1937年1月31日午後0時8分―同日午後2時51分
「陸軍内で、参謀本部第一部長心得・石原大佐の鬼才も制し、陸軍省内の空気を抑え得る人は梅津美治郎陸軍次官を措いて他にはなかったであろうと考えられる」
――額田担
「(梅津美治郎は)中央向きの有能な官僚型であり、能率的な態勢をつくって省部を指導するのに向いた人であった」
――稲田正純
「(梅津美治郎は)思慮あくまで周密、情報の『推移を注視して寸分のすきも見せなかった達人』という評がある。 梅津の冷徹緻密さは伝説化している」
――松本清張
「正に得意において淡然、失意において平然、難に処するに冷然たる偉丈夫」
――荒木貞夫
「陸軍省で話し相手になるのは梅津だけだ」
――石原莞爾
1937年1月31日午後0時8分
東京府麻布区広尾町 宇垣一成組閣本部
近くの割烹料理屋が仕出しで珍しく松花堂弁当を供していると聞き、気になって人数分注文したら「配達人員が足りない」と嘆きの言葉が寄せられたので、うちの家人に車を回させて運ばせた。
本来は午後からの予定しかなかったが為に、午前中はゆっくりできると睨んで計画していたものであったが、その想定は崩されたのである。
とはいえ、準備していたものを無かったことにする方が大変なので、あんな襲撃の後ではあったが組閣本部でまとまって食事を取ることにした。
「……三菱倉庫会長の三橋信三さんには、組閣本部として貸し出されているこの別邸に弾痕を残してしまったことを謝罪し、詫び金をお渡ししておきました。
とにかく閣下の身体に大事なく、怪我人も出ていなかったことに心底安堵しておりました」
美土路君を使って、信三さんのところに使いを出しておいて良かった。
まあそれなりに金は包んだし、そもそも三橋家とは私の娘である光子と信三さんの倅が婚姻している縁戚関係にあたる家だ。悪いようには扱わないだろうとは思っていた。
それに実際に私が襲撃され殺されたりすれば、三菱倉庫の名にもケチが付くかもしれぬ。そうならなかったというのは安堵もするだろう。そして、更に今後の話も見据えれば、皇道派将校らが襲撃してきた事実を揉み消したいと思うはずだ。その一点においては私と一蓮托生なのである。
「……ちなみに、応接室に残した2人はその後どうした?」
この質問には、念の為今朝吾君が監視に残していた上砂中佐が答える。
「はっ、1時間半ほど前に帰られました。迷惑をかけたことを謝罪する旨の言葉は預かりました。それは組閣参謀の方々も耳にしているかと。
皇道派将校の監視ということであれば東京憲兵隊から人員を動かしても差し支えないと考えましたので、現在は尾行させております」
ちらりと今朝吾君の顔を伺えば、無言で頭を縦に振っていたので、東京憲兵隊から人を動かしたことについては黙認するということであろう。直属の上司がそのような態度を取るのであれば、私からとやかく言うことは無い。憲兵隊を動かしたくない、というのは今朝吾君の考えなのだから。
「……上砂中佐。口止めは如何に?」
「無論。二・二六事件での同志将校らの無念をここで不意にするのかと現役中尉には語りかけ、予備役大尉の方には自白するのは勝手だがもしこの事が露見すれば『黒崎中尉のことを陸軍中枢は嬉々として待命にするだろうな』と伝えておきました。
どの道。皇道派青年将校の中で未だ現役なのは彼くらいです。その彼を護るためであれば、此度の事件を隠蔽することくらいはしてくれると思いますが」
上出来だ。まあ清廉潔白であり事実を隠さない気高き信念と、最早風前の灯火である皇道派の信念。どちらを取るのかは当人次第だが、少なくとも揺さぶりをかけられたのは成功だ。最悪、ここは時間さえ稼げれば陸軍軍法会議で内々に処理することも可能なのだから。
