1937年1月31日午前9時40分―同日午前10時18分
「国家改造という事は臣下として申上ぐ(申し上げる)べき事ではなく、一に上御一人の御事にかかっていると考えまして、我々赤子が真の赤子としての充実発展、換言しますと天壌無窮の皇運を扶翼することに邁進致しますならば必ず御稜威が御盛んになりまして、天下皆一人もそのところを得ざる者なき結果に到達すると信じます。従って一般に言う改造とか維新とかいう辞(言葉)をもってしては、この信念は十分表わす事は出来ません。叙上(前述)の見地から真の改造は、真の維新という字句を用いて使いますならば、天皇陛下、即ち日本国で赤子は陛下の分身分霊でありまして、その信仰の上に立ってその日の生活を充実発展していくことが即ち維新であり、改造であると信じます」
――大岸頼好
1937年1月31日午前9時40分
東京府麻布区広尾町 宇垣一成組閣本部応接室
二・二六事件の忘れ形見である皇道派青年将校の残党。
如何に粛軍といえども、事件に何ら無関係の将校を処刑することなど不可能であり。精々どのような濡れ衣を着せたとしても予備役編入がせいぜいであった。
確かにあの事件は部隊指揮官であった現役将校の力添えが無ければ発生し得なかったという面では事実だ。しかし、その精神的指導者であった西田税もまた予備役であり、粛軍の名目で陸軍から追い出したとしてもそれは所詮第2、第3の西田を生み出しただけとも言える。
というか二・二六事件の実行犯の一部である村中孝次や磯部浅一らも現役将校では無かった。そう考えると現行の陸軍部内の行った引締めが果たして再発防止策に寄与するのか、という疑問が生まれるが実際のところ統制派以外の将校を権力争いから引き摺り下ろすという主目的は達成されているのだから、ある意味では成功なのだろう。
しかしこうして私の下へ問い詰めに来る将校や予備役の人員が居るのだから、やはりやり口がまずかった面は否定できない。未だ公判中の荒木君や真崎君といった皇道派の重鎮が彼等青年将校の手綱を握っていたのかと言われれば微妙なところではあるが、かといって人事異動だけで全てが解決したわけではないのも事実。
そして、そのしわ寄せはこうして何故か私の下に降り注ぐのである。
優諚を利用した組閣が天皇大権の干犯に当たるという言説で批判されることは、想定していた。が、それはあくまでも陸軍部内、今の主流派から批判される場合を考えていたのである。だからこそ美濃部さんに助言を貰ったように、天皇主権説の論理から行けば陛下の言葉は絶対であり、大命降下も優諚もまごうことなき陛下の意志そのものを示しているからこそ、それを妨害する者こそ大権の干犯である……という国体明徴を逆手に取った反論は用意していた。
だが。これが皇道派となると話が大きく変わる。
実のところ皇道派将校らの主張は寡聞にして深くは知らない。素浪人であった北一輝という男の思想に影響を受けていたという話などは私の耳にも入っていた。が、そこに書かれているのは現行憲法の一時停止などの非常手段である。
これが大いに問題だ。天皇主権説や機関説といった範疇の話では最早無い。あくまでそれらの説は現行の憲法を如何様に解釈するのかという論争であり、そもそも今の憲法を神聖視も絶対視もしていない者からすれば先の国体明徴を利用した反論がそもそも意味を為さなくなるのである。
そして天皇親政。これから首相となろうとしている私にとって、その考えはまさに水と油だ。だが、首相という存在そのものに反対というのであれば今まで就任した全ての首相という首相を暗殺せねばなるまいが、そうはなっていない。
即ち、何処かに妥協点と解決策があるはずなのだ。
他ならぬ私自身の行動……それも大命降下直後ではなく、この時期に来るということは組閣を始めてからの動きで、彼等の逆鱗に触れた可能性がある。
となると、先の発言にあった優諚が要因なのだろうか。
……で、あれば。賭けに出るか。
「……もし、私が。
君達が危惧する通り、畏れ多くも陛下を利用して、自らの地位と保身の為に活かしている……と答えたら、どうするつもりな――」
――その瞬間、ピストルの発砲音が部屋に響き渡った。
1月31日午前9時41分
東京府麻布区広尾町 宇垣一成組閣本部応接室
部屋の天井に弾痕が残り、机を隔てた向こう側から硝煙が漂う。
「宇垣閣下!!」
「今朝吾君、大事ない。
だが、まだ動くな。上砂中佐、秀澄少佐君たちもだ。
