたき上げ案を共に作ってくれたし、彼自身国策研究同志会を始めとして政軍問わず顔が広い。あの近衛公の後援組織である昭和研究会の常設委員でもあり、近衛公のブレーンと繋がるかと思えば、私のことを嫌う陸軍中堅幹部らとも話が出来る、と色々と小回りが利く存在だ。
……まだ話してはいないが、その陸軍受けの良い貴族院議員として陸軍参与官の座を用意している。
そして、そんなことを考えている間にも今朝吾君はさらさらと説明を行う。
「――成程。賀屋さんは主計官僚時代に陸海軍予算編成に携わっていたのですね。で、軍部の受けも良いと……」
そう語るのは東京朝日新聞の常務取締役である美土路君。彼も情報源としては有力なのは当然として、その立場を十全に使って私に貢献してくれた。時には他の報道機関へ流す情報を選別するための調整弁として、あるいは積極的に動くときは広告塔として役立っていた。
「後は賀屋さんはまだお若いので、陸軍から見れば軽く見えることでしょう。
陸軍部内の野望たる統制経済計画を進める絶好の機会に……見えなくもない」
「では、石黒農林大臣はどういう意図で? 確かに農林省にこの人在り、と言われた人物ではありますが……」
今朝吾君に質問を重ねたのは、鶴見君。
民政党の青年部長であるが、党人としての身分に囚われず私の手足として宮中・省庁・軍部を往復し縦横無尽の活躍をみせてくれた。
組閣参謀として、あるいは永田秀次郎拓務大臣の盟友としても。更にはかつては日米中を渡り歩いた歴戦の弁舌家として。今後は太平洋問題調査会を含めた外交方面での期待を込めて外務政務次官として重光君の補佐をして頂きたいと考えている。
「石黒さんは、ある意味では満州派への飴とも言えます。満州移住協会理事長と農政に従事する御仁ですから、満州流の農業統制術に高い関心があるように演出できます。
だが。石黒さん本人は満州人脈で囲われていたわけでは無い。彼等の要求を飲みつつも操り人形を入閣させない、という手です」
……と。このように陸軍懐柔策とは銘打っているが陸軍に屈するわけでも、意見に従ってその通りの人選をする、というものではない。
あくまで主導権は此方に在り、その上で歩み寄っているということを象徴するための、そして相手が辛うじて妥協できる限界点を示したに過ぎない。
「……これが懐柔策であれば、強硬策とはどのようなもので?」
そう尋ねたのは安井君。私の朝鮮総督時代に引き続いて秘書のようなことをさせてしまっている彼だが、立派な拓務省の要人である。だが、今回の組閣においてはむしろ官僚時代の出自である内務省の影響力を強く利用した印象を受ける。
……彼が秘書官のごとくこの組閣本部に詰めておらねば、怪文書騒動で麻布警察署の面々の指揮を取ったり、その後憲兵司令官である今朝吾君から警備計画を委任されても卒なくこなすことは出来なかったであろう。
彼には内閣発足後には、総理秘書官として正式に私を支えて貰わねばならない。今朝吾君も同職であるが、しばらく実務は安井君に頼り切りとなるであろう。
「強硬策は単純で分かりやすい。大蔵大臣には二・二六で凶弾に遭った高橋是清さんの薫陶を受けた結城豊太郎氏を就け、農林大臣を民政党の永井柳太郎幹事長に明け渡す。事実上の財界と政党への懐柔策と見て頂いて構わない」
「……それは。確かに前廣田内閣の組閣で口出しした陸軍にこの上なく喧嘩を売っておりますな」
そう言ったのは、時事新報の社長経験もある小山君。小山君は鶴見君とは別枠で独自に宮中工作を行っていた。そちらにかかりきりで組閣本部の方にはあまり顔を出していなかったものの、この大詰めという場面でやってきた。
また情報網も美土路君とは異なる部分もあるので、比較・精査するのに役立ったと言えよう。
「――さて。本題に入る前に。1つだけ。
今井田君。前に来なさい」
「……? はい」
今井田君――今井田清徳。彼との付き合いは朝鮮総督時代からだが。今回の組閣にかける熱量は他の誰よりも強かった。それこそ私に比肩する程だ。
予備役である私が粛軍人事の一環として退官させられようとしたら、直接廣田さんと交渉してそれを取り消し、また大蔵君とともに随分と早い段階から組閣に向けて相談を重ねていて時折私のところにも顔を出してくれたのをよく覚えている。