「ひとまずこれで、意図的に三菱倉庫や襲撃将校の方から今回の事件を漏らす……という危険性は減ったと見てよいだろう。
となると次点で考えねばならぬのはここを囲む記者らに、発砲音をおそらく聞かれていることだが……」
関係各所の口止めが出来たとあれば、次点で考えるべきは本件を目撃した記者への対処だが。
これについては西原さんが口を開く。
「まあ、これだけ多くの新聞社の記者が目の当たりにしたら賄賂で口止めも無理でしょうね。仮に全新聞社に賄賂を行き渡らせることが出来たとしても、どこかの新聞社が出し抜くかもしれぬという疑心が付き纏いますから費用対効果は極めて悪いと言わざるを得ません」
実際金で済むのであればそれが最も穏当ではあったが、『政界の黒幕』とも呼ばれて西原さんがその手段を疑問視するのであれば、やはり意味の無いものだと思わざるを得ない。
「……となれば、まあ事前検閲しかありませぬな。ですが……」
「そうだな、今井田君。事前検閲の権限を有するのは、外務大臣と、軍部大臣だけだ。
そして皇道派将校の進退を隠蔽するとなれば、必要なのは……陸軍大臣の決裁」
先例無き優諚降下の後、陸軍大臣職をどう取り扱うかについては寺内君との間で暗黙の紳士協定が結ばれ極力政治問題として浮上しないようにお互いに努めていたが、どうもそうも言っていられなくなったらしい。
前任者である寺内君に頼み込むのが最も筋であるのだが、それを行うと優諚により曖昧になっていた陸相権限を確定させてしまい、逆に私が優諚を根拠に新聞差止め命令を陸相権限で行えば、軍部大臣現役武官制に抵触する。
では、どうするか。
「……そういえば、今朝吾君。梅津次官との会談は何時からであったかね?」
「そうですね。午後2時には此方に来るかと」
……陸軍次官である梅津君に相談するのも手か。
そう考えていると、今井田君が話しかける。
「宇垣さん。今日使う予定があるのなら応接室の弾痕――応急処置でも塞いでおきます?」
「……いや。そのまま残して梅津君に見てもらうか」
1月31日午後2時4分
東京府麻布区広尾町 宇垣一成組閣本部応接室
「……ふむ、そうですか。皇道派の青年将校残党が宇垣閣下に害を為した……と。
それで我々に事件の隠蔽をお願いするということですが。……彼等の処罰を要求しないのは何故でしょうか?」
定刻通りにやってきた梅津君との対談は、今朝吾君と2人で会うことにした。陸軍部内のことだから、高官同士でやり取りする内容だから、という言葉で濁したが実際のところこの2人が竹馬の友であり、今朝吾君がこの対談を望んだことにある。
しかし、最初から彼等2人の時間にする訳にはいかない事情が今日の午前に発生したので、まずはその話からと切り出した結果、梅津君から質問で返された。
実際問題として。彼等を処罰したとして私が傷を負うことはない。せいぜい、警備責任やらで警察を信任した部分が陸軍に対して弱みになるくらいか。
だが統制派牛耳る今の陸軍部内は、これを奇貨として更なる粛軍人事を推し進めることのできるカードである。
梅津君は、そうした統制派の中で陸軍次官に就いているという意味では中核を占める人物であるが、かつての永田鉄山君の信望とは比べるまでもない。
主流派であれど、大多数の統制派の賛意というか空気感が無ければ、彼もまた杉山君と同じように陸軍を意のままに操ることができないのだ。
だからこそ、梅津君の意見には常に『自分自身の意見』か『統制派としての建前』かが混在する。それを見極めねば、彼の真意を探ることは極めて困難となる。
としたとき。先の質問の建前は、現行の中枢である統制派に対するカウンターパートとして皇道派の復権を考えているから事件を隠蔽しようとしているのではないかという疑惑だろう。