そして麻布警察署の貴官らは誰でも良い。今の発砲音について外に居る人間に説明を頼む」
私がそう指示を出している間も、予備役大尉が手にしているピストルは下ろされない。
銃口は辛うじて理性が働いているのか未だ天井を向いたままだが、目には殺意が宿っている。流石に煽りすぎたか。
「……宇垣閣下……ご戯れを」
中尉の方が台詞では場を和まそうとしているのか、銃を持つ味方の殺意を削ごうとしているのか分からぬが、声を低くして語ったがためにまるで逆効果だ。
私は敢えて予備役大尉の方の名を呼びこう告げる。
「――大岸大尉。私が憎いか?」
「……陸軍の人間で、閣下のことを憎まない人間の方が少ないのではないでしょうか」
「そのように冗句で返せる内はまだ正気だな。
貴官は、政党政治家が憎いか、財閥の財界人が憎いか、宮中に居る陛下の側近らが憎いか?」
「――昭和維新とは。
閣下の考えるような直接行動に出るが如き外来思想ではなく、軍務に対して愚直に奉公すること……その信仰に立っての生活そのものこそが、維新であると私は考えております」
……ほう。天誅やら討伐といった重臣の殺害が維新ではなく、日々の生活――彼の言葉を借りれば『奉公』こそが維新であると。
彼個人の考えは、おそらく特異であるのだろう。だからこそ二・二六事件の折にて関与しなかったともいえるか。
「では、何故貴官は先程ピストルを抜き発砲したのであるか。
……いや、そもそもそのような考えであるのにこの組閣本部へと来たのか」
「――其処の黒崎中尉が、先程帰られた津野田候補生を引き連れて私の下を訪れたからです。
仲違いしたとはいえ、黒崎中尉は西田さんのところの生き残り。彼を易々と相澤さんの二の舞にする訳にはいかない、と考えたからです」
「大岸さん……」
2人が感傷に浸っている中で予備役大尉が発した台詞を考え直す。
これは、つまり。皇道派と呼ばれた派閥の中には具体的な行動を起こす派閥と、彼のように陛下への忠誠を示す派閥との『2つの皇道派』があった、ということか。
そして更に相澤という名。一昨年の相澤事件にて永田鉄山君を殺害した佐官のことであろう。その名がこの期に及んで出てくるということは、予備役大尉とは親しき仲の人物であったということだ。
……相澤という男は確か当時中佐であったはず。この予備役大尉は上官をも心服させていたのか。それは、今の陸軍中枢に睨まれて予備役入りもする訳である。
となると、予備役大尉の言動にも納得がいく。敢えて過激なことを私に示していたのは、これ以上『皇道派』の人間が不必要に目の前から消え失せるのを守るため。
私のことを殺してしまえば彼等は死刑となるだろう。そしてそれは今の陸軍部内にとって、宇垣派と皇道派残党を一掃できる最も望ましい結末となる。だから、中尉を守るためには必然、私の身体をも守らざるを得ない訳であり。
確かに発砲した人物と同席していただけであれば、予備役か免官か実刑かは分からぬが、流石に命までは取られまい。だからあえてピストルを抜いた、と。
いやはや、美しい程の上下関係である。
――であれば、利用しよう。
陛下に対しての信仰を損なうような発言さえ慎めば、残すは現役中尉の方のみとなるのだから。
「――であれば、黒崎中尉。
貴官はどのような存念で私の前に現れたのだね」
「……天皇家は現在に至る日本の歴史的変遷の中で、常に中核的存在であり続け、如何なる権力者であろうと、廃絶することを成し得ませんでした。
それが、日本という国家の本質であり、同時に命運であると私は考えております。
そしてやがてこの日本は、天皇と権力者が支配する国から、陛下と国民が最も直結した国家に、伝統を損なわず発展進化する過渡期にあります。
しかし宇垣閣下は陛下より優諚を引き出し、この国を再び天皇と権力者による統治国家にせしめんとしているように見受けられますが……」
此方の彼の場合は、国体に関するイデオロギー的な対立軸から私の行動に対して不満を持ったというわけか。
しかし彼の思想の方が、幾分先程の予備役大尉のものよりも分かりやすく『皇道派』である。
「――つまり、は。
貴官の同輩や先達であった将校らが折角蹶起したのにも関わらず、貴官の目には時代が逆行しているように思える……と、そういうことであろう?」
日本の国体とか歴史的変遷という言葉を使ってはいるが、結局のところ『宇垣一成』という一個人の名が、陸軍にとって既に過去の産物。あるいは私の背後にある政党やら宮中勢力やらそういった諸々全てが古臭く見える、という話なのだろう。