法制局長官に池田さんを推挙したのは永田拓務大臣であったが、その話を私に持ってきたのは彼、今井田君であった。
更には重要な相談事については今井田君はその場に居ることが多かったし、安井君とともにこの組閣本部を回すのに必要不可欠でもあった。
そうした諸々を踏まえれば。
「――これまでの活躍を鑑みて。今井田君には……内閣書記官長の座に就いていただきたいと、思っているが……どうか?」
「……っ。私が、どうして宇垣さんのお誘いを断ることが出来ましょうか。
その任。喜んでお受けいたします」
「これからも、よろしく頼む……。
……さて。改めてだが。
陸軍の妨害で始まった今回の組閣であるが、梅津次官の協力を取り付けたことで、私に反感はあれど組閣の現実味が出てきた。で、あれば最強硬派さえ取り除ければ。陸軍は我等に口を開けて批判はできなくなる。
――その、最後の障害が……」
これは、誰もが声を合わせて呟いた。
「……石原莞爾」
満州派に他の将校も居る。陸軍大臣資格を有する板垣君、神輿として祀り上げる予定の越境将軍の林君も居る。だが、事ここに至ってはそれらの動きを統制しうる旗振り役だけ抑えることが肝要だ。
そしてその役割は、石原氏にのみしか務まらない。
「然り。……今朝吾君」
一言、声を掛ければ、即座に私の求める情報を開示する。
「私に一言命じて頂ければ、美治郎……いえ梅津次官に一報を入れることは叶います。そして今の次官であれば必ずや石原大佐にまで伝達いただけることでしょう」
「……と、石原氏に渡りを付けることはできる」
そこで、一言区切る。すると今井田君が口を開く。
「でも。呼びかけに応じますかね? 陸軍部内の外を見れば劣勢なのはむしろ石原大佐の方ではないですか。
徹底抗戦に入れば決して会わないでしょうし、そうでなくともここでの会談は離反を想起させるが為に、自身の支持者の手前動けぬのではないでしょうか」
「――そこに関しては、私は石原氏を信用しているよ。
ああいう型に嵌らない男は、他人のことなど気にも留めない。
……むしろ。今の劣勢を己の力でなら覆せると喜び勇んで、此処……組閣本部を単身訪れるさ。
――でなければ満州事変などという独断専行は起きん」
そして、今朝吾君と梅津次官を経由して石原氏に明日の午後1時に待つ。という旨の伝言を出すだけ出した。
……無論、返事は返ってこなかった。
2月1日午後0時53分
東京府麻布区広尾町 宇垣一成組閣本部
「……此方へ何も通達はありませんでしたが、本当に来るのですかね?」
「まあ、殊勝に返事をする輩でも無いだろう」
一応のタイムリミットである組閣最終日である2月2日、その前日。
この佳境を陸軍の一介の大佐に割くというのも前代未聞であるだろう。だが、そんなことを言い始めれば陸軍の長老たる私が陸軍に反旗を翻されることも、陸軍三長官が謀略まで用いて陸軍大臣を出さないことも、大命降下から組閣まで此処までかかっていることも……とにかく異例尽くしである。
すると、外を警戒していた憲兵の秀澄少佐が今朝吾君に耳打ちをする。
「……どうやら、来たようです」
基本的なことは梅津君のときとほぼ一緒だ。私と今朝吾君の2人で相対する。出入り口に件の憲兵2人を置くが、彼等は基本口を開く立場には無い。まあ依願辞職の件は伺っているが、まだ聞き置いているだけなので身分上は今朝吾君も今なお陸軍中将である。
陸軍軍人としての現在の身分と、軍服を脱ぎ総理秘書官となる将来的な面――どちらを使うかは石原氏の出方を見定めてからで構わない。
遠目に外を見据えて石原氏の姿を探っていたら、記者らに囲まれた和服を着崩している人物が現れた。
よもや、軍服すら着ずに私服で来るとはな。
意図は分からぬが警戒度合いはむしろ上がった。
「安井君。いつものように応接室に通しておけ。……一旦厠にでもいって心を落ち着かせる」
……さて。ここが正念場となるか。
2月1日午後1時2分
東京府麻布区広尾町 宇垣一成組閣本部応接室
「貴様が石原か。こうして顔を突き合わせてまともに話をするのは初めてか?」
「そうですね。……で、何用ですか?