まずは、その誤解を解く必要がある。
「……私としては正直、彼等が罰せられようとそうでなくともどちらでも構わないのだがね。事件を起こしたという意味では責を取るべきだとも思うし、個人としては未遂な上、私の説得にも応じたからただの対談であったと結論付けても良いとは思っている。
だが問題は粛軍人事を行って尚、そうした危険因子を取り除けていないことだろう。
成程、梅津君は再度の人員整理を行うだけの決断力と胆力があるかもしれぬ。
だがそれは二・二六事件の尻拭いとしてやってきた粛軍人事が少なからず瑕疵があったことを認めることに他ならないのだぞ」
「……つまり、宇垣閣下は我々陸軍上層部に対しての慈悲から事件の隠蔽を主張している、と?」
今回のことを大ごとにして騒ぐことで確かに皇道派の更なる壊滅を目論むことはできる。しかしそれを行えば少なからず、粛軍人事そのものが管理不徹底という政治的烙印を押されることに繋がるのは事実だ。
そうした場合、陸軍の規律粛正を宇垣一成の名の下で行った方が良いのではないかという世論に繋がりかねないし、正直それはそれで私にとって都合は良い。
これを敢えて明らかにすることで梅津君は私に恩を売られていると判断したようだ。
ここで、今朝吾君は追撃態勢に入る。
「美治郎。事を大きくすれば、必ず参謀本部からの横槍が入り果断な処罰が求められるはずだ。
皇道派への懲罰にばかり目がいって、本来陸軍省の専任事項であるはずの人事行政権限が統帥権の名目で更に分散することになるぞ」
「そのようなことは、貴様に言われんでも分かっている。
……しかし、今朝吾。貴様に軍政の陸軍省一元化構想を一度でも話したことがあったかな。
貴様は友ですら憲兵で動向を逐一監視しているのかね」
梅津君の構想は、陸軍大臣に人事権限を集約するということ。それは即ち三長官会議を廃し、大正以前の陸軍大臣が人事を掌る状態に復するということだ。
この構想をどこかで聞いたことがあると思ったら、廣田さんと寺内君との密約だ。
……廣田さんは梅津君の心中を読み切っていたのではないかと思わせる。
そしてこの構想に則れば確かに、私が陸軍三長官の決定を覆して優諚という手段を用いて陸軍大臣に就こうとしているのは、梅津君個人の考えからすれば極端に批難するべきものでもないという部分が透けて見えてくる。
とすれば、確かに今朝吾君の語る通りに、梅津君個人の考えからすれば今回の事件を大ごとにすることで参謀本部の介入を招くことがマイナスになるという考え方は分かるのであるが。
梅津君は、その考え方を寸分の狂いもなく今朝吾君が言い当てたことを問題としたようだ。
私は、この組閣にあたる前の今朝吾君のことは詳しくは知らないがために、そのまま受け入れていたが旧来の友人である梅津君は異なる考えを持っているようだ。
「今朝吾。貴様はどうも二・二六の前後で、まるで人が変わったかのように今まででは考えられぬような行動を取っているな。
そもそも憲兵司令官に任じたのは確かに私だが、私もそこまで憲兵を掌握できる男だと貴様のことを思っていなかったし、あのような事件の後でなり手が居なかったから閑職であった貴様を据え置いたに過ぎん。
それに貴様が宇垣閣下に付くというのは珍妙な話だ。反対派の急先鋒になるのであればまだ私も分かったが、どうも私が付き合ってきた中島今朝吾という男と今の貴様は相反する行動を取る。流石に軍人としてそれ以上政治的な行動は看過出来んぞ。
……最早、私の一存で貴様の免職を押し留めるのも難しくなっている」
過去の彼と、私が見知った彼はまるで別人であると梅津君は語っている。正直、そこに異論を挟むことは私にはできない。
が、色々と腑に落ちない部分も確かにあった。
