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1937年1月30日午後4時2分―同日午後4時38分

 「(杉山元は)軍務局長、次官ならその頭脳、手腕は他に比類ないものであり、対人関係においても申し分のない人徳を備えていた。しかし、最高の地位に就くには、どこか一本骨が欠けている感じだ」


 ――高宮太平

 1937年1月30日午後4時2分

 東京府麻布区広尾町 宇垣一成組閣本部応接室


 部屋に入ると恐縮そうに背中を丸めた杉山君の姿があった。

 4日前に、私に大命拝辞の勧告を行う為にこの組閣本部を訪れた時も決して平常とは思えぬ姿ではあったが、今の様子はその時と勝るとも劣らない。


「……あのように啖呵を切っておきながら私に優諚が下るや否やのうのうと馳せ参じるとは、と言いたいところではあるが、どうやらその様子では本題は別にありそうだな。杉山君、一体何用か?」


 皮肉を抑えることは出来なかったが、努めて声色だけでも優しくなるように語りかけたつもりである。

 しかし、拭いきれぬ不信感を隠すには至らず――隠すつもりも毛頭無かったが――杉山君は大きな身体をより一層縮こまらせるばかりであった。


「既に閑院宮殿下と寺内陸相にはお伝えしているのですが、教育総監の職を辞任しようと思っております」


 ほう。確かに私はあの時、陸軍部内を纏められぬのであれば私に大命拝辞を要求するのではなく、杉山君自身が職を辞すべきと伝えてはいた。

 しかし、その言を実行するとは。……どこに意図がある?


「……辞任か。それは私としては杉山君が決めたのであれば兎角言う話では無いが……。差し支えなければ理由を聞いても良いか?」


「ええ。此度の一件で、部内統制の自信を完全に失ってしまったからです。

 私には、あの部内を教育総監として纏め上げることが出来ない……そう確信したからこそ、辞めようと。

 無論、宇垣閣下のご助言も踏まえてのことですが」


 嘘を話しているようには見受けられないが……。一方で何故この時期なのか疑問に思わずにはいられない。どの道、私が首相と陸軍大臣に就任したら、杉山君を教育総監に据え置くことは無いのは明らかだから、先に辞任する意向を示すことで、飛ばされたのではなく自ら勇退した、と演出するためか?


 すると、それまで黙っていた今朝吾君が口を開いた。


「……ちょっと、待ってください。閑院参謀総長宮殿下と寺内伯爵にお話しているということは、既に杉山閣下は教育総監では無くなった……その認識で正しいですか?」


 その質問の意図に私は一拍遅れて気が付く。

 高級将校人事を掌るのは慣例で言えば三長官会議、軍政権という法理上のプロセスでは陸軍大臣に帰属する。

 そう考えれば、廣田内閣にて陸軍大臣であった寺内君、あるいは今の三長官会議で杉山君の進退を決定するのは一見問題無いが、既に私は陸軍大臣就任の優諚を陛下より賜っている。

 だから、今陸軍大臣の職掌が私と寺内君のどちらに帰属するのか曖昧なのだ。一応寺内君とは示し合わせた訳では無いが不文律的に、敢えて火中の栗を拾う真似はしていないが、ここで杉山君が教育総監では無くなっていた場合、話が別になる。


 それなので今朝吾君は確認も兼ねて質問をしたのだろう。


「いや、今朝吾君。寺内陸相に『話は分かったが留め置く』と言われ、閑院宮殿下も頷かれましたので、正式に書面上で辞職はしていない」


 その言葉を聞き、思わず安堵の息を漏らす今朝吾君。おそらく私も外から見れば似たような反応を示しているだろう。

 少なくとも宮様や寺内君は、旗色が明らかに陸軍優位になるまでは表立って対立してこないということだ。

 となると、次に気になるのは杉山君の立ち位置だ。そうした陸軍大臣職の機敏を知らなかっただけだろうか。知ってやっていたら私への妨害工作にも捉えられかねない危険な行為だ。

 ただそのどちらの場合でも、今こうして私の下を訪れてそれを伝える理由にはならない。少なくとも寺内君の動きを報するというのは明確に私の利益となることだ。

 知らずにやっているのであれば私に伝える意味が分からぬし、妨害工作の意図があるのであれば私に伝えるなどということはしない方がより高い効果が期待できるはずだ。


 ……となれば、今の陸軍の状況を鑑みれば、自ずと答えは絞られてくる。

 教育総監辞任のカードを今この瞬間に切ることになったのは、彼の意図ではないと推定する方が自然だろう。

 つまり陸軍部内が私が優諚まで用いて組閣を強行したことで動揺が広がり、組閣妨害が上手く行かぬことの責任の所在を求めているのではなかろうか。そしてその部内の空気を察して保身の意味を込めて辞任の意志を杉山君が固めたところで、その辞任そのものを私への工作手段として利用された……大方このような所のはずだ。