閣下のように政治ごっこに興じている暇は、私には無いのですがね」
上官に対してこの態度。石原という男の交渉術か、と瞬刻考えたが多分そうではない。
素でこれなのだ。自らが敬意に値すると認めた相手でない限り、それが上官であろうと誰であろうと誤りは誤りだと指摘するし、侮りもする。
「貴様が、満州派の要にて越境将軍の林君を担ぎ上げて陸軍内閣を作ろうとしている。間違いないな?」
「今更確認を取ることでもないのでは? その確信が無ければ私をこうしてわざわざ呼びつけることもないでしょう」
鋭い眼光からはほとんど瞬きが見受けられず、私や今朝吾君のことを射抜かんとしながら語る。だが、何かにつけてそうした嫌味たらしく反抗的な態度はどうにかならんのか。
不可解で独特な雰囲気を有する男である。
だが、今は部下ではなく政治的敵対者として相対している。そして彼のが劣勢にあることは明らかなのだから、虚勢という面も見え隠れするので、表面上はそのような相手の姿勢はさも気にしていないように見せかけ語る。
そして陸軍懐柔案として用意していた、大蔵大臣と農林大臣の人事を石原氏に見せる。そして、その大義を語ろうとしたところで他ならぬ彼から、その発言を止められる。
「笑止。そのような小手先の誰が大臣となるかなるまいかという矮小な議論を終始しているのを私は『政治ごっこ』と言っているのです。
……そのような相談は、十河さんの下を訪ねてすればよろしい。
私は関知致しませんし興味もございません。無論そのような名簿などで閣下の妨害を辞めるつもりも、毛頭ございませんがね」
※用語解説
賀屋興宣
大蔵官僚。1927年ジュネーブ海軍軍縮会議随員、1929年ロンドン海軍軍縮条約随員。このとき対米7割を強硬に主張した山本五十六と鼻血を出す程の殴り合いになっている。(が、後に山本のことを「聞き上手で話やすい人。真に度胸のある、正しい素直な人。いつ論じ合っても後味の悪い事がない」と賀屋は語っている。)
帰国後は主計畑を歩み、1932年には予算決算課長、1934年に主計局長、1936年に理財局長を歴任。その中で陸海軍予算を担当し、軍人とも交流を深める。その予算担当時に折衷を行った軍人の中に石原莞爾も含まれている。
石黒忠篤
元は農林官僚。東京帝国大学法科大学を卒業後農商務省に入省。その後、新渡戸稲造・柳田國男の所属する『郷土会』の発足時メンバー。1914年には農政研究のために訪欧、帰国後は農林省のホープとして中核的人物として同省を牽引し1934年に退官するまでの彼が農林省幹部として政策決定に携わった期間のことを『石黒農政』と呼ぶ。その昭和農政の第一人者として『農政の神様』とも称された。
その後は、農業報国連盟理事長、満州移住協会理事長、日本農業研究所理事長を歴任。農業振興と農村救済に努める。また満州事変以後は満蒙開拓移民に小作問題解決(内地の人口飽和による職の不足)の糸口を見出して、満州移民の積極的な推進者となる。
内閣書記官長
内閣の機密の文書を管掌し、閣内の庶務を統理する役職。内閣人事のうち判任官以下の者は内閣書記官長の一意で決定することができた。そして当職は勅任官でありながら首相による自由任用が認められており、首相の信任を受けた実力者が任命されることが多く(その中でも内務省出身者が多い)、事実上の内閣総理大臣の補佐役という要職となりその権限も強化されていく。その権勢は、その担当者や内閣により様々ではあるが本来上位である各省大臣すらも凌ぐこともあった。