彼は憲兵を用いて尋常ではない高い精度の多量の情報を自らの手中に収めていた。……が、それ以前の経歴で憲兵の意のままに操ることが出来るような人心掌握術を有する人間であることを示唆するものは皆無である。
陸軍以外の動向や国外情勢についても、凡そ常軌を逸した知識を有していた。しかし、梅津君が語るには以前は『政治系』将校では無かったようで、それらの知識を身に付けたのはここ1年程度と推察される。……付け焼刃の知識にしては半ばあり得ない精度なのにも関わらず。
更に私が大命降下の為宮中に向かう最中の路上で今朝吾君を拾ったが、その時も寺内君の伝言を伝えるのみであった。その時何故彼のような男を寺内君はメッセンジャーに選んだのか疑問に思っていた。……だが、元々私の反対派の急先鋒となる男であったのであれば納得がいく。
急激に政治的色彩に増していく今朝吾君に梅津君は、流石に看破出来なかったのであろう。
おそらく私に就いただけであれば梅津君は彼の免職をそのまま押し留めたはずだ。だが、あまりにも政治的に動きすぎている彼を見て旧来の友人としての情とともに、軍人としてあるべき姿から逸脱した彼を切り捨てると決めたのだ。
すると今朝吾君は反論を繰り出す。
「確かに宇垣閣下の組閣に有利となる情報を流している、それは事実だ。
だが政治的だというのであれば、天皇から大命降下の下った首相就任を阻止する方が政治的ではないのか」
それは正論。実に正論であった。
――政論に惑わず政治に拘わらず。
それが確かに軍人の本分であり。その正論に則って考えるのであれば、内閣の組閣などという純然たる政治的行為に本来は陸軍の意志が関与することはあってはならない。
「……軍人は政治に関わらない、という姿勢は貴様に賛同するが。
だが、今朝吾。貴様は政治に関わらないどころか宇垣閣下の組閣行為に大いに尽力しているではないか。それを持って非政治的だと断ずることは出来ぬぞ」
今朝吾君が建前の正論であるのならば、梅津君は実務の正論であった。
如何に言葉を取り繕うとも、今朝吾君が私の組閣の実現に労力を割いている事実は否定出来ぬし、それが政治的行為である事実もまた否定できない。
つまり今朝吾君は、政論に惑わされ政治に拘わっているのだ。
その点で言えば、陸軍部内のただ一方的な反宇垣という感情論で私に味方した今朝吾君を免職する動きよりも余程今の梅津君の論調は理に適っていると言わざるを得ない。
だが、そうした動きをして陸軍全体の尻拭いをする梅津君もまた――政治的行為を働いているのに他ならないことは直視すべき事実であろう。
結局、軍事事項と政治を完全に分離することなど出来ないのではないか。その清濁を併せて呑み、建前と虚飾を駆使して何とかやり繰りしていくことでしか陸軍という官僚組織――政治組織を運営することは能わないのではなかろうか。
そのようなことを両者の話から考えていたら、今朝吾君がとんでもないことを言い出した。
「――美治郎。もう良いさ。
そもそも宇垣内閣が成立したら、陸軍を辞するつもりだったから今免職になったところで然したる違いもあるまい。そのまま首にでも何でもすれば良い」
その言葉に私も梅津君も絶句する。
しかし、今朝吾君は止まらず、私に話を振る。
「……ということで。私は晴れて浪人の身となるわけですが。
私の有する知識と見聞を――総理秘書官として拾い上げる気概は……宇垣閣下に御座いますでしょうか」
随分と転身の早いことだが、総理秘書官か。
少し考える。まあ、今まで私の下で秘書官のごとく働いていた安井君が居るし、事務的な部分は彼が居れば十分だ。
となると、空いた枠に今朝吾君を入れるか。成程、決して悪くはない。憲兵から切り離されることで今までのようには陸軍部内の機密情報を拾い上げるのは難しくはなるであろうが、そこはやりようの問題でもある。