満州流の産業統制施策ではなく、統制派の中堅将校・軍部主導の官僚政治でもなく、ましてや議会政治や政党政治などでもない。
あれだけの青年将校が捕縛されたのにも関わらず、昭和維新は全く進行しないどころか退行しつつある。
そんなところで私という古臭い男が、優諚などという手段で権力の掌握を図った。その構造に問題があると考えた、と見れば良いか。
「――では、貴官が考える理想の政治、統治機構とは何か」
おそらくこの手の質問は、散々取調べを受けていたのだろう。特に迷いもなく紡がれる。
「我々の手には、日本改造に関する北さんの考えた方策の数々がありましたが。私はそれが、そのまま実現するなどとは到底思っておりませんでしたし、ましてや我々で政権を奪取して実行に移すなどというのは、最も唾棄すべき思想でした」
この辺りはおそらく十月事件や三月事件の余波なのであろう。そこで祀り上げられつつあった私を嫌うのはある種当然の流れである。
そのまま続きを促す。
「幕僚将校らと袂を分かったときに考えたのが、『尊氏の轍を踏むべきではない』という申し合わせであり。
ただただ、陛下に赤心を披露して、陛下の決断を促せば良いのだ、と――全ては陛下の判断に委ねれば我々は如何様に裁かれようと、それが理想の政治、統治機構だと、私は考えております」
行動を起こして、全てを陛下に委ねるか。この考え方は、国体明徴の精神に程近い。であれば、用意していた文言が使えるのでは。
「では、私は他ならぬ陛下の言葉によって大命が下され、優諚もまた下された。
これは貴官の考える理想の政治そのものではないのかね」
「大命降下に関しては、閣下に責のある問題ではなくその首班の奏薦手法に問題があるかとは愚考致します。だから大命が下された事実のみでもって閣下を糾弾することは本来あってはなりませぬ」
……こうして話を聞くと、陸軍部内よりも理性的な意見も飛び出してくる点については素直に驚かされる。
「しかし優諚を用いて強行し、首相と陸軍大臣を兼務するというのは頂けない。
陛下の御言葉はただそれだけで金言という価値のあるべきもの。にも関わらず、個人的な政治の都合に用いるなど言語道断」
「ならばどうする。仮に私が退いたとしても陸軍を握るのは貴官が唾棄すべきと考えている幕僚将校らだぞ」
「であれば、今のやり方に反感を持つ者を集めてもう一度維新を貫徹すべし」
つまり、私のやり方も陸軍部内のやり方も認めない、ということか。この切り口では最早説得は不可能であろう。少し切り口を変える必要があるか。
「だが貴官は、折角不起訴となり獄中から釈放されたのではないのかね。
既に刑の執行が為されているのも目の当たりにしてきたのだろう? 彼等の生き証人となり、語り継がねば今の陸軍部内によって貴官らの理想は塗り替えられ、未来永劫その考え方すらも禁忌になるやもしれぬ」
この発言に一時中尉は沈黙を保った。既に刑死した同胞や先輩らが浮かんだのであろう。だが、これだけでは意見を翻すには至らない。
確かに彼等の理想を汚泥にまみれさせるのは躊躇するだろうが、だからといって自らが理想に殉ずるのを諦める一因には為らぬであろう。
――決定打が足りない、私はそう考えていたが、この間隙を見逃さない人物が1人居た。
今朝吾君である。
「黒崎中尉。現在の陸軍部内――参謀本部と支那駐屯軍司令部にて、宇垣閣下が首相になるか否かに問わず、『北支地域全域での軍事行動』を前提とする計画が練られているのはご存知かね?」
その言葉に対して反応を示す。
「……いえ、存じ上げませんでした」
「つい昨年度改訂されたばかりだからね、黒崎中尉が知らぬのも無理も無いでしょう。
そこで宇垣閣下はそうした陸軍の武力行使を阻止しようとしている」
「まあ、せめてアングロサクソン国家との連携無くば我等が不利になるだけだ。
北支で戦争をしてはならない」
そこまで話すと、中尉の様子が目に見えて変わったのである。
「……つまり、宇垣閣下は中国との戦争回避の為に組閣に尽力なされている、と?」
「それだけではないがね。だが、私以外の首相候補と言えば近衛公に平沼議長に、あるいは越境将軍の林君といった面々だ。
陸軍の主張に賛同こそすれ、陸軍全体を敵に回してまで戦争に反対することはないだろう。
……相手からの武力衝突を阻止出来ぬまでも全面戦争を防がねばならないと私の考えを陛下にお伝えした。その結果が先の優諚であったのだ」