 しかし寺内君の手でその工作は発動することなく葬り去られ、杉山君は仕掛けが不発したのを確認して、私に一報と詫びを入れに来た。


 さて、あくまで現状仮説でしかない私の考えをどのようにして実証しようか。


「――しかし。杉山君は教育総監の後任に当てはあるのかね? 辞めるのは構わないが引継ぎは然りとやって貰わねば困るよ」


 如何に先任者であろうと人事上の決定権は杉山君には無い。そのことをお互いに理解して私は質問を放っている。即ちここで後任候補に挙げる人物で、彼の考えを察しようという考えだ。


「――はっ。

 畑君はどうでしょうか? 私の同期ですし、中将なので補任資格は十分かと思われますが」


 そこで杉山君が出した名は、畑俊六。

 期せずして陛下の前で私が次期教育総監として名を出した人物である。


 おそらく私と敵対するつもりがなくとも今の陸軍中枢を慮る気持ちがあれば、後任に寺内君の名を出しただろう。

 表向き、統制派の領袖で陸相として私の組閣を妨害した寺内君を私の政権下でも影響力を残すという動きをすれば、杉山君は陸軍部内の為に退いたという名目を確保することが出来るだろう。しかも実態としては寺内君では私に強く反抗できまいから、私に対してのお膳立ても十分である。無難な人事で行けば寺内君を教育総監にスライドするのが両陣営にとって最も有り得るはずなのだ。


 にも関わらず選択したのは畑君。現在台湾軍司令官として中央から外されて居る彼は、純然たる作戦屋ではあるものの経歴からして私に近しい人物だと部内には見られていることだろう。

 それこそ現役に残るように私が手助けをした寺内君よりも。


 その事実が指し示すことは唯一つ。



 ――杉山君は今の陸軍部内と反目した私とを比較して、前者を損切りしたのだ。


 それは僅か4日前に自己の行った判断を誤りだと認識し、縁切りしたはずの私に対して賭け直しを行ったということである。

 成程。これを尻が軽く腰が定まらないと批判する者も多かろう。しかし、自己の過去の判断が誤りだと認めるのは容易なことではない。


 そして未だ――今朝吾君を除けば――多くの将校は、その趨勢を明らかにしていない状況だ。此処で一度部内に寝返った杉山君が、再度私の下へ帰参するのは……成程、悪くない。

 現役武官制の裏取引で負い目のある寺内君ですら中立を選ばざるを得ない状況下である今であれば、返り忠を働いている杉山君でも重用される可能性がある。


 確かに杉山君が今の陸軍部内を裏切る時機は此処しかない。それを的確に突くことが出来るのは、他の誰が評価せずとも私は評価しよう。


「……で、杉山君は職を辞した後はどうするつもりなのかね? あくまで現役にしがみ付くのか、予備役に編入するのを是とするのか」


 だが、それが個人的な信頼感へと繋がるかは別問題だ。流石に評価できる行動をしたとはいえ不信感を拭うのは容易ではない。


「可能であれば現役として奉公を続けたいと考えております。

 軍事参議官であろうと、僻地の師団長でも、要塞司令官でも何でも構いません」


 正直、私は似たような台詞を現役時代に他ならぬ寺内君から聞いているのである。その寺内君は、不本意ではあったとはいえ私に反旗を翻したのは確かだ。


 しかし、軍事参議官は高官の名誉職のようなものではあるが、帷幄上奏権を有するので下手をすると再び杉山君のことを中堅将校らが誑かす可能性があるから駄目だ。となると中央から飛ばすか、思い切って予備役に入れるしか無いが……。問題は杉山君自身は私が陸相時代は股肱の臣であったことだ。


 自らの副官として重用した人物を、自ら切り捨てるのは少々風評が悪い。いや必要とあれば多少の悪名は覚悟の上だが、これ以上陸軍部内を刺激するやり方は私としても避けたいのだ。