また彼の価値はそうした新しい情報を仕入れてくることではなく、今までの動向を把握することに長けている点だ。これは易々と失われるものではないはず。
私が頷くのを見て、今朝吾君は再び矛先を梅津君へと向け直す。
「ということで、梅津陸軍次官。私の組閣協力は軍人の政治関与問題ではなく、単なる首相候補者とその秘書官の意見交換となった訳ですが。
陸軍の総意として『政治に関与する』理由は一体何故でしょうか?」
その言葉はひどく挑戦的な態度であったが、それは同時に中島今朝吾という男の覚悟の表れでもあった。
流石にここまでの断言を見せられては、旧来の友人である梅津君も引き下がらざるを得ない。
「……今朝吾の覚悟は分かった。貴様に免じて、免職の件は私で押し留めておく。
皇道派の件も新聞差止めを寺内伯爵へ話しておく。
また私個人は最早宇垣閣下にも、石原にも与さない。それで良いのだろう。
……だからせめて免官ではなく、依願退職という形を取っておけ」
そう言って彼は立ち上がるとそのまま応接室の扉へと向かっていく。
そして扉を出る前に、私にむかって一礼をしたかと思えばこう告げた。
「……宇垣閣下。あなたの組閣の邪魔は致しませんし、用件があれば今朝吾を通じてご対応致しますが。
……同期を。友人を。このような形で陸軍から追い出さねば為らぬとは。ままならぬものですね」
「……それについては、心中察しよう」
結局のところ。
数多の将官を粛軍の名の下に、人事整理していった梅津美治郎という陸軍の統制の要の次なる尻拭いは。
自らの友人であった、ただそれだけの話である。
※用語解説
松花堂弁当
略式の懐石料理の流れを汲み取った1933年頃から見られたこの時代としては最新の茶懐石のスタイル。中に十字形の仕切りがあり、縁の高いかぶせ蓋のある弁当箱を用いて仕切りのそれぞれに料理を入れる。
考案したのは吉兆の創業者である湯木貞一が、貴志彌右衛門に茶懐石の料理を命じられたことを始まりとして、その後毎日新聞によって全国的に取り上げられた。
4つの仕切りの内、1箇所は物相で押し固めたご飯が入れられ、他の区画には汁気の無い焼物が入ったりするが、特徴的なのがそれ以外の場所には仕切りの中に器をはめ込み、暖かい煮物や冷たい刺身などを供する点。
と、いうのも弁当箱の中に食器という「食器の上に食器を置く」様式は、それまでの日本料理の常識を破る文化(例外として『つぼつぼ』という小さな壺型の容器を平皿に乗せて供する形式はあったが、それも間に塩や葉などを敷く)であったためである。
ただしあくまで懐石料理の一種であり幕の内弁当のように携行性に優れるわけではなく、本来は仕出し弁当には向かない。
(ただし1938年11月の話にはなるが、阿南惟幾が人事局長から第109師団長へ更迭され出征することとなった際に、阿南を信頼していた昭和天皇が極秘に宮中に招き入れ陪食した際に出されたのが、この『松花堂弁当』である。当然、天皇と2人きりで出征の門出を祝われることは先例は無い。)
梅津美治郎の軍政の陸軍省一元化構想
廣田内閣で復活した軍部大臣現役武官制だが、その主目的は確かに二・二六事件に関与の疑われた将官を軍部大臣に任命しないことであったが、梅津は密かに陸軍三長官に分散した人事行政の権限を、再び陸軍大臣に一元化することを企図していた。
これは統帥権干犯という強力なカードを有する参謀本部の力を少しでも削ぐことで陸軍部内の統制を回復させようという意図があったが、参謀本部側の強い反対によって頓挫する。
そうした陸軍省と参謀本部の対立、すなわち梅津と満州派の対立が徐々に顕在化していく中で今回の宇垣の組閣が開始され一旦はその対立は息を潜めることとなっていた。