若干因果関係を誇張して表現はしたが、凡そはこの通りであったので委細問題ないであろう。
その後、しばし部屋を沈黙が包み込む。
一向に反応を返さない中尉の様子が気になったのか、予備役大尉が俯いた彼の顔を覗き込むと、驚きを隠せない様子でこう話した。
「……黒崎中尉。……泣いて、いるのか……」
「……北さんから、『戦争をしてはいけません』と……それを遺言と、言われていたのです。
宇垣閣下も同じお考え……ということは。北さんの意志を……継ぐことが、出来る……?」
その言葉を皮切りに、私はゆっくりと立ち上がり、一言だけ告げて応接室を後にした。
「後は、君達2人で話しなさい。……この部屋は、気が済むまで使って良いから」
私の背からは嗚咽が聴こえたが、私を呼び止める声やピストルの弾などは終ぞ放たれることはなかったのであった。
※用語解説
天皇親政
現役の天皇が治天の君として実権を掌握して政治活動を行うこと。上皇が実権を掌握する院政とは異なる。日本史上では短期間だがいくつか実例はあり、平安期の醍醐天皇と村上天皇の治世下で行われた延喜天暦の治や、後醍醐天皇の建武の新政などが有名。
そして当時流行学説であった皇国史観に基づけば、延喜天暦の治は中流貴族でもそれなりに高位の官職に就けた理想の政治像としてあるべき姿と認識される。あるいは建武の新政は、当時従来であった太平記史観に基づく恩賞配分の不備などの後醍醐天皇の失政を否定し、それらの失敗の要因を腐敗した人民や『逆賊となされた足利尊氏』に求めていた。
これらが更に現在の政治的な不満と結び付き、原因が『立憲君主体制下である明治憲法に依拠する戦前日本の政治システム』そのものにあるといった発想から、理想社会の建設には天皇による直接統治が必要であると結論付けられ、陸軍においては皇道派を中心として天皇親政待望論が高まっていった。
2つの皇道派青年将校グループ
従来の『皇道派』と呼ばれる西田・北の思想に同調する青年将校グループの他に皇道派の青年将校は存在し、決して一枚岩の勢力では無かった。
大岸は、初期こそは国体の制度改革論を論じていたが、徐々に天皇主義に傾倒し、天皇の神格化・尊王絶対の方向性へと舵を切ることとなる。その結果、重臣の殺害やクーデターなどの非合法手段で維新を完遂しようとした皇道派主流派からは徐々に外れていくこととなる。
1935年頃には西田派と大岸派が国家改造運動の行く末について論じたが、この時点で改造運動の在り方に深刻な齟齬が生じていた。そのため内部分裂していることを隠蔽するが為に、西田派は国家改造理論、大岸派は大衆啓蒙思想を謳った雑誌を双方別々に出版し両方併行して実施することを約した。
だが、大岸派側が「皇政原理の一考察」を独断で発表したことを起因として両者は決定的に決裂。西田派は相澤事件の公判記録をばら撒くことで大岸派に意表返しを行った。
こうして西田派は従来の『皇道派』として実力手段を用いて維新へと至り、大岸派との思想的対立の溝は埋まらず、両者仲違いしたまま二・二六事件を迎えるのである。
戦争をしてはいけません
黒崎貞明が二・二六事件に関して不起訴処分となり釈放されたその当日、西田税と北一輝の格子の前で別れの挨拶を行った。その際に「当分戦争をしてはいけません。ことにシナとはね。これは北の遺言です」と北から言われている。
この発言は、北が1930年の前頃より考えていた対米戦必敗の予想に基づく。北の予測では仮に日米で戦争を発生した場合に、アメリカはイギリスと即座に同盟を組むため海軍力では対抗不可能、そして米英が介入する以上中華情勢は反日に傾き、さすればソ連の介入も招きかねないと考えていた。なので、1930年より日米共同で中国へ投資を実施し国民政府の中国統一運動を助けることで、ソ連の東アジアにおける影響力を減らし、アメリカによる中国での反日ナショナリズムの支援を抑制しようと考えた。
そしてその絶好の機会は1935年11月に中国国民政府の外交部長であった汪兆銘が狙撃され負傷し、後任に北の二十年来の友人である張群が就いたことで訪れる。
北はすぐさま重光葵外務次官と協議し、廣田弘毅外務大臣や民政党の永井柳太郎らとも協議の上、訪中の時機を1936年の3月と定めていた。
その予定の期日が眼前に迫った1936年2月26日に二・二六事件が発生、29日に北は逮捕されたのであった。