 中央から飛ばして杉山君を下手に遠ざけた場合でも、傀儡を欲しがる中堅将校らから杉山待望論が生じてしまえば同じことである。

 少なくとも杉山君は最低限の義理をこうして通してきている以上、手駒として取り扱った方が幾分マシである。


 ……ただ、癪なのはこれでは杉山君の読み通りなのだろう。最高の時機で自らを再度売り付けてきたというのはある意味では私の足元を見ている訳で。

 『どうせ、現役の有力カードである私のことを切り捨てられないだろう?』という意図が、無意識的か作為的なものかは分からないが含まれている。


「……よし、決めた。杉山君、どのような処分でも受け入れるか?」


 これは実質的には一択しか返答が用意されていない質問だ。


「……宇垣閣下のご意志であれば、何なりと」


「では、杉山君の次の職は『侍従武官長』だ。

 陛下の側に常時近侍し伝奏を担いなさい」



「はっ、……はい!?」


 その反応が見れただけでも、内心してやったりというものである。




 1月30日午後4時30分

 東京府麻布区広尾町 宇垣一成組閣本部応接室


「宇垣閣下……本当に宜しいので?」


 杉山君を退出させた後に、応接室の片付けをしている今朝吾君が私に問いかける。


「一体何がであるか」


「いや……杉山閣下を宮中に置くとは、随分思い切った決断をなされたな、と」


 この様子だと今朝吾君としては、予想外であったということだろうか。


「まあ、よく考えてみなさい。

 下手な職に就けると、要らぬ部内の細やかな動きに惑わされかねない。であれば、いっそのこと宮中で私の代弁者として居座ってくれた方が、腰を落ち着かせて物事に取り組めるはずだ」


 杉山君自身が前に語っていたことではあったが、彼の悪い所は明確に彼を担ぐ者が居ないことでかえって自らの行動を縛ってしまっていた点だ。

 だから、宮中という陸軍内部の動きが直接的に影響しにくい所に配置することで、改めて私の下で一元化する。選択肢を狭め与えられたものでやり繰りする才覚はあるのだから、此方の方がお互いにとって健全なのである。


「……ですが、杉山閣下と言えば外敵に対しては一貫して武力討伐を唱える対外強硬派。

 もし、戦争となれば宇垣閣下にとって不都合な上奏を執り行うやも……」



 今朝吾君が危惧していたのは、其処か。確かに、彼は満州事変でもそうだった。また二・二六事件の折には即時鎮圧を主張していたと伺っている。

 となれば、もし中華勢力と国境紛争が発生した場合に、作戦計画に基づく北支平定を主張する可能性はあり、それは私の構想とは真っ向から対立しているのは間違いない。


「――君なら出来るか? 陛下のご意志はあくまでも平和を唱えている現状で、同じくアングロサクソン国家と協調して事に当たろうとしている私の信任を裏切ってまで、今この場で切り捨てた陸軍部内の意見を汲み取った奏上がね。

 現在の後ろ盾は、私しか居ない状況で本当にそのような軽率な真似が?」


「……成程、ですが万が一ということもありますので」


「それに付け加えて言えば。

 私は確かに英米協調派であることは事実であるが、別に中華問題に対しては英米と共に当たれるのであれば、局地戦闘で一定の目途が立つと考えている。

 そして廣田さんに聞いた通り欧州情勢はドイツによって揺れに揺れるだろう。我が国を彼らに高く売る時機は必ず訪れる」


「つまり英米の信任が得られるのであれば、戦闘行動も辞さない……と。

 そしてその時には杉山閣下の強硬姿勢が役に立つと、そこまでお考えでしたか」


 まあ、それでも北支全域を戦闘に巻き込むような行動は慎んで欲しいが。それだけの大兵力を動かすとなると我が国の国力を削ぎかねない。


「それよりも今朝吾君。この杉山君の辞職話をどう見る?

 ある程度杉山君自身の意志と保身が垣間見えたとはいえ、彼の考えを利用した人物が居るだろう。

 大方、此方側が怪文書騒動で動揺している間隙を突いた行動に思えるが、この仕込みは……石原氏によって為されたものだろうか?」



 状況だけ見ると、ここで杉山君を利用して陸軍上層部と私の反応を見ることで最も利益が得られる人物を考えると、反宇垣の急先鋒たる石原莞爾氏ではあるのだが。

 石原氏のやり口については何分詳しくない。


 その点も含めて今朝吾君に問えば、彼はゆっくりと首を振った。



「……いえ。此度の動きは細やか過ぎます。

 軍略においては鮮やかに軽やかに策を練るのが石原大佐ですが、人の和や人心に左右される政略においてはここまで緻密なものを作るくらいなら対立を選びますので可能性は低いでしょう。


 むしろ、このやり方は……我が友であり陸軍次官である――梅津美治郎による遅延策と考えた方が納得がいきます」

※用語解説


宇垣一成と寺内壽一

 宇垣が陸相時代に、定期人事異動で寺内は予備役入りが決まっていたが、宇垣は寺内正毅という陸軍の大先輩の跡取りであることから辞令のみでは失礼と思い、当時直接呼び出して貴族院議員として奉公するように勇退を告げる。しかし、寺内は首を縦に降らずに「任地は由良でも澎湖島の要塞(要塞司令官は陸軍では高官の閑職)でも結構ですから、どうか一生陸軍に置いて頂きたい」と話したことで寺内を現役に留め置いたと宇垣側資料には残されている。

 宇垣はそのことを恩を売ったと考えていたが、寺内側が宇垣に対して恩義を感じていていたのかは不明。

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